空色の扉 6
【緑陰】
遠くから歓声やどよめきが聞こえてくる。
球技大会のプログラムは順調に進んでいるようだ。
「そ、それで!?」
大会の主会場になっている高台へと続く道。
その途中のベンチに腰を下ろしていた晴馬は、思わずアキに詰め寄っていた。
「あんただって知ってるでしょ? 一橋くん、この大学に来てからテニスやってる素振りなんかあった?」
「……ない。」
それどころか、避けているようだった。
「あの後は救急車騒ぎで大変だったみたいね。」
誰かが慌てて連絡したらしく、本人は大袈裟だと迷惑がっていた様子だった。
だが遠くからそれを見ていたアキの目には、翔がもう一方の腕で抱え込んでいた利き腕は、だらんと垂れ下がっているように映った。
「樹梨が落ち込んじゃってねぇ。わたしも大変だったよ。従兄弟くんは自分たちが負けたのを残念がってるんだと勝手に納得してたけど。」
そのときの様子を思い出して、アキはクスっと笑った。
「ちょっと待ってよ、なんで樹梨ちゃんが落ち込むのさ。だって初めて会ったヤツのことだろ?」
いや、そもそも「出会った」とも言えない状況だったのではないか。
そんな晴馬を見てアキは、はぁ〜っと大袈裟にため息をついた。
「ま、空気読めない君には、わかんないよね。」
「なんだよ、またそれ〜?」
「一橋くんがその後どうなったのかはよくわからないけど、それ以降の大会には姿を見せてないし。
答辞を読むくらいだから、勉強一筋に方向転換したんじゃない?」
それを聞いて晴馬は珍しく考え込んだ。
「前から思ってたんだよな。あいつ、なんか頑なで素直じゃないっていうか。
どっか奥の方に熱いものを持ってるのに、それを隠そうとしてるみたいっていうか。」
「へ〜、意外とよく観察してるんだ。」
「アキちゃん、僕のことどんなヤツだと思ってんのさ。」
茶化すように言うアキに、晴馬はプクっと膨れた。
「君があのときの…。」
「だがらダメだって言ったのに。」
樹梨は包帯でぐるぐる巻きにした翔の手を取ったまま、少し困ったような小さな笑みを向けた。
そんな彼女に対して、素朴な疑問が湧く。
「どうしてあんなことを?」
樹梨にとって翔は、あの日初めて目にした、しかも対戦相手側の選手だったはず。
なぜあんなに必死に忠告してくれたのだろう。
「わたしの父、開業医なの。整骨院。父の仕事には子供の頃から興味があって、高校の頃はバイト代わりに時々手伝ってて。」
スポーツ整体という看板を上げているせいか、翔のように腕や肘を痛めた学生が多くやって来る。
「父がよく言うの。なんでこんなにひどくなる前にやめなかったんだ、コーチや監督はどこ見てたんだ!って。」
治療には時間がかかるし、根気も必要だ。
患者としてやってくる学生たちの苦労や焦りもたくさん見てきた。
「なるほど…。」
彼女にとっては、曲がりなりにも医療に携わるものとしての使命感だったのだろう。
そのことに納得しながらも翔は、どこか物足りないような、もの寂しいような、妙な気分を感じていた。
そんな心持ちでいることに、戸惑いも覚える。
窓の外に広がる空は、あの日と同じような透き通る青色をしている。
それを見ながら翔は、戸惑いを振り払うようにスッと立ち上がった。
「ありがとう。助かった。」
樹梨が手当てしてくれた手首を軽く持ち上げてみせる。
「会場に戻るよ。主催者に怪我の報告と、棄権したことへの謝罪もしておかないとな。」
「一橋くん。どうして試合に出たの? あの程度の打球に耐えられないんだもの、完治してないんでしょ。
レクレーションなんだから、いくらでも断れたはずなのに。」
樹梨は立ち上がった翔を見上げて、先ほどと同じ質問をした。
テニスが出来るまでに完治させていないということは、もうプレイするつもりはないという意思表示だったはずだ。
今日あそこまで勝ち進んだのは、単に相手が弱かっただけだろう。
「さぁ、どうしてだろうな。」
率直に聞いてくる樹梨に、翔は苦笑いを浮かべた。
あの県大会のあと。
最初はもちろん、きちんと治療して復帰するつもりだった。
だが、久しぶりにテニス部に顔を出した時、偶然知ってしまった。
監督やコーチが、最初から翔の異変に気付いていたことを。
にも拘わらず彼らは、最低限の治療も応急処置もさせず、翔にプレイを続けさせた。
「うそ、なんで…?」
「俺たちが棄権したら、ゲームは2対2。だが第5試合で勝てる見込みがなかったんだ。そっちのチームは強豪校だったからな。
先に2試合取れたのもラッキー要素が大きかった。」
タイムを取って治療をすれば、相手に休息時間を与えてしまう。
翔の不調を教えることにもなる。
「君も知ってるだろう。あと少しだったんだ。」
だが、相手も必死だ。
そのあとのラリーと攻防は、意外と長引いた。
「じゃあ、監督さんたちは、一橋くんの体よりゲームの勝利を優先させたってこと?」
「まぁ、そういうことだな。」
「信じられないっっ。仮にも指導者のくせになんてこと…っ。」
樹梨は椅子を蹴る勢いで立ち上がって翔に詰め寄ったが、次の瞬間、その距離感に固まった。
「あ…。」
翔の顔が目の前にある。
「……っ。」
「ご、ごめんなさいっ。」
目を丸くして見つめている翔から目を逸らした樹梨は、慌てて腰を下ろして俯いた。
もともと、向き合って丸椅子に座っていたのだ。
そのままの場所で、相手を見たまま立ち上がれば。
「い、いや…。」
翔も所在がなくなり、同じように再び椅子に腰を下ろした。
今度は丸椅子を90度回転させて。
が、なにやら視線を感じる。
翔がなにげなく顔を上げると、先ほど樹梨が声を荒げたせいか、救護室に数人いた学生の注目が二人に集まっていた。
「……。」
翔の視線に気づくと、皆一斉に目を逸らせ、何事もなかったように装っている。
余計に気まずい。
「あ、その…。とりあえず、会場に…。」
「わ、わたしも…っ。」
翔が彼らから逃れるように立ち上がると、樹梨も慌てて付いてきた。
「もし監督にストップをかけられてても、俺はやめなかったと思うんだ。」
特に急いでいるわけでもないので、翔は木陰を選びながらゆっくりと歩いていた。
「やりきって勝利したから悔いはない。」
けれど。
「でも。結果的に同じだったとしても、見て見ぬふりをするなんて、指導者として許されることじゃないわ。結局、使い捨てにされたってことでしょ?」
鋭いところを突いてくる樹梨に、翔は苦笑した。
「ああ、だから…。やめたんだ。」
あのとき聞いた監督たちの会話が、脳裏に甦る。
『あいつは間に合わんだろ。それまでの練習でも負荷がかかっていたからな。そう簡単には以前のようなプレーは出来んよ。』
『県大会優勝が彼の花道ですね。他にも有望な選手は育ってきてますし。戻ってきたら適当にラリーでもさせておきますかね?』
そんな会話をしながら遠ざかっていく笑い声。
樹梨の言う、使い捨てにされた、という言葉がまさにぴったりと、そのときの翔の気持ちにはまった。
治療に疲れ、気力が弱っていたのかもしれない。
有望な選手は他にいくらでもいる。
その言葉が、翔の心に楔のように突き刺さった。
「続ける意味を見失った。もう俺の戻る場所はないんだ、と。」
3年生への進級が間近だったこともあり、いろいろなことにケジメをつけるべく、
その日を境に翔は、テニスに関することを、治療も含めてきっぱりとやめてしまったのだった。
「そう…。」
あの試合のあと翔が辿った道を想像して、樹梨は視線を落とした。
新しい緑に包まれた木々の下。
重なり合った葉が、球技大会の会場へと続く道に淡い陰を作り出している。
ふと、横を歩く翔の手が見えた。
樹梨が包帯でぐるぐる巻きにした手首。
その手の平を彼は、何かに耐えるようにぐっと握りしめている。
「試合を続けたことに悔いはない」と翔は言った。
その言葉に嘘はないだろうが、やはり全国大会の舞台に立ちたかったに違いない。
やめたくなかったに違いない。
でなければ、晴馬に強引に引っ張り込まれたとしても、球技大会に出場などしなかったはずだ。
きっと翔の心の中には、今も未練が残っている。
あの日、彼を止めることが出来ていたら。
彼が経験した痛み、悔しさを思い、胸の奥がギュッと潰されそうになる。
それと同時に襲われる、力不足だった自分への悔恨の念。
樹梨は無意識に、包帯の巻かれた翔の手首を握っていた。
「…ひ…っく…。」
「…?え?」
「あ、あれ…。」
しゃくりあげる声に、樹梨は初めて自分が泣いていることに気がついた。
翔も驚いたらしく、歩みを止める。
「ご、ごめん…なさい…。」
樹梨は慌てて、翔の手首を離して涙を拭おうとした。
だが、その手はすぐに翔の手の中に閉じ込められた。
「……っ。」
大きな手の温もりに、胸がドクンと波立つ。
彼の温もりが手から流れ込んできて、樹梨の中にある悔しさや悲しみを流していくように思えた。
「ありがとう。……樹梨。」
小さく囁くような声が、そっと樹梨の耳に届いた。
〜FIN〜
(サイト掲載日 2012. 9. 16)