空色の扉 1
〜序章〜
満開の桜が少しずつ葉桜へと姿を変えている。
入学直後の足が地についていないような浮ついた雰囲気も収まり、落ち着きを取り戻した大学構内。
新入生も在校生もそれぞれの生活リズムを作りつつある。
春の陽気に包まれた構内は、色とりどりの花や新芽の緑に彩られている。
そんな清々しい空気の中、女子学生たちがトーンの高い声を響かせながら軽やかな足取りで通り過ぎて行く。
それをチラリと見ながら翔は、図書館を目指して歩いていた。
(どこだったか?)
高校と違い、やたらと広い上に学舎が思い思いの方向にあちらこちらと建っていてよくわからない。
誰かに聞くのが一番早いのだろうが何となく気後れもする。
時間もあることだし、知った顔を探しながらじっくりと構内を巡ってみるのも良いかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると大きな建物の前で、入口横に設置されている構内図に出会った。
ここは見覚えがある。
確か入学式が行なわれたホールだ。
「現在地がここか。図書館は…。……。」
構内図の前に立った翔は、図をみつめたまま動きを止めた。
「俺、こんなに方向音痴だったか?」
どういうわけか全く反対方向にいる。
「…まぁ…時間はあるからいいんだが…。」
とはいえ、逆方向へどんどん歩いていたのかと思うと、肩にかけたバッグの重さが急に生々しく感じられる。
「ねぇ、学生食堂ってどこ?」
思わずため息をついていると、すぐ後ろから突然声が響いた。
反射的に振り向くと、翔と同じような年格好の男子学生が立っていた。
「もう腹へって死にそうだよ。」
すがるような目で翔を見ている。
「…まだ朝だが。」
「だから。朝ご飯食べてないんだよ。」
「ああ。…だが食堂はまだ開いてないんじゃないか?」
場所も営業時間もわかっていないということは、翔と同じ1年だろうか。
「えーそうなのか?てか、あんたも食堂探してたんじゃないの?」
「……。」
構内図を見ていただけで自分と同じ人種だと思いこむ、その感覚がわからない。
こういう人間は関わらないに限る。
「俺、朝飯食って来たから。」
翔はそれでだけ言うとくるりと背を向けようとした。
「じゃあ、どこへ何しに行くのさ。」
だがそいつは何故かしつこく絡んで来た。
「勉強。」
「べんとう?」
「……。」
翔は思わず頭を押さえた。
こいつは飯を食うためにわざわざ大学へ来ているのだろうか。
「べ・ん・きょ・う! 俺が行こうとしてるのは、図書館だ。」
「へー!図書館なんかあるんだ? てか、入試終わったトコなのに自主勉するヤツいるんだー。」
すげー!とかなんとか妙に感心しながら付いて来る。
「あっちだ。」
翔はぴたりと足を止めると、ビシッと別方向を指した。
「あっち?」
「食堂。」
「え〜、開いてないのに行ったって空しいだけじゃん。」
「じゃあ、外に出てコンビニでも探したらどうだ。」
「う〜ん、そうだなあ。ていうかさぁ、さっきから思ってたんだけど、あんた、どっかで会ったことない?」
下手なナンパ文句のつもりだろうか。
いや、そもそも男同士だ。
(まさか、違う人種か?)
尚更、関わらない方がいい。
「ない!」
翔は振り返らずスタスタと歩き出した。
「いや、絶対あるんだけどなぁ。どこだったかなぁ。…あ!? あ、そっか思い出した!
え〜と、翔! 一橋翔だろ、あんた!」
「……?」
翔は思わず立ち止まって体ごと振り向いた。
「おまえ…誰。」
「あ〜別に知り合いじゃないから。入学式で見たんだ。あんた祝辞読んでただろ。」
「…答辞だ。」
自分で自分を祝ってどうする。
「僕、通路横に座ってたからさ、名前呼ばれたあんたが歩いてくの見てたんだ。今の歩き方そのまんまだった!」
思い出したのがそんなに嬉しいのか、ニコニコと笑っている。
「あ、僕は広瀬晴馬。晴馬って呼んでくれていいよ。よろしくな、翔。」
「……。」
いきなり名前で呼び合う意味がわからない。
「じゃ、僕はコンビニ探しに行ってくるから。またな!」
そう言うと、晴馬と名乗った男子学生は手を振りながら走り去って行った。
「…会うことがあれば、な。」
それを見送りながら翔は小さく呟いた。
ここは総合大学だ。
同じ学部かサークルにでも所属していない限り、そう簡単に何度も出会えはしない。
「答辞か…。」
翔はそう呟きながら、横に建つ大きなホールを見上げた。
「嫌なこと思い出したな。」
いや、ほろ苦い、或いは甘酸っぱいとでも言うべきか。
あの日、入学式の会場で式はつつがなく進行していた。
学長の式辞、来賓の挨拶、在校生の祝辞と続いて、式次第は新入生の答辞へと進んだ。
決して緊張していたわけではない。
名前を呼ばれて壇上に上るときは誇らしささえ感じていた。
学長の前で一礼して、胸ポケットから答辞を取り出したのだが。
読み進めて行くうちにハタと気付いた。
(2枚目が…ない!?)
先ほど席で確認したときはあったはず。
封筒に戻す時に落としたのだろうか。
だが今さら探しになど行けない。
(くそ…もう適当だっ。)
パニックになりそうなところを踏み留まり、うろ覚えの記憶を必死に手繰り寄せて言葉を繋いだ。
なんとかボロを出さずに乗り切ったが、前に立っていた学長はさすがに怪訝そうな表情を浮かべていた。
(最悪だな…。)
「あの、これ拾ったんだけど、あなたのじゃ…。」
式が終わり、少なからずヘコみながら歩いてると、控え目な感じに肩を叩かれた。
振り向くと、ふんわりとした雰囲気をまとった女子が立っていた。
見覚えはない。
翔が首をかしげながら見ていると、彼女は少し困ったような笑みを浮かべながら、手にしていた紙を差し出した。
「あ。」
きちんと三つ折りにされたその紙には嫌というほど見覚えがある。
「これ、さっき読んでた答辞でしょ?見ないであれだけしゃべれるなんてすごいね。」
「いや、そんなことは…。」
かなりヤバかったはずだ。
「私、後ろに座ってて、あなたが立ったときにこれが落ちたのに気付いたの。でももう歩いて行っちゃってて…。ゴメンね。」
渡したくても渡せなかったと彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「だからドキドキしながら聞いてたんだけど…。逆に感動しちゃった。」
彼女はそう言って、ニッコリと包み込むような笑みを翔に向けた。
「……。」
最悪だと思っていたことを褒められて、翔は少しばかり混乱した。
「…君に謝って貰う筋合いはないから。」
素直にありがとうと言うべきだったのだろう。
けれど、先ほど彼女が言ったゴメンというセリフに反応してしまった。
「え…?あ…。そ、そうだね。いきなり馴れ馴れしいこと言っちゃって…。」
翔の返答に、彼女は少し気まずそうな表情を浮かべた。
「あ、いや…。」
そうじゃない。
拾ってくれたことも、心配してくれたことも声をかけてくれたことも、全部ありがたいと思った。
それなのに、うまく伝えられない自分がもどかしい。
「あ、じゃ私はこれで。ええと、また…ね。」
そう言って彼女は、式場から出て来た大勢の学生の中へ消えて行った。
あれから、半月近く。
彼女の最後のセリフは少し戸惑い気味だった。
迷惑だと言わんばかりの印象を与えてしまったかもしれない。
だとしたら、謝りたい。
そして、きちんと礼を言いたい。
そう思って、講義がないときも足を運んでさり気なく彼女の姿を探しているが、なかなか出会えない。
「せめて名前くらい聞いておくんだった。」
広い学内には大勢の学生がいる。
学部が違えばそうそう関わる機会もないだろう。
だから。
「晴馬…か。」
そう名乗った男子学生とも、さほど接点があるとは思えない。
それ以前に関わりたいと思わない。
この時は、そう思いこんでいた。
(サイト掲載日 2012. 9. 10)