蒼の境界−2

 先程、ラウンジに来たときには気付かなかったが、薄暗いその奥の壁には扉が一枚くっついていたらしい。そのすぐ傍に立っている店員と何やら話しこんだ後、理奈は男の手をひっぱるようにして扉の中へと消えた。
 奥に部屋でもあるのか?
 思案している暇はなかった。こちらを妙な目で見ている店員の肩をポンと叩く。
「この奥、会員専用とかそういうとこ?」
 頷いたであろう店員の姿は見えなかった。俺が扉を開けたからだ。
 通路に入った瞬間に、後ろから慌てたような声が聞こえた。
 足音が追いかけてくる。五歩ほど歩いたところで肩をつかまれた。渋々振り向く。困ったような、怒ったような顔がそこにあった。
「すいませんが、こちらは会員様専用なので」
 上目遣いで見上げ、手まで揉んでいる。
 俺は黙ったまま、ライターを取り出し、口に咥えた煙草の先に火をつけた。通路の壁に凭れ掛かるようにして、蒼い息を吐き出す。
「困ったな。俺はこの奥に用事があるんだが」
 暗い照明の下で、店員の顔が険しいものへと変化する。何かを言い出そうとしたその唇にそっと人差し指を押し当て静止した。
 視界の隅、フロアへと続く扉の右上に赤く点滅する光が見えていた。恐らくは、監視用のカメラだろう――やれやれ。
 口元を僅かに歪ませ、にっ、と微笑みかけた。
 何らかの気配を察知したように、店員の顔が急速に強張ってゆく。その顔に突き出したままの人差し指を唇から、どこか怯えたような眼差しの、その数センチ手前へと移動させた。反射的に店員が身を引く。
 なぁに、怖がることはない。ほんの、ちょっとしたことだ……。
 右手の人差し指を、ゆっくりと左右に揺らす。
 自分でも気持ち悪くなるほど優しく、宥めるような声が唇から漏れていた。
「……お前には俺の声しか聞こえない。いいな?」
 あのカメラ、音声は録音しないだろうな。
 赤く瞬く光が忌々しい。だが、店員の見開いた目、その中の瞳孔がゆっくりとだが伸縮を始めるのに気づいて安堵した。どうやら、暗示にはかかりやすいほうらしい。
「会員様の顔を忘れたのか?俺もその中にいただろう、違ったか?」
 こちらに向けられた視線が揺れている。暗示にかかり始めた証拠だ。落ちそうになる瞼がピクピクと痙攣しては持ち上がる。
「ひどい店員だな。もしかして、俺の顔を忘れたとか?」
「……い・いいえ」
 戸惑うように、もぞもぞと唇が動いた。俺を見上げる、その顔にはおおよそ表情というものがない。能面のような、というのが正しいのだろうか。まぁ、俺にとってこの結果は、万々歳、なんだが。
「失礼しました。どうぞ、お通り下さい」
 いまいち呂律の回らない口調でそう告げ、店員はゆらりと一礼した。そのまま、扉のほうへと方向転換して歩き出す。フラフラとした足取りは、千鳥足の酔っ払いによく似ていた……苦笑を込めて眺めた後姿が、扉の向こう側へ消えるのを見届けてから、俺は通路の奥へと向き直った。向かって右側の壁に、扉がずらっと並んでいる。ざっと……10はあるだろうか。一つずつ開けて回るのはいかにも大変そうに思えた。
「さて、どうしたもんかな」
 吐き出した言葉は、蒼い煙とともに天井に向かって立ち上り、消えた。

◆ ◆ ◆

 同級生が三人連続で失踪した、その当日。
 帰り道の途中で立ち止まって、彼女は夕焼けを眺めていた。心ここにあらずといった目付きと、紺色の制服の小さな背中が印象的だった。
 短いスカートが翻る。こちらを見た、黒目がちの大きな瞳が俺の姿を捉えた。
「……誰?」
 声にこもっていたのは警戒心。
「綺麗な夕日だな」
 答えにならない言葉を言いながら、安心させるように微笑みかけてみた。
 だが、逆効果だったようだ。こちらに向けられた表情がみるみるうちに険しいものへと変化する。そして、一歩こちらに近づくと、射るような視線で俺を見上げた。
「夕日の話でナンパ?それとも私に何か用事でもあるの?――おじさん」
 ひややかに吐き出された台詞、だが、その中でも最後の言葉がかなり効いた。額に軽く手を当てる。高校生から見ると確かにそうなのかも知れないが……にしてもひどい話だ。
「……ナンパじゃない。それに俺はまだ25だ。おじさんはやめろ」
「あたしからすれば十分おじさんじゃない。変なことする人には見えないけど。で、何の用事?今から帰るトコなんだ。用事がないならさっさとどっか行って」
 制服姿は唇を尖らしてズケズケと言い放つ。その肩のはるか向こうで、空の色が、鮮やかな朱色から、紫に近い蒼へと変わりつつあった。地平線の彼方に消え行く光芒が、最後の光を投げかけている。眩しさに手をかざし、そして、低い声で告げた。
「――同級生が立て続けに消えたそうだな」
 小さく息を呑む音が聞こえ、少しの間が空く。
「……それがどうかしたの?」
 ためらうような声に先程の威勢はなかった。唐突に、スカートが翻る。
 再びこちらに向けられた背中は、先程より小さく見えた。
 その向こうの、はるか遠い空の色がじわりじわりと蒼く染め上げられてゆく。
「一応、名乗っておく。俺の名は下柘植 亘(しもつげ わたる)という。お前と同じ異能者として、一つ、忠告しておく。最初で最後だ――狩り過ぎるな」
 え?というような声が、背後から聞こえたような気がした。
 後ろから追いかけてくる気配はない。意味を理解したからだろう。恐らくは。
 
 人ならざる力。その力が発現し易い一族、というのは確かにいる。俺のような。
 だが、一族の血を引いていなくても、その力に目覚めてしまう人間が、ごくたまに存在する。
 片桐理奈のように。
 年齢・性別・本人の意思さえお構いなしに、ある日突然目覚める、人ならざる能力。
 傍迷惑な力。人間にとっては恐らくそうだろう。この力を持った異能者は人間の持つ生体エネルギーを糧にする。なので食事は必要ない。それに、多少、オーバーフロー気味に周囲の人間から吸い取っていると年を取らなくて済む。これは力に目覚めた恩恵といえるだろう。
 だが、力を吸い取られる側の人間はかなり疲弊する。下手をすれば気絶することになるが……まぁ、そんな程度の事は構わない。
 問題なのは、力を制御できず、もしくは力に溺れてしまった者が、犠牲者を出すことだ……彼女、片桐理奈の周囲ではそれが起こった。同級生三人の失踪。
 同じ力を持つ者としては、見過ごしていられなかった。
 社会の影の存在であるべきものが、世の中に知られるものになる……それは、人間を敵に回すことを意味する。敵に回った人間ほど、恐ろしいものはない。中世の魔女狩りのように、俺達は狩られることになるだろう。多すぎる犠牲は、世に俺達の存在を知らしめることになるのだ。即ち、境界線をはみ出そうとするものは、淘汰されなくてはならない。異能者が、自らの身を守るために。

 蒼い煙は、頼りなげにゆらめきながら天井へと立ち上り、やがて霧散する。
 新たに吐き出した煙を後ろにたなびかせ、俺は、通路の奥へと足を進めていた。視界の右手に扉が見えるたびに開けようかどうか躊躇して――やめた。店員はどうにかできても、カメラが俺の行動を監視しているのだ。下手に開けて中の人間とトラブルを起こしたくはない。
 何度目かの煙を吐き出したとき、嫌になるぐらい唐突に、それはやってきた。
 首の後ろがチリチリするような感覚――足を止める。
 ドアの表面にそっと耳をつけてみた。中から音はしない。
 ノブに手をかけ、まわして引く。鍵はかかっていなかった。
 小さなポーチ。向かって右側にはヤシのような観葉植物が立っていた。
 その奥に、カラオケの一室のような、狭い部屋が見えている。
 右手の壁際に置かれた小さな台の上に液晶TV。それに向かい合うようにして大きなカウチソファが置かれていた。その間に挟まれるようにして男女が立っている。先程、ダンスフロアで踊っていた時のように。
 だが。
 男の上半身が、唐突にぐらり、と揺れた。
 糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。
 女は、床の男から目を上げると、ゆっくりと視線を移動させ、こちらを見た。
 赤い唇が小さく呟く。俺のことを認めたくないように。
「……下柘植……亘?」
 呆然と見開かれた瞳を見ながら、俺は口に咥えた煙草をくゆらせた。
 軽く微笑む。
「名前を覚えていてくれたとは。光栄だね」
「来ないで!」
 切迫した口調で、鋭く言い放つ。
「つれないな。それにしても、週末のこんな時間に、ここにいてもいい訳?お店は?年齢がばれる前に別のことで辞めさせられた?もしかして」
 返事のかわりにクッションが飛んできた。上体を動かしてそれをかわし、続ける。
「……ま、お店の上客が5人揃って行方不明になれば追い出されるかもな。それも、君が接客した後に……だから当然も当然、仕方ないか」
 どうでもいいように呟きながら、彼女との差をじわりじわりと詰めて行く。再び飛んできた何かをひょいとかわすと、途端に後ろで派手な音が上がった。花瓶だったらしい。
「一年間でスナックの客5人。身辺で姿を消した人間、およそ7人。それに高校時代の同級生3人――」
 言いながら、床に倒れた男をまたぎ、ついでに短くなった煙草をテーブルの上に乗っていた灰皿でもみ消す。
「――まとめて15人。でもって皆、帰ってこない」
 抗うように右手が突き出された。その手首の辺りを掴むと、壁に押し付ける。悲鳴は上がらなかった。代わりに、非難がましい眼差しがこちらに向けられる。長い付け睫毛と派手なアイシャドウで縁取られたそれは、人形の目のように丸く、大きい。
 少し目を伏せ、そして再び視線を合わせる。そして、あくまでも優しい口調で、
「あの時、狩り過ぎるな、と、言ったはずだ」
 言葉が終わらないうちに、理奈は空いている左手を俺の胸に叩き付けた。押しのけようとするかのように何度も何度も殴りつけ、頑として動かないのを知ると、諦めたようにうなだれる。怨嗟のような声。
「……飢えが、我慢できなかったのよ……」
「……で、殺してしまった?吸い尽くしてしまった?――もし俺ならば、一人殺したとして、三ヶ月はもつ。それに、飢えを凌ぐ為なら、何も殺す必要はなかったはずだ。お前は、自分の欲望を抑えられなかった、そうじゃないのか?」
 責め立てるような口調だったわけじゃない。だが、こくり、と震えるように頷いてから上がったその顔はくしゃくしゃに歪んでいた。大きな瞳が、じわり、と潤む。胸がちくりと痛んだ。目の前の女に涙を流させたことと、これから自分がしようとしている行為に。
「所詮、好きで目覚めた力じゃない。それは俺だって同じだ。だが、力を制御するのは自分自身。違うか?目の前の相手を、殺すも、殺さないも……自分次第、だ」
 彼女は口をつぐんだまま、何も言わない。ただ、すがるような表情の中で、目尻に溜まった透明の雫が、頬を伝って流れ落ちるのが見えた。可哀相にな、と心の中で呟き、白い頬にそっと触れる。暖かい。
「あの時、最初で最後だと、そう告げたはずだ……境界線を乱すものは――」
 顔を覗き込むようにして、言い放つ。あくまでも穏やかに。
「――放っておけない……ごめんな」
 徐々に強張ってゆく表情の中の、見開かれた目の中に浮かんでいるのは、恐怖。
 そこから視線を逸らさずに、もう一度、心の中で呟いた。
 ごめんな。
 そして、掴んでいた手首を離し、小刻みに震える肩を両腕で包み込む。
 優しく。だが、逃がさないように。
 密着した部分から暖かさが伝わってくる……それは彼女の身体に溢れる生命力。ゆっくりとたゆといながら、手の平から俺の内へと引き込まれ、腕、胴体、足の先へと染み渡ってゆく。酔いそうになるほどの心地よい感覚が全身を包み込むまで、そう時間はかからなかった。理奈はこの感覚に溺れたのだろう――きっと。その気持ちは俺にも判らなくはない。だが、限度を見失うことは、即ち、相手の死を意味する。決して、忘れてはいけない――。
 腕の中で、理奈が声なき声を上げながら、もがくように腕をばたつかせた。必死そのものの表情は、時間が経つに連れて徐々に色を失ってゆく……。
 黒い瞳が艶を失い、ふっくらとした頬がへこむ様は、風船がしぼんでゆくその過程のようだった。茶色く染めた髪の根元、染まっていない黒い部分が白茶けた色に変わり、やがて、はらりとまとめて抜け落ちる。
 その様子を、目を逸らさずに見ていた。
「ごめんな」
 哀悼の意を込めて呟いた言葉は、多分、もう届かない。
 両腕に力を加える。
 発砲スチロールのように軽く、質量を減らした理奈の身体はあっさりと砕け散った。目の前を灰燼が舞う。彼女の残骸。床に置かれたブーツの上に、纏っていた服がはらりと落ち、最後に涙の雫のようなきらめきが落ちていった。コンタクトだろうか。
 人が一人消えた場所を、もう一度眺め、溜息のように呟いた。
「やれやれ」
 言いながら、ジャケットに付着した、白とも茶色ともいえない埃を払う。
 そして、ポケットから抜き出した、新しい煙草に火をつけた。
 蒼い煙を吐き出し、床に転がった男に目を向ける。最後の犠牲者。そばに膝をつき、頬のこけた、その口元に手をかざす。喜ぶべきかな、息はあるようだった。目を覚まして、連れの女が身につけていたものを全て残して姿を消したことを知ると、どうするだろう?……まぁ、そこまでは、俺の知ったことじゃない。
 ポケットに手を突っ込み、立ち上がって、咥えた煙草をくゆらせる。
 疲れたな。
 身体には、先程取り入れたはずの力がみなぎっているはずだった。だが、その周りに薄い膜のような倦怠感がまとわりついている。
 途方もなく、昏い色をしたそれを振り払うように、足を踏み出した。

◆ ◆ ◆

 ドアを開けると、真正面の壁に軽く足を組んだ男が凭れ掛かっていた。
 黒の革のパンツに、同系色の薄手のセーター。手にジャンバーをぶら下げている。
 全身黒尽くめ。
 だが、それがよく似合う男は、身体を起こすと、皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
 シオン。
 薄く微笑んで、声をかける。  
「……踊りにきたのか?」
 肩を並べるようにして歩き出す。
「まぁ、そんなところだ」
「そうか。ところで、ここは会員専用らしいぞ。どうやって入った?」
 ちらり、とこちらに向けられた藍色の瞳は、どこか愉しげだった。 
「特別会員とかいうヤツだ。こういうところに出入りしてると、味は不味いが、よく釣れる」
 やれやれ。こんな所で餌を釣ってるって訳か。
 とことん女好きの吸血鬼だな。
 まぁ、人のことは言えないか。俺も、野郎よりは女の方がいい。
 女。女ね……。
 理奈の顔がふっと頭をよぎった。彼女に対して告げた言葉と共に。
 あの言葉は、俺自身にも向けられたものだ。
 差し出される誘惑はいつも、限りなく……甘い。
 俺だって、いつかはそれに溺れてしまう日が来るかもしれない。
 もし、その時は――。
 ちらりと横を見る。鋭い瞳がこちらを見ていた。
 軽く笑ってみせ、そして、
「俺がもし、境界線を越えるようなことがあったら、宜しくな」
「そういう役はごめんだ」
 そっけない返事はすぐに返ってきた。
 相変わらずの反応に、思わず苦笑が漏れる。
 ムッとした気配を隣から感じたが、構わずに前の扉を開けた。
 こちらに向けて降り注ぐ蒼い光は、一年前のあの日の黄昏の色。
 だが、もうそこに、制服姿の女の子は……いない。

<fin>

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