「あ、え、えと…。」
その沈黙をどう解釈したのか、千尋が視線を泳がせた。
「す、すみませんっ。お水かけたり、眠りそうなふりしてたり…。あ、酔ってたのはほんとだけどっ。」
千尋が忍人から離れようと身を起こす。
「どこからだ。」
「え?」
「どこから、ちゃんと覚えている?」
「ええと…お水をかけちゃったところから…?」
その答えに忍人は思わず頭を押さえた。
彼女を抱きしめて、いろいろ囁いていたこと全てか。
「……参ったな。すまない、姫。忘れてくれ。」
相手が正気だったと知ると、どうしていいかわからなくなる。
だがそれを聞いた千尋は、顔を曇らせた。
「どうして? わたしは忍人さんが同じような気持ちでいてくれたこと、とっても嬉しかったのに…。」
うつむき加減になった千尋は、無意識に足を一歩後ろに引いた。
「同じ…?」
だが、忍人が聞きなおそうとしたとき、床に転がっていた水飲み用の器が、忍人から離れようをした千尋の足に当たった。
「きゃっっ。」
まだ酔いが残っていたのか、千尋の体が呆気なく傾く。
「危ないっ。」
背中から倒れこんでいく彼女を支えようと手を伸ばしたとき、忍人もその器に足を取られた。
「な…っ。」
忍人は、辛うじて千尋の身を抱きとめると、床に倒れこむのは阻止しようと体をねじった。
次の瞬間、ダンッと派手な音がした。
咄嗟に身をひねったおかげで、傍にあった寝台へ、忍人の背中側から倒れこんだようだ。
「…つっ…。姫、大丈夫か…?」
「ご、ごめんなさいっっ。わたしったら何度も迷惑ばっかり…っ。」
忍人を寝台へ押し倒した格好になった千尋は、慌てて身を起こした。
「す、すみません…っ。今夜はもう寝ます。これ以上一緒にいたら、また何するかわかんないしっ。」
「…ああ、そうだな。しかし…君に押さえつけられたままでは、俺は起き上がれないのだが…。」
「え…?」
その言葉に千尋が自分の状況をよく見ると、両手で忍人の肩を押さえてつけていた。
そして目の前には彼の顔がある。
「あ…っ。ごめんなさっ…。」
千尋は慌てて離れようとしたが、その腕を忍人がつかんだ。
「姫…。」
「忍人…さん?」
千尋が、忍人の意外な行動に驚きながらも、頬をほんのり染めている。
そんな彼女を忍人は、無意識に引き寄せていた。
酒の影響が残っているのか、それともいつもと違う雰囲気の彼女に酔っているのか。
だが、そんなことはどうでもいい。
彼女をもっとこの腕の中で感じていたい。
「姫、少しだけ…目を閉じていてくれ…。」
忍人は、千尋の背に腕を回して、彼女をゆっくりと引き寄せた。
その動きに合わせるように、千尋が戸惑いながらもそっと目を閉じる。
「千尋〜、まだ起きてるかい? 二日酔いによく効くっていう薬湯を持ってきてやったからお飲み〜。」
その時、なんの前触れもなく大きな声が聞こえたかと思うと、岩長姫がヒョイと姿を現した。
「遠夜の特製で、よく効くって評判…。」
だが彼女は、部屋の中を見て、目を点にした。
「……へ?」
千尋が寝ているとばかり思っていた寝台の上には、忍人と千尋。
目をぱちくりとさせた岩長姫がよく見ると、忍人は何故か前髪を濡らしていて、その衣服も、彼にしては少しばかり着崩れている。
一方の千尋も、着ているシャツのボタンが二つ三つ外れかけ、床には、彼女が身に付けていた上着が無造作に脱ぎ捨てられている。
そして極めつけは、どう見ても、忍人を押し倒している千尋と、彼女の背を支え今にも抱き寄せんばかりの忍人の構図。
「あ…んたたち、何やって…。」
「……?」
二人は揃って、突然現れた岩長姫をぼんやりと眺めていたが、次の瞬間、忍人が我に返った。
「し、師君っ。」
その声に千尋もハッと気づき、慌てて立ち上がった。
「ご、ごめんなさい、忍人さんっ。」
「いや…。」
忍人も動揺を隠しながら、身を起こして横を向いた。
どちらかというと、謝らねばならないのは自分の方のような気がする。
彼女を引き寄せて、いったい何をしようとしていたのだろう。
「…あぁ〜。 なるほど、そういうことかい。いや〜あたしとしたことが、しくじったねぇ。」
そんな二人を見ていた岩長姫が、全て納得したという顔でニヤリと笑った。
「忍人。あんただけは送り狼になるようなヤツじゃないと思ってたけど…。やっぱあんたも男だねぇ。」
意味ありげな笑みを浮かべたまま、忍人に近づいて耳打ちするようにそう言う。
「いや、俺はもう帰ろうと…っ。」
「いいじゃないか、今更隠さなくったって。 大丈夫、今夜はこの部屋に誰も近づかないように言っといてやるから。じゃ、あたしゃ、さっさと退散するよ。邪魔したね。」
そういうと彼女は、器用にウインクをしてみせると、部屋から出て行った。
「いや〜、人は見かけによらないもんだよ。あの忍人がねぇ。あ、おまえたち、今夜は二ノ姫の部屋の護衛は要らないって、皆に伝えて来な。なんてったって、最強の護衛が一晩中くっついてるんだから。はっはっはっはっ。」
そんな声が聞こえてくる。
「一晩中…って?」
ふたりして呆気に取られていたが、千尋がぽつりと呟いたのを聞いて、忍人は青ざめた。
「お、お待ちください、師君っ。なにか大きな誤解が…っ。」
よく考えたら、誤解ばかりでもないのだろうが、そんなことを皆に触れ回られては非常に困る。
「姫、すまない。今宵はこれで失礼する。」
「あ、はい…。」
忍人は、足早に出入り口へ向かったが、ふと足を止めて千尋を振り返った。
「ひとつ、言い忘れるところだった。…姫、俺の記念日を祝ってくれて…ありがとう。」
それを聞いた千尋が、嬉しそうにニッコリと頷く。
宴はともかく、彼女とは意味のある時間を過ごせたように思う。
「ではまた。…おやすみ。」
忍人は彼女に微笑みを返すと、部屋を後にした。
「師君、忍人を見ませんでしたか?」
次の日の朝。
忍人を探していた風早は、岩長姫を見つけて尋ねてみた。
「ああ、あいつなら、どっかそこらへんで眠りこけてんじゃないかい?」
「忍人がですか?」
「だってさ〜。聞いとくれよ、風早。あいつ、夕べ一晩中、あたしを追っかけまわして、誤解だ〜とか余計なことを言うな〜とか…。もう、鬱陶しいったらありゃしない。」
「はぁ…。……?」
岩長姫が言うのだから、嘘ではないのだろうが、普段の忍人からは想像しにくい。
「やっといなくなったから、さすがに疲れたんじゃないかね。」
一方、一晩中追い掛け回されていたという岩長姫の方は、意外と元気らしい。
「何が誤解なんです?」
風早は、首をかしげながら彼女を見た。
「誤解なんかじゃないよ。忍人が寝台の上で千尋を抱き寄せてたから、気を遣ってやっただけじゃないか。」
「……。えぇっ?」
その時、パタパタと足早に近づいてくる足音がした。
「ですから、それが誤解だと! 夕べから何度同じことを言わせる気ですかっ。」
本当に一晩中、追いかけ回していたのだろう。
そこへ現れた忍人は、さすがに疲れているらしく、こめかみを押さえている。
「いーや、あたしゃ、この目ではっきりと見たよ。だいたいねぇ、抱こうとした女を放り出してくるなんて、男のすることじゃないよ?せっかく気を利かせてやったのに、あんた何考えてんだい。」
「お、忍人…っ。君、千尋にそんなことを…?」
「風早、俺は何もしていないっ。」
しそうになったのは事実だが、していないのもまた事実だ、とかなんとか忍人が珍しく必死な様子で風早に訴えている。
だが、忍人の意識が風早に向いた隙に、岩長姫がそそくさとその場を離れた。
「あ、師君っ。」
それに気づいた忍人が、慌ててその後を追う。
「いい加減、余計なことを言って回るのはお止めくださいっ。」
「あんたこそ、いい加減、自分のやったこと認めな。往生際の悪い男だねぇっ。」
「ですから、何もしていないとっ。」
なんだかんだと言い合いをしながら、去っていく。
一晩中あんなことをやっていたのだろうか。
「なんなんだ、朝から騒々しい。」
そこへ那岐が迷惑そうな表情で現れた。
「二日酔いで頭痛いんだから、静かにしてくれよ。」
あのまま寝てしまったのだろう、制服姿のままだ。
「よくわからないけど…。忍人が千尋を押し倒してた、とかなんとか…?」
本当は逆だし、ただの事故なのだが、こうして噂に尾ひれが付いていく。
「あの忍人が…? なんかの間違いだろ。」
だが那岐は、興味なさそうに肩をすくませた。
「どうだろうねぇ。それより那岐、制服、着崩しすぎですよ、もっとちゃんと…。」
「もう脱ぐよ、これ、コスプレだろっ? とりあえず部屋に戻るっ。」
朝から説教されてはたまらない…と那岐は慌てて背を向けた。
それを見送りながら、風早は先ほどの忍人を思い出して、苦笑いを浮かべた。
「間違い…ではないでしょうねぇ。あの忍人があんなに必死になるんですから。う〜ん、さしずめ…未遂ってとこですかね。」
放っておけば大した噂にもならないだろうに、打ち消そうと必死になるから、岩長姫に余計なことをしゃべらせている。
それだけ、忍人に余裕がないということだろうが。
「ま、千尋を意識し始めたなら、結構なことですね。でも…。」
風早は、懐に入れたままにしていたメガネを取り出してかけた。
含みをある台詞を言う時の必須アイテムだ。
いつもの衣装にメガネでは微妙に似合わないけれど、気分の問題だ。
「俺がお育てした大切な姫ですからね、そう簡単に渡すつもりはありませんよ。」
フッと笑いながら、メガネのふちをちょいと持ち上げると、朝日を受けて、レンズがきらりと光った。
忍人の恋(?)、前途多難。
〜Fin〜
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