伝 説 の 亀 岡

第2話 「桑田」の始まり

 さて、丹の湖を切り開いた大国主命は、そこに一本の桑の木を植えました。
 やがて、この地方は緑豊かな盆地になったのですが、保津峡はあまりにも狭く、洪水が再々起きていました。
 
 ある日、大雨のおり曽我部町に稲の株が流れてきて、大きな桑の木の穴くぼに引っかかりました。次の年、そこから青々とした芽がひろがり、秋には金色の稲穂があたり一面に輝きました。
 村人たちはたいそう喜び、この地を「穴太」と名付け、神明社という社をまつり感謝したそうです。またこの地方を「桑田」と呼ぶようになりました。
 
 雄略天皇の代に丹後の与謝から豊受姫命が伊勢へ参る際に、この神明社で休息され、金色の景色を堪能されたそうです。
 
 現在、この神明社は近くの小幡神社とともに大切に祀られています。
 また、この穴太には神明社、小幡神社のほかに穴太寺や金剛寺など円山応挙ゆかりの寺もあり近畿自然歩道になっています。

神明社

(曽我部町穴太)

『神明社は、郷神社とも称し、天照大神と豊受大神を祭神とする。社伝によれば雄略天皇の代に丹波の余佐(与謝)の比沼の真名井原から伊勢への豊受大神遷幸のおり、小幡川のほとりに駐幸、桑の大木の穴より稲が生じたという。穴穂(穴太)の地名起源説話として伝承され、その神徳をあおいで豊受大神を祭祀し、後に天照大神同殿に合祀したと伝える。』(小幡神社・神明社由来書より)
(注釈) 雄略天皇は西暦470年頃の天皇とされ倭王のワカタケルとも称されるが定かでない。
 

この物語は、吉田証「口丹波風土記」(丹波史研究社)、永光尚「亀岡百景」(南郷書房)、福田晃・小林幸夫「京都の伝説、丹波を歩く」(淡交社)、竹岡林「丹波路」(学生社)、津登武「丹波&足立一族異聞」(雑草社)、「京都の伝説」(京都新聞社)などを参考にしています。