空色の景色 10   



「翔くん、なに…してるの?」

少し手前で立ち止まった翔は、手にしていたラケットを野球のバットのように両手で持ち、左から振ろうとしていた。

「これって、右打ちだとバックハンドなんだよな。このまま右手を外せば…。」

「……え。サウスポー?」

翔は黙ったまま、何度かラケットを振った。次第に様になってくる。

「なんか…すごい。」

翔の素振りは、今始めて左打ちに挑戦したようには見えないほど、安定していた。
少しずつスピードとキレが増してくるのが、素人の目でもわかる。

「これなら、右腕を使わなくて済むし、テニスもそれなりに出来ると思うんだが…どう思う?」

翔の姿に見惚れていた樹梨は、いきなり声をかけられてハッと我に返った。

「あ…う、うん。『それなりに』なんてレベルじゃないかも。」

緩やかなラリー程度なら、すぐに出来そうだ。
翔のことだから、しばらく練習すればすぐに、ちょっとした試合にも通用するようになるだろう。

心の奥底に痛みを閉じ込めたまま目を逸らせていた彼は今、それを乗り越えて力強く前に進もうとしている。
吹っ切れた表情で素振りを繰り返す翔に、樹梨は胸の奥にジンと痺れるような熱を感じていた。

「すごいな…。」

「そうか?」

その言葉に翔は嬉しそうな笑みを浮かべた。
…が。

「どうしたんだ、樹梨。」

翔は一瞬で怪訝そうな表情になり、大股で近づいてきて樹梨の顔を覗きこんだ。

「なんで泣いてるんだ?」

「え…?」

その言葉に樹梨が慌てて手をやると、頬を伝う涙が指先に触れた。

「あ、あれ…。なんか、翔くんを見てたら感動しちゃって…。」

「樹梨…。」

樹梨が慌てて涙を拭っていると、翔が樹梨の頭を宥めるように軽く叩いた。
そのまま樹梨を胸に抱き寄せる。

「君はいつも、そうやって俺のために泣くんだな。」

「…っ…。」

優しく抱きしめられ、流れ落ちる涙は、止まるどころか後から後から溢れてくる。

「俺が過去と向き合えるようになったのは、樹梨がいたからだ。」

「翔…く…っ。」

彼の胸に顔を押し当てたまま、樹梨はその背にそっと腕を回した。





「左打ちとは、考えたわねぇ。」

数日後。
サークルの活動日に指定したその日、コートには再び十人前後の部員が集まっていた。

それぞれが自主練する中、中央のコートを使って、翔と晴馬がゆったりとした打ち合いをしている。

「うん。わたしもびっくりしちゃった。」

彼らを見ながら感心したように呟くアキに、樹梨が相槌を打つ。

「すごいな、翔くん。相手が晴馬くんとはいえ経験者を相手に、始めたばかりの左打ちであれだけラリーができるなんて。」

「ふ〜ん? 惚れ直したって顔ね。」

「そんなこと…。」

その言葉に樹梨は慌てて否定しかけたが、含みのある笑みを浮かべて覗き込むアキを前にして、負けを認めたように頷いた。

「…あります。」

「うん、素直でよろしい。」

その返答に、アキがにっこりと笑う。

「惚れ直したのも嘘じゃないけど。翔くんが、心の奥に閉じ込めてた痛みに正面から向き合えるようになったことが、一番嬉しいの。」

彼女から再びコートへ視線を戻した樹梨は、綺麗に続いているラリーを見ながら呟くように言った。

「晴馬くんのお節介も迷惑なだけじゃなかった、ってことね。」

「ふふ…そうだね。」

「だけど、ほんとにお節介のお人好しだよね。友達の域を出なかったとはいえ、ずっと好きだった子をあっさり攫われちゃったのに…。健気なんだから。」

アキもコートに視線を戻しながら、独り言のように呟いた。
その言葉に、樹梨が振り返る。

「…?なんのこと?」

「あ。ううん、こっちの話、気にしないでっ。」

キョトンとした表情を見せる樹梨に、アキは慌てて顔の前で手を振った。
彼女のこういう天然なところは微笑ましくもあり、ときに残酷なこともある。

だが晴馬は、告白をする以前に自分から土俵から降りているのだ。

「いいの、いいの、樹梨はそのまんまで。」

「……?…うん…。」

腑に落ちない表情で、樹梨が頷こうとしたそのとき。

コートでは、晴馬が高く上げてしまったボールに対し、翔がスマッシュの体勢に入っていた。

「え、ちょっとタンマ!!」

「なに言ってる、チャンスボールを見逃せるか。」

「チャンスボールって、ただのラリーじゃ…うわっっ。」

晴馬が言い終わらないうちに、翔の放ったスマッシュがネットを越え、矢のように突き刺さる。
右打ちほどの威力は無いが、バウンドした球は晴馬が顔を庇うように出したラケットを直撃した。

「い…ってぇ…。って、樹梨ちゃん?危ないっ。」

その威力にラケットを落としそうになった晴馬は、弾いた球の行方を見て、血相を変えた。

「…え?」

その声に、樹梨が目を上げた瞬間。
飛んできたボールが、樹梨の頬を掠めた。

「きゃ…っ。」

頬に熱を感じた次の瞬間、ジンとした痛みが走る。

「…つ…ぅ…っ。」

「ご、ごめんっ。だいじょ…。」

晴馬が近寄ろうとしたとき、ネットの向こう側にいた翔が大慌てで駆け寄ってきた。
近くにいた晴馬を突き飛ばす。

「…ぶっ。」

「樹梨っ。」

樹梨の前に膝をついた翔は、頬を押さえてうつむく彼女を心配そうに覗きこんだ。

「大丈夫か?見せてみろ。」

樹梨の手を包み込むように握って、頬からそっと外す。
彼女の頬は擦り傷がつき、全体的に赤くなっていた。

「…っ…ごめん、樹梨。ちょっと調子に乗りすぎた。」

「ううん、大丈夫。少し掠っただけだから。それに翔くんのせいじゃ…。」

樹梨は気丈に笑って見せたが、その瞳はにじんだ涙で潤んでいた。

「行くぞ。」

それを見た翔は、樹梨の手を掴んだまま立ち上がった。
引っ張られた樹梨は、わずかにバランスを崩しつつ、彼にもたれかかるようにように立ち上がる。

「え、どこへ?」

「医務室。」

「い、いいよ翔くん、そんな大袈裟な…。」

樹梨は翔の手を解こうと後ずさった。

「全然、大丈夫じゃないだろ。跡が残ったらどうするんだ。」

だが翔は彼女の手を離すまいと、更に強く握り返した。

「ほら、早く。」

「う、うん…。」

翔がその手をぐいと引っ張ると、樹梨は頬を赤らめながら頷いた。



「なんか今の…デジャヴじゃなかった?」

翔は、あっという間に樹梨をコートから連れ去ってしまった。
それを尻餅をついたまま見送っていた晴馬がポツリと呟く。

「うん。春の球技大会のときみたいだったね。立場は逆だけど。」

晴馬と同じく二人に口を出せないまま傍観していたアキが、苦笑いを浮かべながら応じた。

二人の脳裏にあの日の光景が甦る。



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( 2014. 11. 2 )



















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