蒼の境界−1

 一歩足を進める度に、足の裏でたわんだ板が金切り声を上げる。
 女の悲鳴にも似たその音は、あまりに耳障りで、聞き慣れているはずのこの俺でさえ思わず眉をしかめてしまうほどだ。
 古いのか、単に立て付けが悪いのだけなのか、詳しいことはよく知らない。
 俺が知っているのは、このアパートの一階、今歩いているこの廊下のもっとも奥まった部屋――隣に建っているビルの陰になって、多分、このアパート中でも一番日当たりが悪いと思われる、その部屋に知り合いが住んでいる、ということ。
 いや。
 ニュアンス的に“住んでいる”というよりは“棲んでいる”の方が正しいような?
 思わず、苦笑していた。
 暫くこの街を離れていたので、顔をあわせるのは久し振りのことになる。
 相変わらず、この近辺で“狩って”いるのだろうか。
 扉の前で足を止めた。やや傷の目立つ、その表面に表札らしきものは見当たらない。
 皮のジャケットのポケットから手を抜き出すと、鈍色のドアノブを握る。
 冷たい感触とともに、ふっ、と嫌な感じが脳裏をよぎった。
 いわゆる、勘って奴だ。
 だが、構わずにドアを押し開ける。
 部屋の中に満ちていたのは闇。
 そして、
 女の切なげな喘ぎ声。
 苦しそう、とか、辛そう、とかそういうのじゃない。
 気持ちよさそうな……アレだ。
 たまたま運が悪かったのか、今日の日付が悪かったのか、訪れた時間帯が悪かったのか……何にせよ、最悪のタイミングには違いないだろう。
 案の定、薄闇の奥からこちらに向けて発せられた声は、どことなく不機嫌そうだった。
「……取り込み中なんだが」
 明らかに女のものではない、僅かにハスキーがかった男の声。
 その脇で、再び女の吐息のような声が漏れ、そこで繰り広げられているであろう光景が自然と目に浮かぶ。諦め加減の溜息がついて出た。
 その辺にしとけよ、とでも言いたくなる衝動を無理やり押さえ込み、部屋の奥に向かって控えめに声をかける。なにせ、知り合いとはいえ、怒らせるとまずい相手だ。
「シオン。悪いんだが、ちょっと聞きたいことがある」
「待て」
 そっけない返事。だが、怒ってはいないらしい。
 もし、本当に機嫌を損ねてしまったのなら、今頃、このアパート自体から追い出されているはずだ。
 部屋の奥、見えないその場所で身じろぎする気配がした。そして、ひたひたと、裸足のような足音がこちらに向かって近づいてくる。一緒に流れてきた空気は、鉄錆のような匂いがした。
 ドアをもう少し押し開ける。
 床に落ちていた細長い光が、太い帯へと姿を変え、その上に若い男が立っていた。上半身は裸、下にはジーンズといった格好。黒くて艶やかな髪は短く、その下の瞳は廊下から入り込む蛍光灯の光を厭うように細められている。
 その背後――ベッドの上に投げ出されるようにして、白いふくらはぎが見えていた。青いミニスカートから覗く生々しい太股の表面を、赤い糸のような筋がまるで生き物のようにうねっている。血。
 夜目はあまり利かないほうだが、赤い色がやけに鮮明で、それだけに痛々しい。
 だが、当の本人は大方、催眠術でもかけられているのだろう。動く様子がない。
 視線を手前に移す。
「すまんな。食事中に」
 短髪の男――シオンは一つ息を吐き出すと、だるそうに首を交互に曲げ、
「手短にな」
 言ったものの、俺との間に距離を置き、それ以上近づいてこようとはしない。
「話しにくいだろ?もうちょっとこっちに来いよ」
「おまえの傍によると……疲れる。それに――」
 言葉を切った唇が笑いの形に歪む。だが、黒に近い、その青い瞳は笑っていない。
「俺に聞きたいことというのも、その目的も……どうせ、ロクなもんじゃないんだろ?」
 思わず肩をすくめた。図星だった。用件を切り出すことにする。
「……理奈の行方を聞きたい。ここのところ見かけた場所、出来れば、時間も」
 理奈。片桐理奈(かたぎり りな)。一年前は、高校生だった。当時の外見は、いわば、今時の高校生然。その中でもどちらかといえば、派手な方に入るだろう。茶髪にピアス、ネイルアート。だが、今現在の姿は見たことがない。まぁ、さほど変わっていないだろうと、勝手に判断する。俺が確実に知っているのは、徐々に悪いものへと変わって行く、彼女の噂だけだ。
「やっぱり、そう来たか」
 低い声を吐き出すなり、シオンはくるりと踵を返した。
「おい」 
 背中を追うように声をかけると、応えるように右手があがった。そして、いかにも億劫だといわんばかりに、首から上だけをこちらに向ける。
「――先週末に見かけた。駅の裏手に最近できたビルがあるのを知らないか?その地下にクラブがある。名前は……忘れたが」
 奥へと去り行く後姿に、有難う、とだけ告げてドアを閉じた。
 部屋の中に再び闇が落ちる。

◆ ◆ ◆

 クラブの名前は“AQUA”と言うらしい。なんでも、蒼を基調にした照明がウリなのだとか。もともとは駅前通りからちょっと外れた位置にあった店なのだが、駅の裏手に新しくビルが建ったのを期に店舗を移転した、ということらしい。
 らしい、ばかりだが、普段こういった類の店に入る機会がないので仕方がない。
 俺が夜中に好んで行く店なんて、せいぜい居酒屋とかバーとか、そんなもんだ。大体、今日だってどういう格好で出向けばいいのやらわからず、結局、いつもと同じ格好になった。濃い灰色のタートルのニットシャツにスラックス、勿論、これだけでは寒いので上から皮のコートを羽織り……こないだと同じだ。その辺にあったものを適当に着ただけ、というか。自慢にはならないが、俺はそんなに外見に気を使うほうではない。
 時刻は夜の十時を過ぎた辺りだった。空は暗いが、周囲は昼のように明るい。
 その中でも、ひときわ賑やかな駅前通りを俺は歩いていた。週末で人数を増やした人間の隙間を早足ですり抜けながら、照明の落ちたショーウィンドゥにちらりと目を向ける。暗く沈んだ中にマネキンがぼんやりと浮かんでいる様子が、やけに白く、寒々しかった。空気が一段と冷えたような気がして、タートルの襟をぐいっと引っ張り上げ、右手へと折れる。人気のない薄暗い路地。鼻をつく、生ゴミのような匂いに更に足を速め、駅の裏手へと通り抜ける。暫く行ったところで足を止めた。
 空を仰ぐように見上げる。
 白くそびえる建物の、その先端は暗い空に呑み込まれていた。シオンが告げた新しいビルというのはこれだろうか。コンクリートの壁面は、夜目にも白く、新しいように見えた。その前で、流行りか何かは知らないが、妙な格好をした若いのが二、三たむろしている。意味のなさそうな会話で盛り上がる様を横目で見ながら、ビルの正面わきのアーチをくぐりぬけ、その先のエレベーターに滑り込む。
 B1Fの表示のところに“AQUA”とあるのを一瞥した後、ポケットから煙草を一本抜き出した。それを口に咥えた途端に、チン、という涼しい音。手の中のライターをポケットにねじこむ。正面で扉が左右に開くのを、顔をしかめて眺めた。
 耳に入ってきた音楽が好みじゃなかったからだ。
 これからもっと聴くことになるのだから……たまらない。
 茶色い大理石で作られた小奇麗なエントランスを越えると、がらんとしたロッカールームに出た。特に用事もないのでさっさと通り抜ける。前を遮っている分厚いカーテンをひょいと片手で持ち上げ――その途端。
 重低音が腹に響いた。目の前に広がる空間、そこに満ちる空気の色に、思わず目を細める。黄昏時……夜に移り変わる手前のあの色とどことなく似ていた。蒼茫の蒼い色。
 だが、やっぱり、流れる音楽は趣味じゃない。
 さて。
 歩きながら前のカウンターに目をやった。一瞬、その後ろの壁に並べられた色とりどりのガラスの瓶に視線が吸い寄せられる。だが、残念ながら飲みに来たわけじゃない。
 少し未練を残しながら通路を左に折れると、一気に人間の数が増えた。ダンスフロア。この店の中心であり、一番広いスペース。足元の床がぶるぶると震えていた。
 気楽そうに踊っていやがる。
 どこか醒めた目線で一瞥して、店の一番奥、ラウンジへと足を向ける。
 フロアと壁一枚で隔てられたそこは、案外、静かな場所だった。蒼い照明の中、黒でまとめられたテーブルやソファが並んでおり、グラスを片手に数人の男女が談笑している。ぐるりと回ってみたが、それらしいのは見当たらない。
 片桐理奈。俺が彼女に会ったのは一年前。
 黒目がちな目が印象的な、美人というよりは可愛いタイプ。
 記憶の中の彼女は、肩ぐらいの長さの茶色い髪を柔らかく内側に巻いていた。
 まぁ、女の事だ。きっと髪型は変わっているだろう。
 もう一度、念入りに辺りを見回した後、ダンスフロアへと踵を返す。
 最後に残しておいたのは、一番厄介な場所だった。
 大勢の人間が音に合わせ、それ自体がまるで巨大な生き物のようにうねくっている。その周囲でゆっくり足を進めながら、注意深く視線を走らせた。
 この中に彼女がいる、という確証はない。
 だが、多分……いる。
 少なくとも、俺が彼女の立場なら、何度か同じ場所に通うはずだ。
 そして、目当ての人物に近寄り、それっぽい会話をして仲良くなり――後は……。
 天井からぶらさがった巨大なミラーボールがぐるぐると回りながら、あちこちに銀色の光を投げかけている。不意に目に入ったその眩しさに、左手を目の前にかざす。と、横にせばめられた視界の中に……いた。
 面影は一年前と変わっていなかった。茶色い頭の、その髪の毛は少し短くなっていたが。
 アニマルプリントのミニタイト。白くふんわりとした半袖のセーター。そこから覗く腕と、すらりと伸びた足のロングブーツが音楽に合せて軽快に動いていた。
 向かい合って踊っている男ににっこりと微笑みかけている。
 あれが、獲物か。
 どちらかというと細めの体型の男は、Tシャツとジーンズを身につけていた。どういったらああなるんだろうというような、妙な具合の髪形をしている。あれも流行ってヤツなんだろうか。どうでもいいが、セットに困りそうだ。
 などと考えながら、フロアに足を踏み入れる。と。
 不意に、横手から男が踊りながら飛び出した。ぶつかる寸前で、身をよじるようにしてかわす。ほんの一瞬の出来事だった。だが、先程まで視界の中にあったはずの姿が忽然と消えている。一緒にいたはずの男もまた。
 フロアの中心辺りで、慌てて周囲を見回す。いつの間に抜け出したのか、ラウンジの方へと進んでいく白いセーターの後姿が見えた。
 こちらを奇異な目で見ている数人の人間を乱暴に押しのけ、小走りに走り出す。
 煙の出ていない煙草を咥えたまま。

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