空色の扉 2

【風薫る】



講義の時間割を確認して、指定された講義室に入ると、すでに7割程度の席が埋まっていた。
適当な席を見つけて腰を下ろす。

周りを見ると、まだ馴染んでいないせいか、皆なんとなく緊張を滲ませた面持ちで座っている。
談笑しているグループもいたが、所在なさげに一人でいる学生も多いようだ。

「翔、み〜〜っけ!」

そんな中、突然バタバタと足音が聞こえてきたかと思うと、いきなり背中をバンと叩かれた。

「…っ!?」

驚いて振り向くと、どこかで見たような顔が、翔を見てニコニコと笑っていた。

「おまえ…。」

誰だっけ?と続けようとした翔を遮った彼は、得意そうに一枚の紙を差し出して見せた。

「この講座の受講者名簿にあんたの名前見つけたんだ。あ、いや、もっと前に見つけてたんだけどさ。
そんときは祝辞を読んだヤツか〜ってくらいにしか思ってなくって。」

「答辞だ。」

あいつか…。

先日の出来事を思い出した翔は、思わず額を押さえた。

「なんでおまえがここに…。まさか…。」

「僕もこの講座の受講生!要するに同じ学部なわけ。だからこの前言ったじゃん? またなって。…てことでよろしくな、翔!」

そう言って晴馬が横の席に腰を下ろすのと同時に、翔は席を立った。
通路を挟んだ横の席に移動する。

本当はもっと離れたいが、もうあまり空席がない。

「え〜なんでそっちに行くわけ? 教科書見せてよ。」

「は?」

いきなり忘れ物か?
思わず目を丸くした翔に、晴馬はバツの悪そうな顔をした。

「えっと…実は教科書を買い損ねちゃってさ…。」

「おまえ、やる気あるのか?」

ないだろうな、と思いつつ、翔はため息をついた。

「ある!あるよ!やる気なら!」

そんな翔に、晴馬は力強く宣言した。
周りの学生たちが何事かと振り向く。

「…でも、お金がなくってさ〜…。」

彼らの視線を気にしたわけではないだろうが、晴馬はそう言うと苦笑いを浮かべた。




「馬鹿か、おまえ。」

「うん、親にもそう言われた。」

学生食堂で定食をがっつきながら、晴馬は嬉しそうな顔をした。

「今日は昼ご飯抜きだと思ってたから助かったよ〜。」

どうやら昼食代も持っていなかったらしい。

「だってさぁ。あんな目で見られたら素通りできないだろ?」

「あんな目」とは、街頭募金に掲げられていたアフリカかどこかの赤ん坊の写真のことらしい。

「だから思わず…。」

「持ってた金、全部寄付した…と。」

「うん!」

「馬鹿かおまえ。」

「だから、親にもそう言われたんだってば。」

から揚げをもぐもぐと頬張りながら、晴馬はうんうんと頷いた。

「…幸せなヤツだな。」

「これから1年間使う教科書を購入するための金」として持っていたなら、数万円単位だったはずだ。
それを全部、だとしたら親もさすがに愛想を尽かすことだろう。

自分でなんとかしろと突き放されて当然だ。

「でもさ、もうすぐバイト代が入るから。」

そう言って晴馬は、あと何日…と指を折り始めた。

「おい。嬉々としているところ悪いが、教科書の販売は今日までだぞ。」

「え。……マジ?」

その言葉に、目をまん丸にして動きを止めた晴馬は、次の瞬間、捨てられた子犬のような目を翔に向けた。

「な、なんだよ。」

「…貸して?…お金…。」




「なんで俺、こんなことしてるんだ。」

無事に教科書を購入した晴馬は、翔の横で嬉しそうに紙袋を抱えている。
それを見ながら、翔は苦虫を潰したような顔をした。

「ほんと助かったよ、サンキューな!」

「当然のことだが、バイト代が入ったらすぐ返してもらうぞ。」

「わかってるって!わざわざ銀行のATMコーナーまで行ってくれたんだもんな〜。恩に着るよ、ほんといいヤツだな、あんた。
さすが、祝辞を〜…じゃなくて、え〜と…答辞、だっけ?」

翔に横目で睨まれた晴馬は、引きつった笑いを浮かべながら慌てて言い直した。


「い、いや〜、でもいい季節になってきたよな〜。」

さすがにバツが悪くなったのか、翔から視線を逸らせた晴馬は、周りの景色に目を向けた。
それを見た翔も、つられるように顔を上げた。

何故いつまでもコイツと一緒にいるのか意味不明だが、「いい季節」と言った晴馬の言葉には素直に同意できる。

なにげなく歩いているうちに、辺りは緑の多い景色に変わっていた。
いつのまにか中庭のような場所へ来ている。

中央にシンボル的に植えられた大きな樹が広く枝を伸ばし、力強くなり始めた日の光を受けて新緑の芽を輝かせていた。

「うわ〜、でかい木。ここで昼寝したら気持ち良さそうだな。」

晴馬の言葉に翔は、その樹を見上げた。
木漏れ日がキラキラと落ちてくる。

「いい季節…だな。」

かざした手に落ちてきた光が、暖かなエネルギーとなって体の中へ溶け込んでいくような、そんな心地がする。



「あ、晴馬くん!?」

そのとき、不意に後ろから女子学生らしき声が聞こえた。

「どうしたの、大荷物だね。」

「お〜! 樹梨ちゃんじゃん! すっげ〜久しぶりだな〜。元気してた?」

「やだなぁ、入学式で会ったでしょ、一ヶ月も経ってないよ?」

晴馬に声をかけた彼女は、そう言うとくすくすと笑った。

「や〜でも、制服じゃないしさ。入学式はスーツだったし。私服ってなんか新鮮っていうか。大人っぽくなったな〜みたいな?」

だからものすごく久しぶりに会ったような気がする、と言いたいらしい。

そんな晴馬の無邪気な賞賛に、素直に礼を言った彼女は、再び彼の荷物に目を向けた。
それが教科書だと知り、今度は驚きを含んだ、苦笑いとも取れる笑みを浮かべた。

高校の同窓生だろうか。
翔がちらりと視線を向けると、晴馬はいつにも増して快活に接しながら、教科書にまつわる一連の経緯を彼女に話して聞かせていた。

「…そうなんだよ、さすが祝辞を読むヤツは違うっていうか?」

「祝辞…?」

金を貸してくれた翔のことを話しているらしいが、またしても言い間違っている。
そして、その単語に彼女の方も小首をかしげているようだ。

「おまえ、何度言ったら…。」

思わず大きく振り向いた翔は、晴馬の間違いを指摘しようとしたが。
その瞬間、彼らを見て言葉を失った。

いや、二人ではなく、正確には樹梨と呼ばれた彼女のことを。

「え〜と、ほら。入学式で新入生が読むヤツだよ。ほら、コイツ。結構イケメンだろ?」

そう言って晴馬が、翔の腕を引っ張る。

「それ、祝辞じゃなくて答辞じゃ…。え?それってもしかして…。」

そう言いながら翔に目を向けた彼女も、翔を見てそのまま止まった。

「あ。」

「君…あのときの…?」

木漏れ日の中を緩やかに駆けて行く風を、頬に感じる。
その風がくるりと取り巻き、二人だけの空間を作ったような気がした。

瞳の奥に微かな戸惑いを見せながら、翔を見つめている彼女。
翔もきっと、同じような瞳の色を彼女に見せているのだろう。


「え?なになに、どしたの?」

晴馬がなにやら騒いでいるが、それも遠いBGMのように聞こえる。

初夏を思わせる光の下。
柔らかな風が、新しい葉の香りを乗せて、ゆっくりと二人の間を吹き抜けていった。


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(サイト掲載日 2012. 9. 10)

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