空色の扉 4


【秘密】



「ほんとにごめん…僕のせいで…。」

救護室で、手首を包帯でぐるぐる巻きにされている翔を見て、晴馬が珍しくシュンとしている。

「だから気にするなって、言ってるだろう。」

晴馬がこんなふうだと、気味が悪い。
その晴馬は、アキという名のもうひとりの女子学生にペタペタと消毒液を塗られていた。

「そうよ、晴馬くんがそんなに責任感じることじゃないから。」

湿布の上から包帯を巻きつけていた樹梨が、翔の手首から視線を離さずに言った。

救護室には他にも、突き指をしたとか転んだとかいう学生が入れ替わり立ち代りやって来ていた。
翔の捻挫は幸い大したことがなかったので、樹梨が救護室の先生から「練習がてら君が手当てしなさい」と任されていた。

「晴馬くんを突き飛ばして、自分も一緒に球を避ければ良かったのに。」

「それはそうかも…だけど…。」

いつもの穏やかな雰囲気と違ってなぜかお怒りモードの彼女に、晴馬が翔を見た。
それに気付いた翔も、戸惑った顔を見せる。

「だいたい、どうしてテニスなんかに出場したの、一橋くん。」

「……。」

晴馬が不思議そうな顔をする横で、翔は視線を落とした。

「どうしたの樹梨ちゃん、なに怒ってんのさ。 翔をテニスに引っ張り込んだのは僕で…。あ〜だからやっぱり原因は僕なわけで…。」

そこへ思い至り、頭を抱えて再度落ち込みモードに突入する晴馬。
その彼を無視した樹梨は、包帯を巻き終わった翔の手を取ったまま、翔を見上げた。

「止められてたんじゃないの?テニス。」

「…?どうして…。」


「うわーっっ、滲みるぅぅぅ〜〜。」

思わず樹梨を見つめる翔の横で、晴馬がいきなり悲鳴を上げた。
深めの擦り傷に消毒液をたっぷりと付けられたらしい。

涙を潤ませた瞳を向けてくる晴馬に、樹梨は小さく息をついた。

「アキちゃん、悪いけど…。」

樹梨が晴馬の手当てをしていた女子学生に目配せをすると、彼女は心得たとばかりにニッと笑った。

「さ、あんたの手当てはこんなもんでしょ。あとはカサブタさんにお願いしなさい。」

「カサブタさんって…。」

「言っとくけどカサブタを無理やり剥がしたらダメだからね?」

アキは救急セットを手早く片付けると、立ち上がって晴馬を促した。

「絆創膏くらい貼ってよ〜。」

「贅沢言わない。」

涙目のまま訴える晴馬をスルーしたアキは、彼を半ば引きずるように無理やり救護室から連れ出した。

「ええ〜〜。」

晴馬がじたばたと抵抗しているようだったが、それもだんだん遠くなる。
彼らが出て行ったせいで、翔と樹梨の周りには静寂が漂った。

「その…。さっきの話だけど。なんで知ってるんだ?君。ええと…。」

「七瀬樹梨、です。」

彼女は改めてフルネームを名乗ったが、その名前に心当たりはない。

「一橋翔。」

先ほどから名字で呼ばれているので今更ではあったが、一応、翔もフルネームを告げた。

「…知ってる。」

「そうだな、入学式の答辞のときに皆の前で名乗ったしな。」

式次第にも小さく載せたあったと思う。

「そうじゃなくて。もっと前から…。」





「ひどいよ、アキちゃん。余計に痛くなっちゃったじゃないかぁ。」

「消毒薬が滲みるのは当然でしょ。」

「ちぇ〜。僕も樹梨ちゃんに手当てして欲しかっ…。」

ぶつぶつと呟いていた晴馬は、アキの冷ややかな視線に慌てて口を閉じた。

「晴馬くんねぇ、もういい大人なんだから、もうちょっと空気読みなさいよ。」

「何のことだよ。」

「樹梨よ。相手の男子、ええと…一橋くんだっけ? 彼も相当、間抜けよね。」

「翔が…?」

間抜けという表現とはおよそ掛け離れた印象だ。
それとは対極にいるようなヤツだけど…と晴馬は首をひねった。

「あのさ、全然、話が見えないんだけど。もうちょっとわかりやすく言ってくんない?」

彼女は、樹梨と同じく晴馬の高校時代の同級生で樹梨とも仲が良い。
けれど時々こんなふうに、会話に取り付く島がなくなるのが欠点だ。

「あ〜あ、男ってなんでみんなバカなんだろ。」

「え〜。それって僕も入ってるわけ?」

当然、という視線を送ったアキは、球技大会の会場へ戻る道の途中にあったベンチに腰を下ろした。

「空気読めない男と、記憶力なし男。」

前半が晴馬のことだとすると、記憶力うんぬんは翔のことだろうか。
なにやら意味深な言葉に、晴馬はほんの少し迷った末、彼女の横に腰を下ろした。




新緑の葉を茂らせた木々が、時折吹く微かな風に、小さく葉を揺らせている。

「あの日もこんなふうにお天気が良かったね。」

樹梨は救護室の窓から見える空に目をやった。

「あの日?」

「高2のときのテニス県大会。従兄弟が出場するっていうから、応援がてら見に行ったの。」

「高2…。」

意外な話題を出した彼女に、翔はオウム返しのように呟いただけで、彼女の次の言葉を待った。

「強豪校だったからどんどん勝ち進んでて、その日は決勝だったの。」

「……。」

その試合のことなら、よく覚えている。

だが今までは、敢えて考えないようにしていた。
翔はほんの少し視線を下げた。

彼女の従兄弟の高校と対戦したのは。

「俺たちと…?」

「わたしの従兄弟が対戦したのは、一橋くんじゃなかったけどね。」

その試合は全部見ていた、と彼女は少し複雑そうに笑った。




「わたしも一緒に見に行ってたんだ。樹梨のイトコ、すごくカッコいいって聞いてたから。
ほんと、カッコ良くってさ〜〜。今思い出してもキャ〜〜って感じでね、相手のボールが飛んで来たところをスパーンと…。」

「アキちゃん、話が逸れてる。」

晴馬のジトッとした視線に、アキはコホンと小さく咳払いをした。

「ま、贔屓目ナシに本当にカッコ良かったわけよ。どこぞの男とは…。」

「どうせ、僕とは大違いって言うんだろ。」

晴馬は口を尖らせた。

「その従兄弟くんの次の試合に出てきたのが、一橋くんだったかな。ダブルスで。」

「翔?」

そう言えば、テニスをやっていたのは高2までだと言っていた。
最高成績は県大会優勝だった、とも。
アキの言う、その大会のことだろうか。

だが、晴馬の頭に素朴な疑問が浮かんだ。

「あれ、なんで最後が県大会なんだろ?優勝したんならその次は全国大会出場、だよな?」

「出られなかったんじゃないの? レギュラー落ちか、もしかしたら退部を余儀なくされた…とか。」

「え!何でだよっ。」

「さっきとおんなじ。君みたいなバカな相方のせいで怪我したみたいよ?」

アキはさらっと言ってのけたが、晴馬は言葉を失った。




「あの試合…。」

翔は、窓から入ってくる柔らかな5月の風を感じながら、目を伏せた。


カシャーンと鋭い音を立てて、手から離れたラケットがコートの中を滑っていった。
そのときの甲高い音が耳に甦る。

それと同時に、心の奥に閉じ込めていた記憶がこじ開けられたような気がした。


(続く)




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(サイト掲載日 2012. 9. 15)






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