平将門          越前・若狭紀行
           地図案内        TOPへ      
   平国香(たいらのくにか 、良望、?〜935年 (承平 5))は平安時代の武将で本名は良望 (よしもち)。桓武天皇の孫(又は曾孫)・高望王(平高望)の長男で桓武天皇から4(5)代目である。常陸、下総、下野などで勢力を持った東国の坂東平氏の中心人物であるが、所領に関する一族の内紛で弟・良将(よしまさ、良持とも言う)の子・将門に斬られ将門の乱の発端となった。この時代は古代からの兄弟相続とその後に中国から入った儒教の影響を受けた父子相続の慣行が両存して、亡くなった父(良将)の遺産相続をしたかった将門は3人のおじ達(貞盛)との戦いになった。
 
 平国香の子が貞盛でその子が伊勢平氏の祖である維衡(これひら、?〜?)に繋がり、そこから
平清盛(1118〜1181)が出た。清盛は国香から数えて8代目になる。
 
平将門(たいらのまさかど、903?〜940年)の乱は同時に瀬戸内海で起こった藤原純友の乱とともに承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん))、あるいは天慶の乱と言われる。比叡山の将門岩の上で、将門は天皇家の出だから天皇に、純友は藤原の出だから関白になって天下を治めようと若い二人が誓い合ったという『大鏡』の記録はよく知られている。
 
 東西の乱に挟まれて、都の貴族たちは大きな衝撃を受け都では正月行事を取りやめた。下総北部を地盤とする将門は935年以来,常陸西部の一族の平国香,平貞盛らと合戦を繰り返していたが、弟らを伊豆や関東8カ国の国守に任じ、京の第61代朱雀天皇に対して新皇と名乗った。将門の乱は継体王朝下での磐井の乱以来の国家的大乱である。政治的構想がなかったとも言われるが一方では約200年後の源頼朝らの鎌倉での政権樹立の先駆と評価される。
 
 940年、将門の乱は3 ヵ月で鎮圧されたが大規模な地方反乱として大きな影響を残し、特に将門を敗死させて乱の平定に貢献した藤原秀郷、将門の従兄弟の平貞盛らが朝廷からの恩賞として四位,五位の官位で受領とされた。彼らは当時まだ身分の低かった武士でありながら代々中央貴族の家柄として厚遇され,地方で武士団を組織して反乱があれば鎮圧する
武士の棟梁となって日本史の表舞台に上りつつあった。  

 京都より下向着任した国司には農民への温情がなく、私利私欲を追求する税の取り立ては苛斂誅求を極めるた。そういう国司を襲撃した将門の武勇は将門伝説となって1000余年を経た現代へ語り継がれている。            参考文献  世界大百科事典(平凡社) 
   将門塚のあるこの地は古くは芝崎村と言われていた。皇居に近く周囲は三和銀行本店、長銀本店、興銀本店、三井物産、気象庁、消防庁、富士銀行本店などに取り囲まれた東京の真ん中。関東大震災直後に大蔵省の敷地内にあったこの首塚を移転しようとした矢先に大蔵大臣や工事関係者ら16人が謎の死を遂げた。戦後GHQが移転工事を始めると、又も工事関係者が死亡した。以後、将門の祟りと恐れられるようになり将門塚の移転を言う人はいない。
  左側の石塔は1307年真教上人が建立したとされ、今も将門を東国の英雄と仰ぐ人達の捧げる花が絶えない。場所は東京のど真ん中、と言うより日本のど真ん中であり皇居は近い。    
                       将門塚  東京都千代田区大手前1丁目1番地1号   1999年8月3日撮影