家紋    越前・若狭紀行
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  佐々木氏は全国にいくつかの流れがあるようだが、よく知られている宇多源氏(近江源氏)は宇多天皇の第8王子・敦実(あつみ)親王に始まり、親王から4代目に当たる成頼が近江国蒲生郡佐々木郷に定住し、その後の経方から佐々木姓を名乗るようになった。その佐々木氏は大いに繁栄し子孫は各地に広がった。佐々木氏から亀井、建部、朽木、京極、伊吹、小谷、高島、川島、六角、等が出た。彼らは居住地の名を取って名字にしたので佐々木氏支流はたくさん挙げられる。その佐々木一族の代表的家紋が目結紋(めゆいもんである。
 尚、
源氏は祖とする天皇別に21流派がある。

  目結紋の歴史は古く、インドで発祥し奈良時代に唐から日本に伝来したとされる。古い歴史を持つ目結紋は目の数によって一つ目結から一六目結までに大別され、目結紋は細かく331(千鹿野茂,、日本家紋総鑑、角川書店)に区分される。

 武士が一族の目印に紋章を使い始めたのは保元、平治の乱の頃とされる。その後、蒙古襲来により戦場で武士が独自の家紋を持つ事が不可欠になり武家は一族ごとに家紋をつけた軍旗を掲げてその下で行動した。目結紋は鎌倉時代には良く知られた家紋として広がり佐々木氏以外にも採用した武家があった。『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞とも)で知られる竹崎季長(たけざきすえなが、1246〜?)は三つ目結に吉文字、少弐経資(しょうにつねすけ、1229〜1292)は四つ目結を用いたとされ『蒙古襲来絵詞』には四つ目結いを描いた軍旗が見える。このように互いに無関係な氏族なのに同じ家紋を使った例は時々見られる。京都の神社仏閣が皇室との特別に深い関係から菊紋を使うのを許されたり、徳川家でない氏族が徳永寺(三重県)のように特別の縁から葵紋を下賜されるなど、家紋によって親族が確定できるわけではない。よく知られている徳川家の葵紋は家康の代から後になると少しずつ変わり派生種までも合わせると100を超える葵紋がある。菊紋は後鳥羽天皇が菊花を好んだために皇室の紋章として発展し派生種まで含めて150以上に及ぶ。
 わが国初の紋章の専門書とされる室町時代の『見聞諸家紋』には255種程の紋が記録されている。江戸時代になると原形は更に増えて350種程度となり、その後も様々な派生種が考案されて今では20000種以上とされる。

 
家紋は20000、名字は10数万ともいわれ、佐々木姓を名乗る人は現在でも数十万人はいるだろうし過去に佐々木姓を名乗った人達は数え切れないだろうが、細かな種類、形状まで家紋と名字が一致する事実は無視できない。

 高善寺の家紋をつけた陣笠