味真野   万葉の里味真野苑  越前・若狭紀行
     地図案内   TOPへ
                                                                               
   
 
  万葉集巻十五の目録に「中臣朝臣宅守は蔵部女嬬・狭野茅上娘子を娶った時、勅によって流罪に断じられ越前国に配される。ここに夫婦、別れ易く会い難きを相嘆き各々悲しみを述べる。贈答歌六十三首」と記されている。中臣宅守(なかとみのやかもり、生没年不明)は奈良の都で別れて暮らす妻の蔵部女嬬(くらべにょじゅ)・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ、茅上娘子という説もある、生没年不明)と熱い恋心を込めた短歌をやり取りした。娘子は地方豪族から後宮に派遣された美貌で聡明な女性で伊勢神宮関連の事務をする役所の下級女官として雑役を担当した。幾首もの秀歌を残しており周囲からは相当に注目される存在だったようだ。 63首の内訳は宅守が40首、娘子が23首で万葉集の代表的な女性歌人の一人として率直で情熱的な歌を残した。この時代に名前が伝わる女性は少ない。やり取りした恋の贈答歌の故で『日本人名大辞典』(講談社)に名前が刻まれる有名人となり1300年経た現代に彼らの恋心が伝わってくる。二人のおかげで葉集には福井関連の歌が百首ほど記載された。

 君が行く道の長手を繰りたたね 焼きほろぼさむ 天の火もがも(娘子)
 帰りける 人来れりと言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて(娘子)
 あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし(娘子)
 あおによし 奈良の大路は行きよけど この山道は行き悪しかりけり(宅守)
 かしこみと のらずありしを み越路の たむけに立ちて 妹が名のりつ(宅守)

 逢はむ日を その日と知らず 常闇(とこやみ)に いづれの日まで 我(あれ)恋ひ居らむ(宅守)

 味真野に流されたのは母も妻も藤原氏という聖武天皇の御代で藤原氏全盛の時代だった。勢いのある藤原氏の何某と恋争いの末に美人で聡明な娘子を得た恨みを宅守が買ったのだろうか、というような憶測も出るのだが流罪の理由は全く分からない。「...娶った時...」と書かれており娶った事と書かれているわけではない。仕事のミスだったかも知れない。宅守が流人として味真野で過ごしたのは739年(天平11年)2月26日から741年(天平13年)9月8日の間の2年間とされる(真柄甚松説)。流された越前国府(武生)は奈良の都からそれ程遠くないので宅守の罪は重くなかった。741年大赦で帰京し763年に従六位上から従五位下になり貴族の末席に連なった。
 宅守はその後、
藤原仲麻呂の乱(764年)に連座して除名され普通の庶民にされて以後の消息は伝わらない。仲麻呂はその子・藤原辛加知(からかち、しかち)が越前国司だったので再起を図ろうと越前に入ろうとしたが、乱は平定され仲麻呂も辛加知も斬殺された。

 奈良時代の歌人、公卿で万葉集の編者とされる大伴家持(718〜785、大伴の旅人の長男)は746年から751年まで5年余を越中守に就き万葉集に最多の和歌(短歌432首、長歌46首)を残した。
都育ちの家持は29歳の若さで赴任した越中の風情に心打たれ「越中万葉」と称される223首の歌を残した。      参考資料雨晴海岸 

   ご案内参考資料 福井県史 中臣宅守と狭野茅上娘子      参考資料 福井県史 紫式部  万葉の里味真野苑(外部サイト)