魂の記憶 3
開かれた窓から柔らかな風が流れ込んでくる。 天気の良い穏やかな日和だ。 そんな空気を感じながら、忍人は風早が出て行った出入り口を見つめていた。 「君には全く悪気はなかったんだろうね。でも千尋が、君の一件で気落ちしてしまってるのも事実だ。」 風早の言葉がよみがえる。 「彼女を悩ませる男を傍に置きたくない、というのが俺の本音なんだけどね。」 彼は、いつぞや身に付けていたメガネとかいう代物を取り出してきてちらつかせた。 「……?」 その行為の意図するところがわからず、それを見ながら風早の次の言葉を待つ忍人に、風早は苦笑いを浮かべた。 いつのまにか、普段の柔和な雰囲気に戻っている。 「でも千尋を笑顔にすることができるのも、やはり君だけなんだよ、忍人。」 そう言って風早は小さく笑った。 「俺だって、いつも君のことを考えている。」 忍人は寝台を下りて窓に近づくと、青い空に千尋の笑顔を思い浮かべながら呟いた。 泉で千尋を見つけたとき、思わず小言が出たのは、彼女があまりにも無防備な姿をさらしていたからだ。 もしも、よからぬことを考える連中に見つかっていたら、と思うとゾッとする。 足を踏み外したときに千尋の手を取らなかったのも、衣を手にしていた彼女を引きずり込んではまずいと思ったのだ。 そして「俺に近づくな」と言ったのは。 「風邪をうつしたくなかっただけだ。」 そのくらいは察して欲しい。 忍人は、小さく息を吐いた。 「そりゃ〜、あんたの勝手な言い分ってヤツだな。」 そのとき窓の上から声が響いたかと思うと、サザキがヒョイと姿を現した。 「……。」 忍人は突然現れた彼をじっと見た。 「なんだ、あんまり驚かないんだな。張り合いねえなぁ。」 「いや、充分驚いたが。」 「そうなのか?」 ポーカーフェイスで言う忍人を面白そうに眺めながら、サザキは窓に腰掛けた。 「盗み聞きとは趣味が悪いな。」 「別にこっそり聞いてたわけじゃないぜ。空を飛んでたらあんたの姿が見えたんで、何気なく近づいたらブツブツ言ってるのが聞こえただけだ。」 そう言いながらサザキは、窓の上で器用に足を組んで頬杖を付くと、忍人を上目遣いに見上げてニッと笑った。 「狗奴の兵にさえ恐れられている将軍様も、姫さん相手じゃ、からきしダメみたいだな。」 「余計なお世話だ。」 忍人は窓から離れると、サザキに背を向けた。 「俺が言うのもなんだけどな。」 そんな忍人にサザキが、今度は少しばかり真面目な口調で声をかける。 「はっきり言わなきゃ伝わらないことってのも、あると思うぜ。」 「……。」 「特に女の子ってのは、好きな男の言葉や態度は、そのまんま受け止めちまうもんだ。」 「好きな、男?」 その言葉に忍人は怪訝そうに振り向いた。 「誰のことだ。」 「誰って、そりゃ〜あんたのことに決まって…。って、おい。気づいてなかったのか?」 サザキは口を開けて目をぱちくりとさせた。 「あんただって、姫さんのこと好きなんだろ?」 「……。」 忍人はサザキの問いかけに、一瞬考えこんだ。 「そのような言葉、今まで意識したことがない。」 「おいおいおい…。」 サザキは額に手を当てて宙を仰いだ。 「姫さん、なんだってこんなヤツのこと〜っとっとっと。」 反動でひっくり返りそうになり、慌てて羽をバタつかせている。 「だが、あんた、姫さんの部屋で彼女のこと押し倒してたって話じゃないか。」 「だからそれは、誤解だと…。」 忍人は額を押さえながら、ため息をついた。 千尋の部屋でのことは、彼女の名誉にも関わると思い、迅速に打ち消して回ったはずなのに、なぜか周知の事実になってしまっている。 「なぜだ。」 「なぜって、あんたなぁ。」 あれだけ岩長姫を追い掛け回して騒いでいれば、皆、何事かと興味を持つだろう。 酔いつぶれていたサザキでさえ、目を覚ましてしまった。 「まぁ、そこのトコは目をつぶるとして…。要するにもっと素直になれってことだ。」 宴の夜の話も泉での様子も、傍目にはお互い相手に特別な感情を持っているようにしか見えない。 だが、千尋はともかく、忍人に全く自覚がないというのは、どうすればいいのだろう。 困ったを通り越して、もう笑うしかない。 「俺が困るってのも、おかしな話だけどなぁ。」 「そんなにひねくれているつもりはないがな。」 引きつり笑いをしているサザキを見ながら、忍人は憮然として言った。 可愛気がない、とは昔からよく言われたが。 「しかしながら、君の忠告は胸に留めておこう。」 素直うんぬんは別にしても、自分の言動・行動が千尋を傷つけたのは事実だろう。 「そうか、そりゃ結構。」 忍人の返答にサザキはニッと笑った。 その時、にわかにざわめきが伝わってきた。 遠くから途切れ途切れに「補給部隊」、「常世の軍」などと言った単語が聞こえてくる。 「何かあったのか。」 ただごとではない雰囲気に忍人は耳を澄ませたが、回廊の端にある部屋からでは、広い船内の様子はよくわからない。 「そうだな、ちょっと見てくるか。」 サザキも様子を伺っていたが、ここからでは無理と判断したらしく、羽を広げて窓から飛び立っていった。 「便利なものだな。」 フッと笑いながらそれを見送った忍人は、手早く着替えると剣を手に取った。 何か不測の事態が起こっているのは確かだろう。 丸一日、寝ていただけだが、久しぶりに剣を手にしたような気がする。 二本の剣を腰に差すと、背に一本筋が入ったような緊張感が生まれた。 「大変だっ。」 程なくして羽音が近づいてきたかと思うと、再びサザキが窓から飛び込んできた。 「どうした?」 「食料や武具の調達に出ていた道臣殿の部隊が、常世の軍と鉢合わせしちまったらしい。」 当然ほとんどの者が武人だが、補給して帰る途中だったため荷が重く、逃げるのが精一杯。 そのため、ごく少数の者がしんがりを務めて防戦してるらしいのだが。 そこでサザキは言葉を切った。 「実は、その中に姫さんがいるらしい。」 「なに…?」 昨日から千尋の気配を感じないと思っていたが、補給部隊と一緒に出かけていたのか。 風早が、「千尋が、忍人に『俺に近づくな』と言われて気落ちしている」というようなことを言っていたが、忍人から離れようとして船から出たのだろうか。 もしそんなふうに揺れた気持ちのままならば、敵につけこまれる隙を与えてしまう。 「布都彦もくっついて行ってるらしいんだが、なんせ少数だ。俺も今から助っ人に…って、おい、忍人?」 サザキの話を最後まで聞かずに背を向けた忍人は、そのまま出入り口に向かった。 「ちょっと待てよ、あんた謹慎中…じゃなかった、養生中だろ?」 慌てて追いかけてくるサザキを無視して部屋の外に出ると、案の定、出入り口を固めていた兵士に制止された。 「葛城将軍、申し訳ありませんが、ここをお通しするわけには参りません。」 「構わん、通せ。」 「しかし、二の姫様のご命令で…。」 もう一人の兵が、困惑気味に忍人を見た。 「そうか。では聞くが、君たちの直属の上司は誰だ。」 「それは…。」 「葛城将軍殿、です…が…。」 その更に上に二の姫がいて、彼女の命令でここにいるのだが。 だが、二人の兵士は、忍人の威圧感に押されて縮こまった。 「では、もう一度言おう。軍の全権を預かる将軍の命令だ。ここを通せ。」 「は、はいっ。」 将軍の命令という言葉に条件反射したのか、彼らは直立不動の姿勢をとった。 「やるねぇ、さすが将軍様だ。」 当然のように彼らの前を通り過ぎていく忍人に、サザキがヒュ〜と口笛を吹いた。 「てか、なんで今までおとなしく軟禁されてたんだ?」 サザキが首をひねりながら付いて来たが、彼を無視したまま、忍人は楼台へ入った。 「忍人?」 皆に指示を出していたらしい風早が、驚いて振り向いた。 「風早、俺が行こう。」 「君が…? うーん、それは百人力だけど…。千尋に叱られるなぁ。」 風早が苦笑いを浮かべる。 「そのようなことを言っている場合か。一刻を争うのだろう。兵の準備は整っているな?」 「ああ、大丈夫だよ。」 風早は分隊長たちから受けた報告を手短に忍人に伝えた。 「承知した。」 「あ、忍人。」 くるりと背を向け、出て行こうとする忍人を風早が呼び止めた。 「なんだ。」 「千尋を頼むよ。」 彼女の身の安全だけではない。彼女の気持ちを。その心を。 当然だと頷いて背を向けた忍人に、風早は心の中でそう呟いた。 * * * 「姫、ここは私に任せてお退きくださいっ。」 敵に槍を構えながら、布都彦が千尋を振り返った。 敵を退けては引き、再び迫ってきたらまた食い止めて、を繰り返しているうちに相手も次第に劣勢になりつつあった。 「でもっ。」 一緒に戦っていた千尋が、布都彦の言葉に眉をひそめる。 「これは正規の軍ではありません。我らの資材を狙って来ただけでしょう。」 身なりや装備から察するに、常世軍の底辺にいる寄せ集めの隊だろう。 こちらの荷を狙って来たのならば、それらを持っている補給部隊が遠ざかった今、彼らにはもう戦う理由がない。 「大丈夫、私もすぐに引きますのでっ。」 布都彦の自信に満ちた表情に、千尋も頷いた。 年若いが、武人としては頼りがいのある若者だ。 「わかった…っ。」 だがその時、戦意を失いつつあった敵が急に色めきたった。 「姫だと?」 「もしかして、あれが中つ国を率いているとかいう二の姫か?」 「しまったっ。」 二の姫を捕らえれば、彼らにとって大層な手柄になることは間違いない。 つい、いつものように「姫」と呼んでしまった軽率さに、布都彦はわが身を呪った。 戦意を取り戻した彼らは、資材を狙うのと全く変わらぬ目で千尋に迫ろうとしている。 「…無礼なっ。」 襲い掛かろうとする敵に、槍を大きく振り払うと、前面にいた数人が倒れた。 が、布都彦の槍の死角になったところから、他の輩が迫った。 「なっ…。」 千尋は体勢を立て直して弓を構えようとしたが、そのとき既に彼らは、弓の間合いの中に入り込んでいた。 近すぎて、間に合わない。 「姫…っ。」 布都彦が慌ててきびすを返したが、数人が千尋を捕まえようと襲い掛かった。 「姫!」 その時、目にも留まらぬ早さで何かが飛び込んできたかと思うと、稲光のようなきらめきが二筋走った。 一瞬の間をおいて、彼らがバタバタと倒れる。 千尋と布都彦が呆気に取られたまま目を凝らすと、千尋の前に、二本の剣を払った忍人がいた。 「葛城将軍?」 「え…? どうしてここに。」 忍人は体勢を起こすと、千尋を取り囲んでいる敵に向かって剣を構え直した。 返す刀がキラリと光る。 「二の姫には指一本触れさせん。命が惜しくないならかかって来いっ。」 |