空色の景色 9
「お〜い、翔。一応1ポイント先取だけど、ある程度ラリーしてからの方が盛り上がるから、そこんとこよろしく〜。」
「1ポイント先取だな。」
コートの反対側でラケットを振り回しながら叫んでいる晴馬を見ながら、翔はおもむろにサーブの体勢に入った。
「え? ちょっと待っ…。」
それを見た晴馬が動きを止めた瞬間、翔は高めに上げたボールに向かって、思い切りラケットを振り抜いた。
「ひっっ…!?」
illustration by まりも
次の瞬間、スパンという鋭い音とともに放たれたボールが、晴馬の左足のすぐ横に突き刺さった。
それを見ていた入部希望者たちの間から、大きな歓声が上がる。
「こっちの方が盛り上がるだろ。」
球の行方を見て満足そうな笑みを浮かべた翔は、クルリと踵を返してコートを後にした。
「…は!? な、なんだよ、一人でカッコつけやがって! おまえほんとにブランクあるのかよっ。」
反動で尻餅をついた晴馬が、ネットの向こうから抗議の声を上げている。
「あ〜あ、ほんといいトコないんだから、あの子は。ねぇ、樹梨。」
それを見ていたアキが、呆れながら呟いた。
「うん…。でも、それより…。」
「ん? どうかした?」
その言葉にアキが樹梨を振り返ると、彼女は皆に囲まれて賞賛の声を浴びている翔を心配そうに見つめていた。
その中には女子学生たちの姿も混じっている。
「ふ〜〜ん。ジェラシーってやつ?」
「そ、そんなんじゃ…っ。」
驚いて振り向いた樹梨は、顔の前でぶんぶんと手を振った。
全く無いとは言い切れない…と思いつつ。
「そんなに全力で否定しなくてもいいじゃん。そもそも、彼の方から告白してきたんでしょ?
どこからみても硬派にしか見えないから大丈夫。ああいうのは、そう簡単によそ見しないわよ。」
そんな彼女に、アキが苦笑いを向ける。
「それにしても、あの一橋君がねぇ。告白シーンとか、全然想像つかないんだけど。」
アキは樹梨の顔を覗きこんで、ニッと意味ありげに笑った。
「想像しなくていいからっ。」
その視線に、樹梨が一気に頬を赤らめる。
「ほんと樹梨ってかわいいよね。こんな子が一橋君のいいようにされるかと思うと、なんか悔しい〜。」
「いいように…って…っ。」
illustration by まりも
ますます顔を赤らめる樹梨を見て、アキは「あははっ」と楽しそうに笑った。
「冗談よ。それより何か気になってるんでしょ。あいつは役に立ちそうにないし。この場は私が一肌脱いで収めますか。」
相変わらずコートの向こう側で「卑怯だぞ、もう一回勝負しろ〜!」などと叫んでいる晴馬を見たアキは、苦笑いを浮かべつつ皆の方へ向かった。
その後、アキが場を仕切ったおかげで、テニス経験の有無やレベルで大まかに分かれ、
それぞれラリーを始めたり経験者が初心者に基本を教え始めたりして、曲がりなりにもサークル活動としての形を整えた。
そんな中、先ほどのサーブで一気に注目を集めた翔は、あちこちから引っ張りだこになっている。
樹梨は、それを少し離れたベンチからぼんやりと眺めていた。
「樹〜梨ちゃんっ。こんな隅っこでなにしてんのさ。」
そこへ、飛び跳ねるように近づいてきた晴馬が声をかけた。
何気なく樹梨の視線を追って、首を傾げる。
「ああ、翔? あいつ、大事な彼女を放りっぱなしにして、何やってんだ。」
「彼女って…。」
その言葉に、樹梨が恥ずかしそうに目を逸らす。
「あれ、違うの? …あ、もしかして翔、そういうこと、はっきり言ってないとか?」
「えーと…。まぁ、そうなんだけど…でもそれは…。」
樹梨はうつむき加減のままゴニョゴニョと呟いたが、それに気づかない晴馬は嬉々として言った。
「じゃあ、彼氏でもなんでもないヤツなんかほっといて、僕とラリーしようよ。」
「え? でも私、ド素人だし。ラリーなんて無理だよ。」
「あ、そっか…。んじゃ、こっちおいでよ、僕が手取り足取り教えてあげるから。こう見えて僕、小学校のときにテニスクラブに通って…。」
「誰が手取り足取り教えるって?」
そのとき不意に現れた人影が、嬉しそうに樹梨に迫っていた晴馬の襟首をぐいっと掴んで、樹梨から引き離した。
「ぐぇ…っ。」
「あ、翔くん。」
「悪い、待たせたな。」
晴馬の襟首をポイッと離した翔は、ベンチに腰掛けている樹梨の前に立つと、右手を差し出した。
その手を取って立ち上がった樹梨が、嬉しそうににっこりと笑う。
「…ってぇ〜。何すんだよ、翔。だいたい彼氏でも彼女でもないんだろ、邪魔する権利なんて…。」
またしても尻餅をついたまま、晴馬が抗議の声を上げたが、翔は、今度はその声を無視することなくクルリを晴馬に向き直った。
「……だ。」
「え?」
ぼそっと呟いた声に、晴馬が怪訝そうな目を向ける。
横に居ながら聞き取れなかった樹梨も首を傾げた。
「俺の彼女だっ。」
次の瞬間、翔は宣言するように力強くそう言った。
近くにいた部員たちにも声が届いたらしく、ヒュ〜っと囃し立てるような口笛が上がる。
「翔くん…。」
「そう思って、いいんだよな?」
樹梨に向き直った翔が、今度は小声で囁くように、そう問いかける。
「…ん。」
その声に樹梨は、繋がれていた手に少しだけ力をこめて頷いた。
「なんなんだよ、もう〜〜。告白の続きなら他でやれよっ。」
微笑みあう二人を呆気に取られたまま見ていた晴馬は、ハッと我に返ると呆れ声でそう言いながら、グランドにひっくり返った。
その姿の見た部員たちの間に、さざ波のような笑い声が広がっていった。
「ねぇ、ほんとによかったの? 黙って抜け出して。」
「構わないさ。終わったら親睦会も兼ねて皆で食べに行くって言ってたからな。そういうのは晴馬の得意分野だろ。」
「そうだけど…。」
気になるのか、樹梨が木に隠れて見えなくなったテニスコートを振り返った。
その反動で、繋いだ手がわずかに引っ張られる。
「あっちの方が良かったか? 君が何かを気にしているようだったから、今日はもう抜けたほうがいいかと思ったんだが…。」
そんな彼女を見た翔は、足を止めて、いま下ってきた道を振り返った。
「ううんっ。初日の顔合わせも気になるのは確かだけど…。やっぱり今は、こっちの方が大事。」
そう言って樹梨は、翔を見上げた。
その瞳に力がこもる。
「翔くん。」
いつもと違って硬い声で名前を呼ぶ彼女に、翔は少しばかり身構えた。
いや、覚えが無いわけではない。彼女がこんなふうな話し方をするときは…。
そう思った瞬間、彼女は翔の右肘をグッと掴んだ。
「…っ…。」
「あんなふうに思いっきりラケットを振って。肘に負担がかかるってわかってるでしょ?」
「いや、だが思い切りやったのは、あの一球だけだったし…。」
「だいたい、サークルのことをOKするって教えてくれたとき、『緩いラリーをする程度にしておく』って約束したよね?」
「まあ、そうなんだが…。ラケットを持つとつい…。」
問い詰めるように迫ってくる樹梨に、翔はしどろもどろになった。
「晴馬くんも、晴馬くんだわ。いくら翔くんの高校での心残りを解消してあげたいからって。思い切りプレイ出来なきゃ意味がないじゃない。」
「いや、あいつもあいつなりに俺のことを考えてくれたわけで…。」
「やっぱりやめよう、翔くん。」
「…は?」
「サークル活動。思いきり出来ないんだから、ストレスになるだけよ。」
自分の言葉にうん!と大きく頷きながら樹梨は、翔の右腕を抱き寄せるように両手で包み込んだ。
「樹梨…。」
その仕草に胸の奥が熱くなる。
「ありがとう。」
翔は、その手をそっと振り解くと、そのまま彼女の体を抱き寄せた。
「しょ、翔くんっ? あの…まだ明るいし、それにここ構内…っ。」
「構わない…。」
丘の上にあるテニスコートへ続く道は、涼しげな木立に囲まれている。
この先に学舎もないので、ここを通りかかる学生も滅多にいない。
だが樹梨は、翔の腕の中で身をよじり、その胸を押し返した。
いつのまにか頬が真っ赤に染まっている。
「わ、わたしが構うからっ。」
「そうか? まぁ、君が嫌がるなら無理強いはしないが。」
苦笑いを浮かべながら腕を解いた翔を、樹梨が染めた頬をプクッと膨らませて睨む。
「翔くんって、こういうこと簡単に出来ちゃうんだ…。そんなふうには全然見えなかったのに。」
アキも、告白シーンが想像できないと言っていた。
樹梨は翔の体温を感じる距離のまま、拗ねた表情でそっぽを向いた。
「そんなふうに言われると、なんだか『誰にでもするんじゃないのか』って言われてるように聞こえるんだが…。」
そんな樹梨の様子を見て、翔はふと不安になった。
「一応誤解のないように言っておくが。心配してくれる相手が好きな子だから、気持ちが動くんだからな。」
体が動く、と言った方が正確かもしれないが。
「それに、樹梨はどう思ってるか知らないが、俺も男だからな。そういう本能はあると思う。」
「え。」
翔は何気なくそう言ったが、それを聞いた樹梨はピクっと体を硬直させた。
「そ、そうなんだ…。へぇ…。」
さりげなく距離を取る樹梨。
「ん…?」
「な、なんでもないっ。」
首を傾げる翔をちらりと見た樹梨は、頬を赤らめたまま先にたって歩き始めた。
なんだかよくわからないが、そんな様子も愛おしく思える。
翔は柔らかな笑みを浮かべながら、その後を追った。
「さっきの話だが…。俺は、晴馬にいやいや付き合ったわけじゃない。」
ゆったりとした歩調で彼女の後を追いながら、呟くように話しかける。
「俺はずっと、テニスへの未練は吹っ切れたと思っていたが、本当は心の底に押し込めて気づかないフリをしてただけだったんだ。」
「…うん。」
樹梨は前を向いたまま、相槌を打った。
それは、ここ数ヶ月、翔を見ていた樹梨にもよくわかることだった。
「そのことを気づかせてくれたのはあいつだ。ここままだと、あんなに情熱を傾けたテニスが嫌な思い出にしかならないぞ、ってな。」
「そうだね。でも…。」
樹梨は、答えに困ったように言いよどんだ。
「君が心配してくれる気持ちも、とてもありがたいと思う。」
確かに、完治していない腕では思い切ったプレイは出来ない。
「樹梨が言うとおり、中途半端なプレイしか出来ないのはストレスになりそうだしな。」
「そうでしょ。だったら、やっぱり…。翔くんの気持ちも晴馬くんの言い分もわかるけど、腕のことを考えたら…。」
やめるべきなんだと思う。
振り返りながらそう言いかけた樹梨は、思わず目を瞬いた。
「翔くん、何…してるの?」
( 2014. 11. 1 )