空色の景色 11
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カシャーンと甲高い音を立ててラケットがコートに落ち、翔はその場で腕を押さえて膝を付いた。
「君、大丈夫かっ?」
審判が駆け寄ってきて心配そうに覗き込む。
「…すみません。大丈夫です、気にしないで続けてください。俺は…。」
「大丈夫じゃありません!」
そこへ走ってきた樹梨が、翔の手首をギュッとつかんだ。
「い!?…いててててて…っ!」
「ほら、全然大丈夫じゃないでしょっ。たぶん捻挫してる。」
「わ、わかったからっ。離してくれ…っ。」
「ということで、救護室に連れて行きますね。この試合は棄権ということでお願いします。」
* * * * * * * *
あの日と同じコートは今、夕暮れ近くのオレンジがかった光に照らされている。
「あのときの樹梨ちゃん、担当の救護員だっていう責任感だけじゃなかったんだな。今更だけど。」
しみじみとそう言う晴馬に、アキはくすっと笑った。
「ほんと、今更なに言ってんだか。」
「そういえば、僕が翔を球技大会に誘ったのが、そもそもの始まりだったんだよな。誘わなかったら、あの二人がくっつくこともなかったのかなぁ。」
グランドに尻餅をついていた晴馬は、そのまま座り込んで頬杖をつきながら呟いた。
「あんたねぇ、なに往生際の悪いこと言ってるの。球技大会の前にあのふたりは再会してたでしょ。」
「あ、そっか〜。」
能天気に頷く晴馬をみて、アキは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、なんにしても、あの二人にとって、あんたは必要不可欠な存在だったと思うわよ。」
二人が再会したきっかけも、過去の接点を知ることになったのも、翔が過去と向き合えるようになったのも。
直接的にも間接的にも、晴馬が関わっていたと言える。
「え、そ、そうかな。」
その言葉を聞いた晴馬が、照れたように笑う。
「そ。だから今度は自分の幸せを見つけなさい。」
アキは呟くようにそう言うと、翔と樹梨が残していったラケットや小物を片付け始めた。
「アキちゃん、なにしてんの?」
「あの二人、たぶん戻ってこないから。サークルで借りてる物置に入れておいてあげるのよ。」
「え、なんで戻ってこないのさ。」
「だって。」
首を傾げる晴馬に、アキは不適な笑みを見せた。
「この時間に医務室が開いてる可能性は低いでしょ。もうどの学科も講義はとっくに終わってるもの。」
「うん…?」
「手当てが出来ないと知った一橋くんは…。まぁ十中八九、樹梨を自分の家に連れて行くでしょうね。一番近いんだから。」
「あ、なるほど…。って、え〜!? じゃ、男の部屋で二人きりになるってこと?」
そこに思い至った晴馬は勢いよく立ち上がった。
「樹梨ちゃん危ないじゃん! 翔を妨害しに行かなきゃ!」
「え?ちょっと何言ってんの、今更…。」
「アキちゃん、ごめん。僕ももう帰るから、あとよろしくねっ。」
そう言うと晴馬は、あっという間にコートのある丘を下って行った。
「待ちなさいってばっっ。」
引きとめようと手を伸ばしたアキの前を、一陣の風が空しく通り抜ける。
「…ったく。あれじゃ、二人のキューピッドなんだか疫病神なんだかわからないじゃない。」
アキはため息をつきながら、晴馬が駆け去っていった道からコートへと視線を戻した。
何面かあるコートとその周辺では、十数人の部員たちがそれぞれのペースで楽しそうにテニスに興じている。
「なんなのよ、もう。結局このサークル、私がまとめないといけないわけ?」
どういうわけか、いつもそういう役回りについてしまう姉御肌なアキだった。
「参ったな…。」
カギのかかった医務室の前で、翔は腕組みをしてドアを見つめていた。
「翔くん、お待たせ。」
「ああ。」
そこへ洗面所から戻ってきた樹梨が駆けてくる。
「なに難しい顔してるの。ちゃんと洗ったし、しばらく冷やしておけば大丈夫だってば。」
樹梨は、頬に当てた濡らしたハンカチを示して、にっこりと笑った。
「けどなぁ。」
その彼女の手を取ってハンカチを頬から外してみると、洗って綺麗になった分、傷もはっきりと見える。
「やっぱり、薬、買いに行こう。」
「え、わざわざ? 本当に大丈夫だって。」
樹梨が、とんでもないという風に反対側の手を顔の前でぶんぶんと振った。
「だが運動系の活動に怪我はつきものだ。サークルとしても救急箱を備えておいた方がいいしな。」
「あ、そっか。そうだね、じゃあ翔くんに任せていい? 私はコートに戻って後片付けしとくから。」
樹梨はどこかホッとした様子で、そう言うと踵を返そうとした。
「ちょっと待て。」
すり抜けていこうとした彼女の手を、翔がぐいっとつかんだ。
「なに言ってるんだ、一緒に行かなきゃ意味無いだろ。消毒薬と傷薬、できるだけ早く塗った方がいい。」
「でも今、救急箱って…。」
「それはついでの話だ。今の俺にとっては樹梨の手当てが最優先事項。ほら、行くぞ。」
「う…。」
有無を言わせない雰囲気に、樹梨は諦めて頷いた。
それに、原因が翔であったとはいえ、自分のことのように心配してくれる彼の気持ちが素直に嬉しい。
「翔くん、あの…。ありがとう。」
囁くようにそっと声をかける。
「…ん?」
「ううん、なんでもない。」
手を握り直した翔に引っ張られるように歩きながら、樹梨は頬に熱が持つのを感じて小さくうつむいた。
「確か駅の近くにドラッグストアがあったな。」
正門を出て二人で駅前を目指す。
早足の翔に手を引かれているせいで、樹梨の方は小走りになりながら歩いていた。
「あれ?」
しばらくして、樹梨がふと何かに気づいて後ろを振り返った。
「どうした?」
「なんか、誰かが遠くで叫んでるような…。」
翔は足を緩めて、耳をそばだてた。
風に乗って微かに、見つけたとか待てとか言っているような声が聞こえる。
「なんだろうね?」
「さあな。気にしないで急ごう。」
「うん、でも…。なんか聞き覚えがあるような?」
大きく後ろを振り返った樹梨に軽く腕を引っ張られる形になり、翔もつられて振り向いた。
その目に全力で駆けてくる小さな人影が映る。
「なんだ、あれ。……え??」
呆気に取られている間に、どんどん近づいてくる。
「あ〜、手なんか繋いじゃってっっ。翔、樹梨ちゃんをどこへ連れ込む気だよっ、待てー!!」
「な…なんなんだ?」
「あれって晴馬くんじゃない?」
「樹梨!」
樹梨がきょとんとした声を上げるのと同時に、翔は再びその手を取って走り出した。
「なんだかよくわからないが、逃げるぞ。」
「え、なんで?」
「いいからっ。」
illustration by まりも
薬を買いに出たことの何が問題なのか皆目わからないが、あのように妙なテンションの上がり方をしている晴馬は厄介だ。
「こら、翔〜っ。樹梨ちゃんの純潔はそう簡単に奪わせないからなっ。」
それを見た晴馬が、更に大声でわめきながら追いかけてくる。
「あいつ、公道のド真ん中で何叫んでんだ、恥ずかしいっっ。」
不覚にも頬に熱が集まるのを感じながらちらりと振り返ると、樹梨はなんだかよくわからないという表情を浮かべていた。
「樹梨。念のため言っておくが、俺はそんなに手は早くないからな。」
大切な相手なら、尚のこと簡単に手は出せないと思う。
…が。
「…たぶん。」
100%と言い切れないのが苦しいところだ。
最後のセリフが聞こえたかどうかはわからないが、樹梨が握った手にギュッと力を込めるのが伝わってきた。
「樹梨、定期券持ってるか? このまま改札に飛び込むぞ。」
「うん、持ってるよ。」
駅構内に駆け込むと、電光掲示板がちょうど出発間際の列車があることを示していた。
「予定変更だ。うちへ行こう。」
「あ〜!やっぱり樹梨ちゃんを家に連れ込む気だな?! 」
穏やかでないセリフを大声で叫びながら走る晴馬に、すれ違う人々が何事かと振り返る。
「いい加減、黙れっ。こっちが恥ずかしすぎるんだよ。」
晴馬が改札の前でもたもたしている間に、ホームへ駆け下りた二人は列車に飛び込んだ。
「待てってばーっっ。」
それと同時にドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。
「たく、晴馬のやつ…。」
走り出した列車の中で、息を整えながら翔が呟く。
「やっぱりって何だよ、やっぱりって。」
「なんだかよくわかんなかったけど…ちょっとスリリングで面白かったね。」
同じように荒く息をつきながら、樹梨が楽しそうに笑った。
「ああ、そうだな。」
そんな樹梨を前にして、翔も笑みを浮かべる。
「だけど晴馬くん、なんであんなに必死に追いかけてきたのかな? 言ってたことも意味不明だったし。」
「ああ、あれはたぶん…。」
純潔とか連れ込むとか言ってたことを考えると、だいたい想像はつく。
ただ、薬を買いに出ただけなのに、何故、あんな突拍子もないことを言いながら追いかけてきたのかは、全くわからないが。
「しかし、この状況だと、晴馬の言ってたことも全く的外れってこともないし…。大丈夫かな、俺。」
謀らずも、樹梨と個室に二人っきりというシチュエーションが目の前に迫っている。
「…ん?」
「い、いや、なんでもない。」
慌てていつものような冷静さを装いながら、窓の外へ視線を逸らす。
車窓を流れる景色は、街中を離れ、開けた平野を映し出していた。
「あっ…。」
そのとき、電車の揺れに樹梨がわずかにバランスを崩した。
「…っと。大丈夫か?」
咄嗟に彼女の肩を抱き寄せると、樹梨はほんの少しだけ頬を染めながら頷いた。
「ありがとう。…翔くん、あの…。」
「ん?」
「ええと…その…。あ、明日も晴れるといいね!」
どこか焦っているようにも見える彼女の様子を少し不思議に思いながらも、翔はその言葉につられて外を見た。
「ああ、そうだな。」
樹梨の温もりを感じながら見上げた視線の先には、茜色に染まり始めた晴れ渡った空が大きく広がっていた。
〜fin〜
( 2015. 1. 5 )