魂の記憶 2
「お〜い、布都彦、温泉の湧く泉ってのはこの辺かぁ?」 「ああ、確かこの辺りだったと…。」 そのとき、ガヤガヤとした気配とともに数人の声が聞こえてきた。 「ほんとにあるのか、そんな都合のいいもの。もしあったとしても、冷泉だったり、 逆に熱すぎて入れなかったりするんじゃないの?」 「そんなことはない、湯加減は申し分ないし、疲労回復・滋養強壮に効く霊験あらたかな湯だと評判なのだぞ。」 「滋養強壮に霊験あらたかって…。ますます胡散臭い。」 「まぁまぁ那岐、せっかくここまで来たんだから、布都彦を信じて行ってみればいいじゃないか。 それに手に持ってるのは、バスタオル代わりの布じゃないのかい?」 「風早、ばすたおるってのは何なんだ?」 「うるさいなぁ、夜風が冷たいから上掛けにと思って持って来ただけだよ。 サザキも気にしなくていいからっ。」 「あ、ありました、ほらあそこに…。」 そんな声とともに、布都彦が泉を指しながら木々の間から現れた。 だが、次の瞬間、彼はそこにいた二人を見て止まってしまった。 「どこ? …って、うわっ。なんだよ、急に止まるなよ。」 続いて現れた那岐が、布都彦の背にぶつかって文句を言っている。 「どうしたんですか、二人とも。…あれ、千…尋っ?」 「…と忍人だよな? お…まえら、そんな格好で何やって…。」 更に姿を見せた風早とサザキも、布を一枚まとった上に忍人の上着を羽織っただけの半裸姿の千尋と、 彼女を抱くようにその肩に手を置いている忍人の姿を見て目を丸くした。 「あ、いや! これはその…っ。」 焦った忍人は、こんな姿の千尋を晒すわけにはいかないと、思わず彼女の体を抱き寄せた。 「忍人…。まさかとは思いますが、俺のお育てした大切な姫を傷ものなんかにしてないでしょうね?」 だが、そんな忍人の行動は、逆に彼らの猜疑心をかきたてたようだ。 「ご、誤解だ、風早っ。姫は俺の身を案じてこの泉に誘ってくれただけで…。」 「ふ〜ん? で、ふたりして温泉に入ってたわけ?」 そこへ那岐が追い討ちをかける。 「い、い、一緒に…!?」 止まったままだった布都彦が、その言葉に反応して素っ頓狂な声を上げた。 「違うと言っているだろう。布都彦も真に受けるなっ。」 「ちょっと、みんな何言ってるの、私が一人で泉に入ってただけで…。」 忍人の言葉に加勢するべく、千尋も忍人の腕を離れて、皆の方へ向き直った。 「はいはい、千尋は黙っていましょうね。」 そんな彼女を風早がさりげなく脇へ導く。 いつもと同じ爽やかな笑顔が、妙にコワイ。 「一緒かどうかは別としても、姫さんは水浴びしてたんだよな。 いや〜、乙女の柔肌を目にできるなんて、うらやましいねぇ。」 サザキがしたり顔で頷いた。 「お、乙女の柔肌…っ。」 「おまえさぁ、そういう単語にだけ反応するのやめなよ。」 ネジが一本飛んでしまったような布都彦に、那岐が呆れ顔で言っている。 「誤解だと言っているだろう。確かに姫の素肌は目にしたが、決して故意ではなくたまたま…。」 「ほう…?」 風早の目がキラリと光る。 「へー。でもそれってさ、海やプールで水着姿を見るのとはわけが違うんじゃない?」 那岐が珍しく絡んでいる。 どうやら、動揺している忍人を見るのが面白いらしい。 「そうだねぇ。同じ水の中でも、泳ぐのと湯浴みをするのとでは、意味合いが全く違うからねぇ。」 追い討ちをかける風早の言葉に、忍人は二の句が繋げなくなった。 「あちらの世界へ行ったばかりの頃は、俺もよく那岐や千尋と一緒に風呂に入ったものだけど…。 最近はすっかりご無沙汰しているというのに。」 可愛かった二人を思い出して、風早は思わずため息をついた。 そんな風早に那岐が慌てて噛み付く。 「一緒にって、一体いつの話だよっっ。そんなのこの先、永遠にご無沙汰だよっ。」 「おや、そうなんですか? つまらないなぁ…。」 「あんたねぇ…っ。」 風早の横で、那岐が額を押さえている。 どうやら矛先がずれてきたようだ。 忍人は、これ以上付き合っていられないとばかりに、小さくため息をつくと 傍らに置かれていた千尋の衣を拾い上げた。 「ほら、姫。とりあえず身づくろいを。いつまでもそのままでは冷え切ってしまう。」 風早と那岐の陰になっていた彼女に数歩近づき、それを差し出す。 だがその時、小さな切れ端のような布が滑り落ちた。 細い紐が付いているらしく、それが忍人の手に引っかかってぶら下がった。 「…ん?」 ずいぶん珍しい作りだ。彼女がいた異世界のものだろうか。 それにしても、このようなものを身に付けているのを見たことはない。 「それはっ…。」 だが忍人がそんなことを考えていると、それを見た風早と那岐が、同時にピキッと表情を固まらせた。 「ブ、ブラ…。」 「忍人、それを隠して。いや、離して…っ。」 「なんだ? 一体どうし…。」 だが次の瞬間、二人の間から千尋が飛び出してきた。 「きゃ〜〜〜!いや〜〜〜!」 「…っ?」 忍人が思わず一歩引くと、泉の淵に足がかかった。 すぐ後ろは温泉だ。 「ど、どうした、姫。落ちつけっ。」 だが千尋は、なりふり構わず忍人に迫ると、その手から衣を奪い取った。 「返してーー!」 「うわっ。」 その勢いに押された忍人は、淵にかかっていた足を踏み外した。 体が宙を舞うように後ろへ倒れこんでいく。 思わず手を伸ばすが、支えるものは何もない。 「あっ。」 それを見た千尋が驚いて手を伸ばしてきたが、彼女の手が触れそうになった瞬間、 忍人はそれを小さく払いのけた。 「忍人さんっ。」 彼女の声が聞こえたのと同時に、耳元でザバンッと派手な水音がした。 * * * * 「いやぁ、水も滴るいい男だったねぇ。」 明るい光の入る小さな部屋の片隅で、椅子に腰掛けた風早がにこやかに呟く。 「そんな悠長なものか。こっちは服のまま、ずぶ濡れになったんだぞ。」 「それがまたいいんじゃないか。 泉の中で髪から水をしたたらせている姿は、なかなか色っぽかったよ。」 人ごとだと思って好き勝手なこと言っている。 「そのおかげで、このザマだが?」 寝台の上で半身を起こした忍人は、風早の呑気な口調にムッとして腕を組んだ。 温かな温泉だったとはいえ、着替えも何もない。 那岐や、慌てて着替えをすませて戻ってきた千尋が、持っていた大判の布を貸してくれたが、 ずぶ濡れになった服は、夜道を歩くうちに芯まで冷え、結局風邪を引いてしまった。 「不本意だ。」 忍人は横を向いて、言い放った。 「何が? 風邪を引いたことがかい?」 「それもあるが、この程度で寝込まねばならぬほど、軟弱だなどと思われたくない。 風早、いい加減、この軟禁状態を解け。」 「それは出来ないな。千尋…二の姫の命令だからね。」 命令口調の忍人に、風早はにべもなく要求を却下した。 あの晩、船に戻った忍人は、急ぎ着替えを済ませ、床についた。 だが、冷え切った体はなかなか温まらず、朝目覚めると、頭に鈍痛が響いた。 「忍人さん、おはようございます。あの…夕べはごめんなさい…。」 千尋がやはり前夜のことを気にしていたらしく、朝からやって来たが、話をするうち 忍人の不調に気づいたらしい。 「風邪は万病の元って言います。今きちんと休んでおかないと…。」 「この程度で寝込んでいては、兵たちに示しがつかん。」 「咳だってしてるじゃないですか、お願いだから…。」 「君が俺に近づかなければすむことだろう。さあ、そこをどいてくれ。」 そのとき千尋は、一瞬言葉を失ったように見ていたが、出て行こうとする忍人にハッと我に返った。 「だめっ。絶対通さないから。風早、那岐、サザキ、布都彦、誰でもいいから来てー!」 「なっ…。こら、姫っ。」 二人きりの部屋の中から、そんな風に助けを呼ばれては、またあらぬ誤解を生む。 だが、忍人のその一瞬の躊躇が勝敗を分けた。 千尋は、何事かと駆けつけた兵たちに次々と指示を出し、あっという間に忍人を閉じ込めてしまった。 彼女の将としての才は見事と言うほかない。 今もこの部屋の外には、見張りの兵が立っているはずだ。 「本当に大したものだ。」 忍人は小さく笑みを浮かべながら呟いた。 「何のことだい?」 「こちらの話だ。それより風早、あれから姫の姿を見ないが、どうかしたのか?」 忍人は少し前から気になっていたことを口にしてみた。 部屋に閉じ込められて丸一日半が経つが、あれから一度も、千尋の姿はおろか声も気配も感じない。 もしや、彼女もあの温泉騒ぎのせいで風邪でも引いてしまったのだろうか。 「いや、大丈夫、元気だよ。体はね。」 そう言って彼は、少し視線を下げた。 「…?」 「気に病んでいるんだよ。君のことを想って温泉に誘ったのに、逆に体調を崩させてしまったんだから。」 その言葉に忍人は、憮然とした表情を見せた。 「大したことはないと言っているのに、大げさにしたのは彼女の方だろう。」 「千尋はね、本能的に恐れているんだ…君が倒れることを。」 「なぜだ。」 「それは、彼女にもわからないんだと思うよ。強いて言えば、魂の記憶…かな。」 「どういう…意味だ?」 だが風早はそれには答えず、視線を上げて忍人を見た。 「それともうひとつ。」 先ほどとは違って、少しばかり強い口調になっている。 「あの泉で足を踏み外したとき、君は思わず手を伸ばしたのに、それに応じた千尋の手を、払いのけたんじゃないのかい?」 「…ああ。」 確かにその通りだ。 しかし、払いのけたというような強い拒絶ではない。 あのまま千尋の手を取っては、彼女も一緒に引きずり込んでしまう、そう思って僅かに触れた指先を払った。 それだけのことだ。 千尋にも、手をつかみ損ねたという印象しか与えていないはずだ。 「いや、気づいたみたいだよ。もっとも、君の真意にまでは思い至っていないようだけれど。 そして、極めつけは。」 今度は、いつもの柔和な笑みに戻っている。 だが、わかる者にはわかる。これは含みのある笑みだ。 いや、笑みなどではない。返答次第ではただでは置かないという気配が見え隠れする。 「な、なんだ。」 忍人は思わず身構えた。 「俺に近づくな。そう言ったそうだね? |