伝 説 の 亀 岡

第4話 天満宮と操桜 (小林神社)

『当社境内に「菅公腰掛石」という石があり、菅原道真公が園部からの帰途、里町の家で休息されたのが当社の起源と伝えられており、そのため「休み天神」ともいわれている。

 また、この地に大工久助が妻の於長(おなが)と二人の娘と住んでいたが、怠け者で、日々の生活がやっとであった。享保五年(1720)江戸に大火があり、出稼ぎに行ったまま何年たっても音信なく於長は二人の子供をかかえ針仕事や野良仕事で細々と暮らし夫の帰りを待っていたが、久助は江戸で新たな妻を迎えて暮らしている伝えがあった。しかし、於長は夫が大事にしていた桜の木を夫と思い、大切に懸命に働いて子供を育て婦道を守り通した。非情の樹木も人の誠を感じたのだと誰いうことなく「操桜」と呼ばれその後この土地の人々の手により二世桜を境内に植え丹精して時には花見の会を催し於長をしのんでいる。』(小林神社案内板より)
 

小林神社

(千代川町小林)

菅公腰掛石

・小林神社入口の石碑には「邨社天満宮」と刻まれている。隣の臨生寺の住職にこの意味を尋ねたところ、「邨」とは村を意味し、昔集落のあるところには祠(ほこら)があり、それが神社として村人にまつられていたので、「村の神社」という意味だということでした。(ちなみにこの地小林は「おばやし」と言う。)

・小林神社は、昔このあたりを領有していた小林という人が、厚く天神を信仰し、館の東隣の森に応永十七年(1410)北野から勧請したと伝えられています。

   
 

この物語は、吉田証「口丹波風土記」(丹波史研究社)、永光尚「亀岡百景」(南郷書房)、福田晃・小林幸夫「京都の伝説、丹波を歩く」(淡交社)、竹岡林「丹波路」(学生社)、津登武「丹波&足立一族異聞」(雑草社)、「京都の伝説」(京都新聞社)などを参考にしています。