丹波七福神めぐり

 お正月に七福神めぐりをするとご利益があるといわれています。亀岡にも『丹波七福神めぐり』というのがあります。亀岡市の東部・保津町から千歳町の七ヶ寺を巡ります。道中には丹波一の宮・出雲大神宮や元愛宕神社もあり、ご利益間違い無しですよ。
 その七福神ですが、始まりは何なんでしょう。今の社会情勢に似ていて、京の都が不安な時代に、庶民の心のよりどころとしてはじまったようです。時代は繰り返す、温故知新ではないですが、この経済危機を契機に「日本人の心が貧している」と悟った人が多いのではないでしょうか。この機会に宗教、道徳、信仰心というものを考えてみてはどうでしょう。

七福神の始まり

 室町時代の応仁の乱(1467〜1477)で京の町が疲弊していた頃、町民たちが貧困で苦しんでいるなか、福を求めて始まったとされています。「七福神」とは「仁王護国般若波羅密教」というお経の中にある「七難即滅、七福即生」からの由来といわれています。
 七福神が世に出てくる最も古い記録は、京の町に七福神の恰好をした盗賊が豪商に押し入ったところ、『七福神とは縁起がいい』といって喜んでお金を持たせた、盗賊はそのお金を貧困を極めている町民に配った、という話があります。また、当時栄えていた大阪・堺の豪商の妻たちに七福神の面を付けてもらい、疲弊した京都の商人たちに会いに行ってもらい、福を得ようとしたことが記録に残っています。

宝船と七福神めぐり
  宝船に乗った七福神をよく見ます。宝船は、宝を満載した船の絵を大晦日の板に枕元に敷き、よい初夢を見ようという風習が江戸時代にはやりました。また正月には縁起の良い七福神詣りがはやり、いつのまにか七福神が宝船に乗ったようです。  宝船の絵を最初にもらい、七福神をめぐり一つ一つ船に乗せていき七福神宝船を完成させるのが七福神巡りだそうです。
 七福神の回文というのがあります上から読んでも下から読んでも同じ文章で、続けて3回読んでから眠ると良い夢が見られるそうです
 なかきよの とおのねふりの みなめざめ なみのりふねの おとのよきかな」 (長き世の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り舟の 音の良きかな)

七福神の創始者
 全国七福神連合会顧問の一色史彦氏の著書「七福神の創始者」によると、その創始者は「一休」さんじゃないかと仮説を立てています。(あくまでも仮説です)
 応仁の乱のさなか、一休さんは京の町に住んでいて貧困にあえぐ庶民を目の当たりにしており、七福の盗賊という洒落たトンチを考えたに違いない、また、一休さんが応仁の乱で焼けた大徳寺を再建した折りには、堺の豪商から財を集めたといわれており、堺の商人たちとの繋がりが強く、七福神の行列を仕掛けたに違いないというこということです。一色氏は、七福神信仰は日本人の心にあっている、神教と仏教が融合しており、海外の神とも力を合わせ、自分だけ福になるのではなく、より多くの人に福をもたらそうという心の広さが七福神のすばらしいところだと力説されています。

  話は違いますが、湯川秀樹と上田正昭先生の対談のなかで、日本の2大発明として「風呂敷と七福神」をあげられ、いずれも室町時代に生まれたすばらしいものだという話がありました。 

七福の神の構成
 当時人気の福の神であった西宮の恵比寿、比叡山の三面大黒天、竹生島の弁財天女、鞍馬の毘沙門天を中心に寿老人、福禄寿に布袋和尚を加えて七福神とされました。
 その構成は日本1 インド3、中国3で、うち女性が一人実在の人物が一人です。

丹波七福神
 神応寺から東光寺まで約5kmのコースです。
毘沙門天(神応寺)勝負事の神。無料福徳 (インド)
布袋和尚(養仙寺)福徳円満、家内安全子どもの守神。唯一実在していた (中国)
大黒天(蔵宝寺)福徳利益。食べ物の神様、農業の神(インド)
弁財天(金光寺)学問と財福の神、七福神中唯一の女性、音楽・芸の神 (インド)
恵比寿(耕雲寺)厄除け壌災富貴如意、商売の神(日本)
寿老人(極楽寺)長寿、成就と幸福の神 (中国)
福禄寿(東光寺)人生円満、福徳・長寿の神 (中国)
  参考文献 七福神信仰事典(宮崎登編)、
       七福神の創作者(一色史彦)、他。