伝 説 の 亀 岡
第8話 酒呑童子と首塚大明神
酒呑童子は、越後国蒲原郡の百姓の子で、生まれながらに歯が生えそろい、よく物を言い、走り回り、すでに5〜6歳の子供のようであった。成長するにしたがい乱暴になり、親から見放され、賊の頭になり、ついには老の坂にこもり妖術を使って暴れ回った。 一条天皇の永延3年(989年)8月7日辰の刻、都の空が急にかき曇り、風が起き神殿仏閣の屋根が飛び、家が倒れておびただしい死者が出た。 朝廷は諸国の陣者に令を出し祈願させた。陰陽師安倍晴明は「西山に妖鬼棲み、法王を倒そうとしている。」と占い、丹波国目代藤原安友から「大枝山に酒呑童子という賊がこもり、通力自在の手下を使って多くの人を殺し、女をかすめているが、首領は茨木童子にその城を預け、7,8人の手下を引き連れ丹後国大山の千丈ヶ嶽の岩窟に移った。速やかに兵をもって討たれたい。」と訴えてきた。(千丈ヶ嶽は丹後大江町の大江山の主峰で大江山は昔は大山といっていた。) 鬼退治の勅令を受けた源氏の大将源頼光は、千二百の軍勢を引き連れて出発したが、途中八幡神社に祈願したとき、「討伐は小勢で奇策を用いよ」と八幡大菩薩のお告げがあった。頼光は病気を装い、長男頼国に兵をまかせ大枝に向かわせ、自分は藤原保昌と四天王の碓井貞光、卜部季武、渡辺源吾綱、坂田公時を伴い摂津へ帰る振りをして山伏の姿に変え酒呑童子のいる丹後へ向かった。 千丈ヶ嶽の山道で三人の老人に出会った。鬼の居所を聞いたところ、「向こうの岩窟が童子の住みか、酒が好きで顛倒するから首顛童子という。これなる酒は我らが飲めば力を出し、鬼賊が呑むと毒になって動けなくなる。それとこの兜は神のご守護の兜である。この品を譲ろう」と言いおき風と共に消え去った。 いよいよ童子のいる大きな石門に来た。中から8尺(2m40)もある大男が一丈(3m)もある鉄棒を杖にして立っていた。大男は「こんなところまでやってくるのは、きっと俺を討伐に来たのだろう」と頼光をにらみつけた。頼光は少しも動ぜず、「山伏の修行でやってきた、一夜の宿をたまわれば、夜もすがら酒宴して話を聞かせて欲しい」と頼んだ。酒宴と聞いて童子の心が和らぎ、一夜の宿が許され酒盛りになった。六人は持ってきた酒をとりだして呑ませた。鹿や猿の丸焼きが出され頼光は扇子を開いて舞うなど、みなと興じて時を過ごした。 やがて童子は奥の間に入り、手下どもは正体もなく酔いつぶれてしまった。このとき6人は鎧兜に身を固め、頼光はもらった兜をかぶり名剣「鬼切丸」を抜いて童子の胸板を一気に突き通した。童子は「たといこの命つきるとも禁廷(宮中)に飛び降りこの恨みはらさん」と叫んだ。頼光が首を打ち落とすと首は空中に舞い上がり頼光の兜に噛みついた。これを振り払うと童子の首は再び空中に舞い上がり、火を噴きながら都の方へ飛んでいき、丹波と山城の境、大枝の坂に落ちた。 一方源頼国は茨木童子を討ち、帰る途中で首顛童子の首が落ちるのを見付け、これを槍で突き刺し父頼光の帰りを待った。 首顛童子の首は七条河原に七日間さらされた後、大枝の坂に葬り首塚大明神と名付けられた。 この功績により頼光は肥前守に命ぜられ、頼国は丹後の国守に補せられた。
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