空色の扉 3

【青葉の風】



何度もリフレインする映像、互いの台詞、声、風の音。

「あ、その、あの時は…。ありがとう。」

「え?」

「答辞を拾ってくれて…。俺、ちゃんと礼を言ってなくて。気に…なってたから。」

そんなことを言われるとは思ってもいなかったのだろう。
樹梨と呼ばれた彼女は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐににっこりと笑った。

「そう…だったの。」


「なになに、何の話? てか、ふたり知り合いだったんだ!?」

「あ、ううん、知り合いってほどじゃなくてね。」

そこへ晴馬が割って入り、彼女の意識が再び彼に向いた。
その瞬間、二人を包んでいた風が、サーッと音を立てて散って行った。


***


「…もうちょっと気を利かせるとか、雰囲気を感じ取るとか。出来ないのか?あいつは…っ。」

いわゆる、空気を読めない、という人種だろう。
翔は中庭の大きな樹を見上げながら、数日前の出来事を思い出して、ため息をついた。

「雰囲気って?」

「うわっっ。」

そこへ突然、覗き込むように晴馬の顔が出現し、翔は思わずのけぞった。

「晴馬!? なんなんだ、いきなり。」

「えー。何回か呼んだんだけど? 翔、さっきからボケ〜っとしちゃってさ。どうしたんだよ。」

「…別に。」

こいつに「ボケ〜」などと言われる筋合いはない。
中庭のところどころに置かれているベンチのひとつに座っていた翔は、手にしていた本をめくり直した。

「てか、翔。この場所好きだよなー。なんか思い入れでもあるわけ?」

晴馬は翔を見たまま、彼が見上げていた大樹の幹をペタペタと叩いた。

「べ、別にっ。」

思い入れという言葉に一瞬、彼女の笑顔がよぎったが、翔は慌ててそれを振り払った。
彼女のことが気になっていたのは入学式での一件があったからで、きちんと礼を言えた今はもう気に掛ける必要などないはずだ。

そうだ。なぜこんな場所にいるのだろう。

「図書館に行く。」

スクッと立ち上がった翔は、そのまま中庭に背を向けた。

「あ、待てよ、翔ー。」

晴馬がバタバタと追いかけてくる。

「待てってば。話があって探してたんだ。明後日の球技大会だけどさ。エントリー種目は…。」

「俺はパス。」

新入生の交流を深めるため、という名目で行なわれる球技大会があるという話は聞いた。

「なんで大学に来てまでそんなことしなきゃならないんだ。」

中高生じゃあるまいし。

幸い強制参加ではないので、翔には参加するつもりはさらさらなかった。
だが。

「え〜、何言ってんのさ。こういうのに積極的に参加して顔を広げとかないと、かわいい女の子ともお近づきになれないじゃん。」

「だったら、おまえは参加すればいいだろ。」

「うん、だからエントリーしてきたんだ。」

それならば何の問題もないだろうと、翔は再び背を向けようとした。

「なんだけどー。」

そんな彼に、晴馬は妙な愛想笑いを浮かべた。

「一緒に書いてきちゃった…。」

「……?」

「…翔の名前。」


***


夏を思わせる陽射しに包まれたテニスコート。
緩やかな傾斜地に建つ大学の中、ここは少し高台に設けられている。

隣には広めのグラウンド。
一段下がったところには、体育館が建っている。

球技大会のために全て休講になっている今日は、大会を運営する上級生も含めて、多くの学生がこのあたり一帯に集まっていた。

その一角、コートから程近い木陰で、翔は仏頂面で腰を下ろしていた。

「…ったく。今日は図書館に籠もる予定だったのに。」

恨めしげに晴馬を見ると、彼はそんな視線をさらりとかわして、右手でピースサインを作ってみせた。

「へっへ〜、これ似合ってる? アウトレットショップで買ってきたんだ。」

新品のテニスウェアに身を包んで、得意げに翔を見ている。

「あ〜、似合ってるんじゃないか?」

一方、着古した感のあるウェアに着替えた翔は、不機嫌そうな顔をしたまま頬杖をついた。

「それにしても。なんでよりによってテニスなんだ?」

バスケットにバドミントン、バレーボール。
軽いレクレーション程度に用意されたドッヂボールだってあったのだ。

それらの中でテニスは比較的に難易度が高いと思われる。

「フフン。僕、こう見えても小学校のとき、テニスクラブに通ってたんだ。」

素人じゃないからそれなりのプレイはできる、と晴馬は自信ありげに言った。

「僕の華麗なプレイで観衆の視線を独り占め!なんちゃって。いや〜参るなぁ。アドレス教えて〜って女子がいっぱい来たらどうしよう?」

「…おまえは、大学に何しに来てるんだ。」

呆れたように言う翔に、晴馬は珍しく真面目な顔をして答えた。

「あのさ、翔。前から思ってたんだけど。勉強ばっかしてたってつまんないよ?
一生の中でこんなに自由に過ごせるのはこの4年間くらいなんだから。もっといろいろ楽しまなきゃ。」

「う…。」

こんな風に説教めいたことを晴馬から言われるとは思ってもみなかったので、翔は言い返すタイミングを失った。
よくよく考えたら突っ込みどころ満載なのに、丸め込まれたようで悔しい。

「それはそうと…。」

だが、すぐにいつもの調子に戻った晴馬は、翔のテニスウェアをじっと覗き込んだ。

「それって、誰のお古? ずいぶん古びた感じだけど。そんなんじゃ、女子にモテないぞー。」

せっかくならもっと小綺麗な格好にすればいいのに、と言いたげだ。

「お古じゃゃないさ。高校のとき俺が着てたものだ。高2の半ばまでだったが。」

「…?」

「言ってなかったか? 中学高校ともテニス部だった。」

「…は?? 聞いてないよ、そんな話。って!?じゃ、なんでそんなに嫌がってるのさっ。」

球技大会の話が出たときも、テニスにエントリーしたと言ったときも、翔は一貫して迷惑そうにしていた。
今もそうだ。

「それは…。」

言いよどんだ翔に、晴馬が畳み掛ける。

「ちょっと待てよ? おまえの高校のテニス部って、結構有名じゃなかったっけ!?」

「まぁ…そうだな。」

「あ、で、でも。レギュラーメンバーだったとは限らないよな…。うんうん。」

なにかを無理やり納得するように、晴馬は顔を引きつらせながら一人で頷いた。

「いや。一応レギュラーやってた。最後は県大会優勝。」

「な…っ。マジ…!?」

そのとき、二人の名を呼ぶ進行係の学生の声が聞こえた。




「す、すげぇ…。ただのガリ勉くんだと思ってたのに。」

晴馬とダブルスで出場した翔は、ほとんど一人の力で試合を勝ち進んでいた。
そんな彼に、女子学生たちの黄色い声が飛び交い始めている。

「おい、翔! ひとりで目立つな〜〜! 僕にも花を持たせろよ〜〜っ。」

これではただの引き立て役。
大きな誤算だ。

晴馬は後ろにいる翔に向かって、ラケットをぶんぶんと振り回した。

「バカ、ちゃんと前見てろっ。」

だが、それを見た翔は顔色を変え、慌てて前に走り出てきた。

「へ?」

何事かと動きを止めた晴馬を、横へ突き飛ばす。
その瞬間、晴馬がいた場所に一直線に球が飛んできた。

「ひえっ?」

「く…っ!」

本来、もっと後方でバウンドするはずの球は、翔が顔の前でとっさに構えたラケットにダイレクトに当たった。
晴馬を突き飛ばした直後なので、体勢が整っていない。

更に、打球に意外とスピードがあったのだろう。
その球は、堪えきれなくなった翔の手から、ラケットを弾き飛ばした。

「…つ…っ。」

ラケットの転がるカシャーンという乾いた音とともに、翔が手首を抑えて膝をついた。
女子学生たちの黄色い声援が、悲鳴に変わる。

「しょ、翔! 大丈夫!?」

尻餅をついていた晴馬が、驚いて駆け寄った。

「ご、ごめん…っ。」

「…心配…ない。」

「君、大丈夫か?」

同じように、心配して台から下りてきた審判役の上級生も、晴馬の反対側から翔の様子を覗き込んだ。

だが、顔を歪めたままじっと腕を押さえている翔を見て、上級生はコートの外に向かって手を振った。
それを見た女子学生が二人、救急箱を持って走り出て来る。

「え?あれ?」

彼女らを見た晴馬が、目を丸くした。

「…すみません、大丈夫…です。気にしないで続けてください、俺は…。」

「大丈夫じゃありません!」

そこへ走ってきた女子が、よく通る声でビシッと翔を遮った。

「…?」

どこか聞き覚えのある声に翔が顔を上げると、あのときの彼女が救急箱を抱えて立っていた。

「……え。君…。」

「じゅ、樹梨ちゃん?なんで?何してるの?」

翔と晴馬は、思いがけない人物の登場に、揃って目を丸くした。

「この大会の救護委員。看護科の学生が交代で担当してるの。今は私たちが当番。」

晴馬の方を見ずにそう答えた樹梨は、翔の手首をギュッとつかんだ。

「い!?…いててててて…っ!」

「ほら、全然大丈夫じゃないでしょっ。たぶん捻挫してる。」

「わ、わかったからっ。離してくれ…っ。」

翔がたまらず悲鳴を上げた。

「ということで、救護室に連れて行きますね。この試合は棄権ということでお願いします。」

「そ、そうだね、じゃあ頼むよ。」

樹梨の迫力に押された審判員は彼女に頷くと、晴馬の方を見た。

「君も念のため一緒に行った方がいい。」

翔に突き飛ばされたときに派手に転んだらしく、晴馬もあちこち擦り傷を作っている。

「僕は水で洗っとけば…。」

「ほら、晴馬くんも一緒に行くっ。」

「は、はいっ。」

「一橋くん、立てる?」

晴馬を軽くあしらった樹梨は、翔を覗き込んだ。

「ああ…大丈夫。」

翔は、手を貸そうとする樹梨を軽く制して立ち上がったが。

「……。」

なんだろう、なにかが引っかかる気がする。
手首に鈍く響く痛みが、忘れている何かを引き出そうとしているような。

先導するように少し先を歩く樹梨が、振り向いて心配そうな瞳を向けている。
それを見ながら翔は、既視感に似た感覚に身を包まれていた。



(続く)



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(サイト掲載日 2012. 9. 15)






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