空色の扉 5
【夏雲の回想】
県大会決勝戦・第4試合、ダブルス。
対戦相手が渾身の力を込めて打ち込んできた球は、ふたりの間合いの微妙なところを突いてきた。
瞬時に飛び出たが、相方も同じように走りこんで来ていることに直前まで気付かなかった。
まずいと思った時には、突っ込んで来た相方と接触していた。
いつもならこんなミスはしないのに、優勝がかかっている試合だったので、二人ともテンパっていたのだろう。
「大丈夫か、翔。悪い。」
「大したことない。そっちは?」
尻餅をついた翔に、相方が手を伸ばす。
だが彼の手を取ったとき、腕の奥にどんよりと鈍い痛みが走った。
「どうした?」
「いや…。」
筋をひねったのだろうか。
翔の中に小さな不安がよぎったが、ここで棄権するわけにはいかない。
(あと少し。このゲームを取れば。)
優勝に手が届く。
「大丈夫。」
その言葉に相方も頷いた。
「ちょっとヤバい感じだねー。」
「うん…。」
樹梨の従兄弟のチームにはもう後がなくなっている。
アキは、気遣うように隣に立っている樹梨を見た。
「でもさ、勝負は最後までわかんないって! 野球も九回ツーアウトからって言うしねっ。テニスだけど。」
元気付けるように明るく言い、ちょっとしたボケまでくっつけてみたが、樹梨はじっとコートを見つめたままだ。
「えーと…とりあえず応援しよ? 今出てる選手の名前、なんていうのかな。」
アキは対戦表を取り出して、出場選手の名前を見た。
「おかしいの。」
「え?」
「あの人。さっきからなんか変…。」
そう言って樹梨が指差した先は、相手チームのコートだった。
「どういうこと?」
「どこかを庇っているような。なんか辛そうっていうか…。アキちゃん、それ貸して。」
そう言うと樹梨は、アキが差し出した対戦表を手に取るなり、相手コート側のバックに走っていってしまった。
「……ど、どしたの? えーと、相手の選手のことだよね? 私には全然普通に見えるけど…。」
アキはもう一度コートに目をやり、ひとりで首をひねった。
「すみません、いま後衛にいる人のお名前、教えてもらえませんか。」
樹梨は、彼と同じ学校だと思われる女生徒に声をかけた。
「え? ええと、一橋くんのこと?」
声をかけられた生徒は少し驚いたように樹梨を見たが、快く教えてくれた。
「彼カッコいいよね〜。ルックスもテニスも!」
それに気付いた友人らしき女生徒が、会話に加わってくる。
「でも、無理よ〜。彼、テニス一筋でそれ以外、見向きもしないから。」
「そこがまた良かったり?」
「ありがとうございます。」
再び黄色い声援を送り始めた女生徒たちに短く礼を言うと、樹梨はフェンス間際まで近寄った。
「一橋…。一橋翔。」
手元の対戦表に書かれた名前を確認する。
学年は同じ2年生だ。
この試合が始まった瞬間から、引き付けられるようにそのプレイを見ていた。
だから、わかる。
彼のコンディションが、先ほどまでとは全く違っていることが。
樹梨の従兄弟チームのプレイヤーはもう気付いているかもしれない。
だとしたら、きっと狙ってくるだろう。
そう思って、フェンスの金網に手をかけたとき。
前衛に移った彼に向かってサーブが放たれた。
普通なら、ボレーの格好の餌食になるはず、だったが。
その打球は、打ち返そうとした彼のラケットを弾き飛ばした。
「一橋くん!」
その瞬間、樹梨は思わずそう叫んでいた。
「…っ。」
「どうした、翔? チャンスボールだったのに、らしくないな。」
「悪い…。」
まずい。
あの後から続くラリーで、ラケットを振るたび鈍い痛みがじわじわと広がっている。
それを悟られないようにさりげなさを装いながら、翔は後ろへ転がったラケットを拾うため、フェンスに近づいた。
「一橋くんっ。」
そのとき、観客のどよめきを縫うように、その声が届いた。
「もう止めて!…じゃないと…。」
「……?」
名前を呼ばれて思わずそちらを見ると、同じ年頃の女性がこちらへ向かってなにか言っているのが見えた。
だが、見知った顔ではない。
それよりも今は試合に集中しなければ。
相手選手は次も、翔めがけて打ち込んでくるだろう。
今度こそ。
翔は、ラケットを手に取るとフェンスに背を向けた。
「ダメだよ、一橋くんっ。棄権して!」
「ちょっとなんなの、あんた。試合妨害?」
先ほどの女生徒たちが怪訝そうに樹梨を見つつ、取り巻こうとした。
「あ〜〜、ごめんなさいですぅ〜〜。なんでもありませんからっ。ほら樹梨、行くよっっ。」
そこへ駆けつけたアキが、慌てて樹梨を引っ張った。
「でもっ。」
「いいから!」
アキは、樹梨の腕をわきの下から抱え込むようにつかんで、ぐいぐい引っ張った。
「一橋くん! わかってるんでしょ?大丈夫じゃないんでしょっっ!?」
「樹梨、しつこい! みんなが睨んでるからっ。」
アキに引っ張られながらもずっとコートを見続けていた樹梨は、人垣に隠れて見えなくなる瞬間、彼が一瞬振り向いたのを見た。
「なんだ、今の?」
「…さあな。」
相方に軽く相槌を打ちながら、ポジジョンに戻る。
再び相手チームのサーブから始まったラリーが、後衛同士の間でしばらく続く。
一瞬だけ騒ぎを起こした女性はすぐに姿を消したようだが、「大丈夫じゃない」と叫んだ彼女の瞳が、なぜかふと翔の脳裏に浮かんだ。
次の瞬間、相手の打った球がまたしても翔の真正面に飛んできた。
意識が引き戻される。
チャンスボールだ。
今度こそ。
「…っ…行っけぇ…っ!」
翔が力を振り絞って打ったスマッシュは、相手コートのラインぎりぎりを鋭くえぐった。
一瞬の間をおいて、試合終了を伝える笛と審判の声が響く。
その判定に観客やチームメイトたちから歓声が上がった。
「やったな、翔!」
相方が駆け寄ってくるのが見える。
「ああ…。」
相方の満面の笑顔、チームメートたちの歓喜の声。
それらに囲まれて、言いようのない安堵と達成感に包まれる。
だが。
次の瞬間、手からラケットが滑り落ち、翔は利き腕を抱え込んで膝を折った。
(続く)
(サイト掲載日 2012. 9. 16)