伝 説 の 亀 岡

第1話  はじまり

  • むかしむかし、それはとんでもなく昔のことです。
    京都の北西に、大きな湖があった。不思議なことに、湖は真っ赤な色をしていて、空までもが赤く染まっていたそうです。その時代赤色のことを丹(に)と言い、そういうわけで、この地方を丹の国と呼んでいまた。

  • 日本の各地に国というものができはじめた頃のことです。大国主命(おおくにぬしのみこと)が全国に国を創って回っていたとき、この湖の中のある島に降り立ち、湖を眺めると、赤い波が立っていた。大国主命は、「保津峡を切り開けばこの地は恵み豊かな国になる」と思い8人の神に相談し、この地を開き、[丹波]と名付けたのでした。
  • 相談を受けた神々は、この保津峡を切り開くために、鍬を持ち山を掘る役、籠を持って土を運ぶ役、工事の費用を請け持つ役に分担し、保津峡を切り開いて水を流し湖を盆地に変えたのでした。
  • やがて神々は鍬山神社、持籠神社、請田神社に祀られました。
  • 当時の丹波国とは畿内に接して「山陰はじめの国」と言われれ、京都の西北から兵庫県の但馬を含め丹後に至る地方を丹波と言ったようです。その後大化の改新後の和銅6年(713年)頃に丹後を分け、丹波国を桑田、船井、何鹿、天田、氷上、多紀の6郡に分けられたようです。
  • なお、【丹波】の地名は、「田庭」「谷羽」「旦波」(たには)などが語源とされています。「田庭」とは穀物がたくさんとれる庭という意味か、延喜儀式帳にもでています。 「谷羽」とは谷間というか、谷がいくつもある地域のことを言ったようです。


請田神社

(保津町立岩)

 『大山咋神と市柞島姫命(一名狭依姫命、宗像三女神の一つで後世は弁財天という)末社に稲荷大神を祀る。永録年間、兵火により社殿、文献共に焼失して縁起不詳だが、祭神大山咋は丹波地方を開拓するため、出雲地方から来られた神といわれ。当社および川向こうの桑田神社のある保津川入口から開拓を始められたと伝える。  この開拓着工のクワ入れを受けたので社名を「請田」と呼ぶようになったという。
 毎年十月二十一日の秋の大祭は「保津の火祭」と呼ばれ本宮から保津八幡宮内の須宮に神霊を迎える高張り提燈行列珍しい火祭である。』(神社案内板より)

   
 この物語は、吉田証「口丹波風土記」(丹波史研究社)、永光尚「亀岡百景」(南郷書房)、福田晃・小林幸夫「京都の伝説、丹波を歩く」(淡交社)、竹岡林「丹波路」(学生社)、津登武「丹波&足立一族異聞」(雑草社)などを参考にしています。