亀 山 城 跡
かめやまじょう(亀岡市・大本教本部内)


亀山城模型(亀岡高校製作)

梅園

この花桜
 丹波亀山城は、1577年に明智光秀が造らせたもので、1610年に藤堂高虎らにより五重天守に大手門、外堀などを備えた亀山城が完成した。(大きさは約20m四方で高さは28mそれに石垣が6m。内堀外堀がはっきりあるのは江戸城、大阪城、姫路城に次ぐくらいの立派な城郭であったそうです。)
 城主はその後、岡部家、大給松平家、菅沼家、藤井松平家、久世家、井上家、青山家、形原松平家と移り、明治4年の廃藩置県を迎えました。

 明治10年(1877)明治政府の城郭処分により取り壊され、明治13年には石垣が東本願寺の再建のために使われました。残ったのは南郷池と天守閣横の銀杏の木だけでした。荒れ果てていた城跡を大正8年大本教が買い取り、残った石により昭和の初期頃までに石垣が再築され現在に至っています。

 大本教は大正10年京都府警察部が200人の警官を動員し出口王仁三郎教祖ら幹部を不敬罪で逮捕されましたが、昭和2年の大赦令で免罪となった。「王仁三郎は天皇の真似をして」不敬であり、多くの信者を自由に動かすのは治安維持法違反である」とされ、昭和10年、内務省警保局の指揮により武装警官隊550名で綾部、亀岡の大本本部を襲撃。61名の幹部と987名の信者が検挙されるというとんでもない弾圧がありました。これを第2次大本事件といいますが、この時、大本教の施設を取り壊すのにダイナマイト1400発以上使い1週間ほどかかったそうです。観音石像までもが打ち首に去れ、今も残っています。
 終戦後、大本教が復興され現在の静かで美しいたたずまいを見せています。なぜ亀山城跡に大本教があるのかと思いますが、大本教がなかったらこのあたりは住宅地かマンションかになっていたかもしれません。大本教のおかげで広大な亀山城跡はきれいに管理され、植物園や、梅園、「この花桜」、秋には見事な紅葉が楽しめます。