伝 説 の 亀 岡

第7話 北条時頼の瓜

 北条時宗の父北条時頼が、内情視察のため旅僧姿で諸国行脚をしていたときのこと、千代川町の街道を歩いていて、とても喉が渇いたが近くに飲み水がなく困っていた。
 近くの畑で老婆が瓜の手入れをしていたので、時頼は「そのウリを一つ頂けまいか」と頼んだ。老婆は、「よろしゅうございます、しかしこれは初物ですのでしばらくお待ち下さい」と言って、3個の瓜を畑の隅に並べ、お供え物をするように丁寧に頭を下げた。そして4個目の瓜を「さあどうぞ」と手渡した。時頼は老婆の様子が分からなかったので「今何をなされてたのか」と尋ねると、老婆は「一個目は太陽様、2個目が天子様、3個目が鎌倉の北条時頼様にお供えしたのです。」という。勿論目の前の僧侶が北条時頼であることは老婆は知らない。
 時頼はこのことに大変感激した。その場は身分を明かさず礼を言って立ち去ったが、諸国行脚を終え鎌倉に帰ってから、この老婆にお礼をするため使いを出した。老婆は何のことだかさっぱりわからず、ただ恐縮するばかり。鎌倉に着いた老婆は時頼の顔を見てびっくり、時頼は「あのときのお礼に何でも望みをかなえる」と言ったところ、老婆は「家の前を通る人から銭一文ずつ置くようにして欲しい」とお願いした。
 早速願いが叶えられ、通る人はみな銭一文を置いていき、老婆は村人からも親切にされ何不自由なく暮らしたのでした。

  
        高卒塔婆

 【高卒塔婆】(たかそとば)
 北条時頼がこの地を訪れ、小松寺に数日滞在したとき、法華教読誦して、一石に一字ずつお経の文字を書かれ、その石を埋め、その上に十二間(約22m)の栗の木の角材で柱を建てました。柱の上部には12面の銅鏡が埋め込まれ、「高卒塔婆」と言われるものです。
 最初は旧道沿いにあったそうですが、明治のはじめに小松寺の境内に移されたそうです。
 柱は、木が腐れば下の方を切り、短くなれば建て直して、現在は4m余り、銅鏡は5面残っていました。
 





         観音堂

 











【北条時頼】(ほうじょう‐ときより)
鎌倉幕府の執権。時氏の次子。北条氏の独裁制は彼の時代にほぼ確立。出家して道崇、世に最明寺殿という。出家後はひそかに諸国を遍歴して、治政民情を視察したと伝える。
(1227〜1263)

         小松寺  
 
   (千代川小学校から北へ
        約700m西入る)


【小松寺】(こまつでら)
千代川町千原にある浄土宗のお寺で、平重盛の守本尊であった石造りの観音像がお祀りされています。
 重盛が1175年中国大宗国の青龍寺から送られたものですが、当時、千原村出身の妙善が重盛にかわいがられていて、この石像を与えられました。重盛の死後、村に帰えり観音堂を建てここに安置されました。
 重盛の別名「小松殿」にちなんで小松寺とされたそうです。 
 お寺の奥さんが庭をきれいに手入れされておられました。この妙善法尼が開かれたお寺は、火事で焼失したそうですが、お堂は大丈夫だったそうです。
【平重盛】(たいらのしげもり)
平安末期の武将。清盛の長子。世に小松殿・小松内府または灯籠大臣という。保元・平治の乱に功あり、累進して左近衛大将、内大臣を兼ねた。性謹直・温厚で、武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。(1138〜1179)
        
 

この物語は、吉田証「口丹波風土記」(丹波史研究社)、永光尚「亀岡百景」(南郷書房)、福田晃・小林幸夫「京都の伝説、丹波を歩く」(淡交社)、竹岡林「丹波路」(学生社)、津登武「丹波&足立一族異聞」(雑草社)、「京都の伝説」(京都新聞社)などを参考にしています。