丹波国分寺   

 国分寺は聖武天皇が741年全国に詔勅を出し、五穀豊穣・国家鎮護のため、国分尼寺と共に各国ごとに建立された寺で、奈良の東大寺は総国分寺です。
 当時の丹波国の中心地であったと思われるここ千歳町国分に、山陰古道に面して国の華として七重塔が燦然と輝いていたのでしょう。

 国分寺の境内は南北247m東西243mのほぼ正方形をしていたと推定されます。創建当時の落慶想像図(丹波国分寺・亀岡市教育委員会編集より)を見てみると、中門をくぐると東に七重塔、西に金堂が置され、正面奥に本堂(講堂)があります。ほかに鐘楼、経蔵、僧房などが中門からつながる回廊(一辺138m四方)の内側に建てられていたものと考えられています。当時の基礎から金堂は幅25m、七重塔は幅16m、講堂は幅36mあったようです。鐘楼は、その中に鐘が作られた鋳造跡があり、その上に鐘楼を建てたようで、鐘を作りそのまま吊り上げたようです(現在の鐘楼とは場所が違う)。

 続日本紀には『天下の諸国をして各七重塔一区をみやまい造らしめ、・・・、その造塔の寺は兼ねて国華とせむ。必ず好き処をえらびて、実に久しく長かるべし。』とあり、国分寺を国の華として大事にせよと聖武天皇が各国に詔されています。奈良時代の丹波国の中心地に、このような絢爛豪華な国分寺が建っていたのです。
 その後焼失し、平安時代から鎌倉時代に再建されましたが、明智光秀が亀山城築造の頃に焼失荒廃しました。現在の本堂は1780年頃、護勇比丘が全国から浄財を集め建立したものです。






丹波国分寺 落慶想像図(冊子「丹波国分寺」・亀岡市教育委員会編集より)



丹波国分寺遺跡構配置図(冊子「丹波国分寺を考える」亀岡市文化資料館編集より)
外枠が国分寺の境内を囲む築地跡で、内の四角が回廊。