薄紅の宴 3


「その衣…。異世界に避難していたときの物か。」

「ええ。那岐と一緒に通っていた高校の制服…。ええと、生徒たちの指定服です。」

「そうか。道理で、那岐の物とよく似ていると思った。」

「那岐のは男の子用。私のは…。」

「姫君用か。」

一見同じようだが、よく見ると作りがずいぶん違う。

「なかなか良い仕立てだな。しかし…。」 

忍人はふと、飲み比べ勝負の輪に引きずり込まれて、なんとか逃げようと後ずさりしている那岐を見た。

「彼の着こなしは、少しばかり乱れがあるようにも見えるが。」

皆にもみくちゃにされているせいで着崩れたのだろうか。

「あ、那岐はいつもあんな感じだったから。よく風早に怒られてたなぁ。きちんと着なさいって。」

千尋が、懐かしそうな表情で那岐を眺めている。

「帰りたいか?」

そんな彼女を見ていた忍人はふと、そう問いかけていた。

千尋はこの国にとっても、忍人にとっても必要な人間だ。
だが彼女にとっては、争いのない平和な世界だったという異世界の方が、幸せであったに違いない。

「え?」

だが、驚いたように振り向いた彼女を見て、忍人はハッと我に返った。

「あ、いや…。おかしなことを聞いたな。失礼した。」

どうしたというのだろう、彼女が那岐や風早と一緒に暮らしていたという光景を思い浮かべて、
疎外感のような、寂しさにも似た気持ちを感じる。

忍人は、千尋から目をそらすと、少し目線を下げた。

「私は、この世界に戻ってきて良かったって思ってます。だって…忍人さんに出会うことができたから…。」

千尋は、そんな忍人をしばらく見つめていたが、やがて、視線を外して小さく呟いた。

「…俺に?」

そういえば、先ほど岩長姫が「この宴は千尋が忍人のために開いた」とかなんとか言っていた。
彼女にそれを問うてみようと忍人は口を開きかけたが、千尋は慌ててそれを遮った。

「あ、ええと! 深い意味はない…こともないけど、それ以上突っ込まないでっ。」

なぜか動揺しまくっているらしい。
その動揺を抑えようとしたのか、あるいは隠そうとしたのか、千尋は手にしていた杯を一気に口に流し込んだ。

「…ん? ちょっと待て、姫。それはさっき師君が注いでいった酒では?」

「え。あれ? そういえば、なんだか喉が熱いような…。」

千尋は酒など飲んだことはないはずだ。少なくとも忍人は、彼女が飲んでいるところを見たことも聞いたこともない。
取り上げておいたほうが良いと思っていたのに、うっかりしていた。

「大丈夫か?」

「えへへ〜だいじょーぶですよぉ。なんか周りがふわ〜って回ってるような気もするけど。」

言っているうちにろれつが回らなくなってきている。

「全然、大丈夫じゃないじゃだろう。風早、姫が酒を一気飲みしてしまった。なんとか…。」

忍人は慌てて風早を探したが、彼も那岐と同じように岩長姫やサザキたちの輪に捕まってしまっている。

「千尋がお酒を? 大丈夫でしょ、ちょっと休めばすぐさめますよ〜。」

風早が気づいて返事をしたが、あちらも酔いが回っている様子だ。

「…ったく、どいつもこいつも…。姫、立てるか? 部屋へ戻るぞ。」

「え〜部屋へ…?忍人さんと一緒ですか〜。や〜ん、えっち〜。」

「何を言ってるんだ君は。わけのわからんことを言ってないで、ちゃんと歩け。」

「千尋っ、部屋へ戻るのか、僕も一緒に…っ。」

那岐が渡りに船とばかりに立ち上がろうとしたが、風早と岩長姫が彼の両腕をつかんだ。

「あんたも男だろ、酒くらい飲めなくっちゃ〜ねぇ。」

「そうですよ、那岐。無粋なことしちゃいけません。」

「僕はまだ未成年だぞ、教師がそんなこと言っていいのかっ?」

那岐が精一杯の抵抗を試みる。
だが風早は、にっこりと笑いながら言い放った。

「これ、コスプレですから。」

「はぁ〜〜!?」

そんな喧騒を無視した忍人が、千尋を抱きかかえるようにして出て行く。

「忍人、千尋を頼んだよ。」

その後姿を見ながら風早は、そっと囁いた。





「ほら、水だ。飲めるか?」

なんとか千尋の部屋までたどり着き、彼女を長椅子に座らせて、水の入った器を渡す。
泥酔しているわけではないので、寝かしつける必要はないだろう。

「はい、ありがとうございます〜。」

ほろ酔い加減といったところだろうか、頬をほんのりと染めている。

「落ち着いたら、着替えて今日はもう休むといい。」

「あ、忍人さん〜。」

もう用は済んだ、と部屋から出て行こうとする忍人を千尋が呼び止めた。

「なにか?」

「今日は宴に出て下さってありがとう。それからごめんなさい〜、騒々しいばっかりで…。」

「それなら先ほども聞いたが。」

忍人は、苦笑いを浮かべながら彼女を見た。
たったあれだけの酒で、記憶が乱れているらしい。

「ええとぉ…言いたいのはそれじゃなくて…。」

千尋は器を持ったまま立ち上がって、忍人に一歩近づいた。
だが、おぼつかない足元が長椅子の角に当たったのか、ふらりとよろめいた。

「あっ。」

「…姫っ。」

忍人は思わず手を差し出したが、千尋が持っていた器が大きく傾き、入っていた水が忍人にもろに降りかかった。

「…っ…。」

「うそっ、ごめんなさ…っっ。」

千尋は慌てて体勢を立て直そうとしたが、そのまま呆気なく忍人の腕に倒れこんだ。





大広間を中心に、船内から楽しげなざわめきが伝わってくる。
だがそれも、少しずつトーンダウンしているようだ。

夜も更けるに従い、飲み疲れて眠ってしまったり、お開きになったりし始めているのだろう。

「忍人、戻ってきませんねぇ。」

那岐はあっけなく撃沈、サザキたちもくだを巻きながら杯を煽っているが、酔いつぶれるのも時間の問題にみえる。
そんな中、周りからの酒の勧めを巧みにかわしながら付き合っていた風早が、誰にともなく呟いた。

「千尋ちゃんを連れて出て行かはったんよね。ほんま遅いねぇ。」

夕霧がそれに答える。

「あいつは酒はいける口だけど、宴会は苦手だからね、千尋がいないんじゃ、もう戻ってこないだろ。
ま、だからといって、送り狼になるようなヤツじゃないさ。」

彼らの会話に、岩長姫が器を傾けながら、口を挟んだ。

「ほら、余計な心配してないで、もっと飲みな。」

「はぁ、それもそうですね。」

風早は、岩長姫の酒を受けながら苦笑いを浮かべた。

(ま、千尋は忍人に任せておくとして…俺はどうやってここから脱出したらいいんだろう?)

基本的に酒は苦手だ。
大酒飲みの彼女からさっさと逃げないと、大変な目にあわされる。
杯を煽るふりと愛想笑いの陰で、必死に考えを巡らせる風早だった。





「大丈夫か?」

「わ、わたしより忍人さんがずぶ濡れに…っ。」

忍人の腕の中で、千尋が慌てて顔を上げると、彼の前髪から滴った水が千尋の額に落ちた。
その水に冷たさに、一気に目が冴える。

(ど、どうしようっっ。)

先ほどまでは夢見心地だったが、目が覚めてしまった今、彼の腕の中にいるこの状況は
とてつもなく心臓に響く。

(やだ、わたし顔が真っ赤かもっ。)

頬がどんどん熱を持ってくるのがわかる。

「俺のことはいい。器一杯の水くらい、どうということはない。それより…。」

忍人は片手で、濡れた前髪をかきあげながら、千尋を見た。

「姫は本当に酒に弱いようだな。それとも飲み慣れていないだけなのか。どちらにせよ、頬が真っ赤だ。」

「そ、そうですか…っ。」

だが、千尋が先ほどよりしっかりした物言いになっていることには、気づかないらしい。
千尋は、顔を隠したくて思わず下を向いた。
額が忍人の胸にトンと当たる。

それを、忍人は何も言わずに受け止めてくれた。

相変わらず胸の鼓動が聞こえるが、千尋は、忍人の意外な優しさに身を任せた。




千尋の髪から柔らかな香りが漂う。
自分の胸に顔をうずめてしまった千尋を受け止めたまま、忍人はその香りを感じていた。

細い肩。
柔らかな抱き心地。

(こんなにも華奢だったんだな…。)

その肩にとてつもなく大きなものを背負わせてしまっていることに、今更ながら胸が痛む。

「すまない…姫。」

千尋がほんの少し身じろぎをしたが、忍人はその背に腕を回した。

彼女がほろ酔い加減で半分眠っているように見えるからなのか、あるいは忍人自身も酒の力を借りているのか。
気が付くと、彼女を腕の中に閉じ込めていた。

「君は軍の旗頭として、ひいてはこの国にとって必要不可欠な人間だ。ずっとそう思ってきた。だが…。」

忍人の胸元をキュッとつかんでいる千尋をそっと抱きしめる。

「俺自身にとっても必要な…。いや、大切な人…なのかもしれないな。」

アシュヴィンの言動が気に入らなかった理由も、異世界での風早たちとの生活を想像して気持ちが揺れたわけも、
今なら説明できるような気がする。

「嫉妬…か。俺にはおよそ無縁なことだと思っていたが。」

彼女の耳元で囁くように呟くと、千尋が微かに反応した。
相変わらず頬が薄紅色に染まっている。

「…俺は、何をしているんだろうな。君が酔っていてくれて…助かった。」

忍人は苦笑いを浮かべながら、彼女への束縛を解いて身を離そうとした。
だが、千尋は忍人の胸にもたれたまま、顔を上げようとしない。

「姫…。眠ってしまったのか?」

その言葉を聞きながら、千尋は彼の胸の中で動けずにいた。

本当はもう酔っていないし、ましてや眠ってもいない。
だが、どう反応してよいかわからない。

「やれやれ、手のかかる姫君だ。ほら、とりあえず上着は脱げ。君も濡れているだろう、風邪を引くぞ。」

千尋はとりあえず言われるままに、もそもそと手を動かした。

「そういえば…先ほど何かを言いかけていたな。」

それを見ながら忍人が、ふと気づいたように言った。
だが、ボタンを外し終わった千尋の腕から上着の袖を抜いてやりながら、フッと笑みを浮かべる。

「まぁ、いい。こんな状態の君に尋ねたところで、まともな返答は期待できそうにないからな。」

「お…お誕生日…。」

「…?」

「お誕生日おめでとうって…言いたかったんです。」

千尋は思い切って顔を上げた。

「そ、それとっ。わたしも忍人さんがとっても…大切ですっ。」

「……。」

酔って眠りかけていると思っていた彼女が、思いがけずしっかりした様子で忍人を見ている。
その様子に忍人は状況が把握できず、千尋を見つめ返した。



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