| 第五回巡拝の旅 |
| 京都駅八条口(8:00)=<明石海峡大橋・大鳴門橋>=○小歩危峡=◎大歩危峡=(29)国分寺=(28)大日寺=(OP)龍馬歴史館/900en=土佐よさこい温泉<泊> お宿=(27)神峰寺=(26)金剛頂寺=(25)津照寺=(24)最御崎寺=◎室戸岬=別格C鯖大師本坊=<大鳴門橋・明石海峡大橋>=京都駅 |
| 行 程 |
| 二日間 |
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| 大歩危峡川下り乗り場 |
| 坂本龍馬歴史館 |
| 室戸岬 |
| 大師修行洞窟 |
| 第二十九番 札 所 |
| 国分寺 |
| ( こくぶんじ ) |
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天平13年(741)、聖武天皇の勅願により、行基が開基、聖武天皇自らが天下泰平 、五穀豊穣、万民豊楽を願って金光明最勝王経を書写して納めた。金堂の屋根は、樹齢150〜200年のさわらを使ったこけら葺と天平様式を思わせる奇棟造りが特徴的。明治37年(1904)には国の重要文化財に指定されている。金堂の中には貴重なものも多くある。まず、土佐で最古のものと考えられている金堂内部の海老紅梁(えびこうりょう)。これは室町時代の特色が見られる吹奇垂木を使用している。次に、金堂内の口径47cm、高さ63.8cm、重さ225kgの梵鐘。その形状から平安時代前期のものと考えられ、国の重要文化財に指定されている。 |
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| 第二十八番 札 所 |
| 大日寺 |
| ( だいにちじ ) |
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未世の人びとの利益を願い、境内の楠の木に爪で薬師如来彫られ、立木をそのまま奥の院となされた。楠の木は明治初年に倒されたが、その跡地に一堂を建立し霊木を安置している。以上が爪彫り薬師と呼ばれる由来であり、特に首から上の病に霊験ありといわれ信仰されている。 この奥の院は山門から一丁ほど奥にある。また、その堂の左側の岩窟より湧き出る清水は大師加持水として知られている。 明治初年の神仏分離令により廃寺となったが、本堂を大日堂と改称して本堂はそのまま祀っていた。再興されたのは明治十七年になってである。 |
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| 第二十七番 札 所 |
| 神峰寺 |
| ( こうのみねじ ) |
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約150段石段を上がりつめる神峰寺は、「真っ縦」というほど急勾配の山道が続く神峰山山頂にある。大同4年(809)に弘法大師が来錫され、諸堂を整えたが、神行皇后が戦勝を祈願して、天照大神など諸神を祀ったのがはじまりとされる。明治初期の神仏分離令で廃寺となり、本尊は金剛頂寺へ移されるが、その後復興。三菱財閥の創始者としても有名な岩崎弥太郎は、明治維新までは土佐藩の下級武士だった岩崎家出身の人物。実は弥太郎の母親は、息子の開運を祈願して神峰寺に熱心にお参りしたと伝わっている。仁王門から本堂へは長い石段が続く。その疲れを癒すかのように、両脇には美しい日本庭園が整備されている。 |
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| 第二十六番 札 所 |
| 金剛頂寺 |
| ( こんごうちょうじ ) |
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大同2年(807)勅願により弘法大師が開基した寺であり、俗に西寺といって24番の東寺と並称され、女人禁制の霊地であった。 本尊は大師の作。座像の薬師如来であり、完成すると自ら本堂の扉を開けて鎮座したと伝えれており、開基以来千数百年になるが、そのあいだ一度も人の目に触れたことがない秘仏である。 全盛期頃の寺は三千五百石を領有し、藩政時代は山内公の祈願所に定められ、その二代目藩主、忠義公の代には、七堂伽藍が完成したという。その七堂伽藍も明治三十三年の火災に遭って全山焼失した。現在の堂宇はそれ以後の再建である。 |
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| 第二十五番 札 所 |
| 津照寺 |
| ( しんしょうじ ) |
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慶長7年(1602)、航海をしていた初代土佐藩主。山内一豊は室津沖で嵐に遭う。その時、一人の僧が現れ、船の舵をとって、命を助けてくれた。翌日一豊が僧を追って行くと、寺にたどり着き、そこにはびしょ濡れの本尊が祀られてあったという。この話にちなんで、本尊の別名を「揖取地蔵」と言うようになった。125段の石段を登りきった高台に位置する境内からは、室戸の町を一望することができる。石段の正面に立つ本堂と大師堂は、周囲を万体の地蔵に守られるように立っている。石段の途中にある朱塗りの鐘楼門は、別名「仏の灯台」。その竜宮城のような様から、寺のシンボルともなっている。、 |
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| 第二十四番 札 所 |
| 最御崎寺 |
| ( ほつみさきじ ) |
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大師十九歳のとき室戸岬を訪れ、御蔵洞という海に面した暗い洞窟の中で求聞持の法を徹夜で修行された。そして、その徹夜が数日間に及んだとき、輝いていた明星が飛来して口中にはいりしことより、この地が仏法に悉地であると感得された。そこで大師は「法性の、室戸といえどわれ住めば、有為のなみかぜ、たたぬ日ぞなき」と詠まれたという。 その後、大同二年(807)唐の国より大望を果たして帰国した大師は、嵯峨天皇の勅願を奉じて再び室戸岬に訪れ伽藍を建立。 虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置した。 |
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