伝 説 の 亀 岡
第6話 那須野与市堂
時は源平の争いのまっただ中、平家は都を捨て西へ逃げ、神戸市の一ノ谷に陣を布いた。源頼朝は、弟義経に平家討伐を命じた。 義経は上州那須の住人与市宗高らを従え老ノ坂を越えた。亀岡に着いたとき与市は急に発病し、とてもこれ以上進めそうになかった。近くの法楽寺阿弥陀如来が霊感あらたかなのを聞き、祈願したところ病気はたちまち治ったという。喜んだ与市は霊付を身につけ出陣し次々と武勲をたてた。 その後屋島の合戦で、平家は海から、源氏は陸から向かい合っていが、平家は戦を占おうとして、一そうの小舟に娘を乗せ、舟には日の丸の扇を竿につけ源氏の前に出した。義経から扇を落とせと命じられた那須の与市宗高は、馬を駆けて海中に乗り入れたが小舟は揺れて狙いが定まらない。 『ナムアミダブツ』『ナムアミダブツ』与市は目をつぶり一心に阿弥陀如来に祈った。目を開けると仏のご加護か波が止まり、今こそと一気に矢を放った。源氏も平家も戦いを忘れ息を殺して見守る中、その矢は見事扇の要に命中した。敵味方を問わずどっと歓声が上がり、与市の名は不動のものとなった。 与市は阿弥陀如来の信仰をますます深くし、凱旋後法楽寺を再興し自らも武士をやめ出家し伏見で暮らしたという。その後法楽寺は火災に会い、人々が駆けつけたときにはすでに焼け落ち、阿弥陀如来像だけがまばゆい金色の光に包まれてすっくと立っていたという。お堂は信仰厚い地元の人たちの手で再建され焼仏をお祀りしました。 明治26年今の場所で改築され那須与市堂として今なお親しまれています。
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この物語は、吉田証「口丹波風土記」(丹波史研究社)、永光尚「亀岡百景」(南郷書房)、福田晃・小林幸夫「京都の伝説、丹波を歩く」(淡交社)、竹岡林「丹波路」(学生社)、津登武「丹波&足立一族異聞」(雑草社)、「京都の伝説」(京都新聞社)などを参考にしています。 |