空色の景色 8
「待って…翔くん!」
無意識に伸ばした手が、彼の腕を掴んだ。
「…?」
その行動に、翔が不思議そうに振り返る。
「あ…。」
自分の取った行動に驚きながらもその手を離すことが出来ず、伺うように彼を見上げると、
翔はわずかに目を瞬かせ、次の言葉を待つようにじっと樹梨を見つめていた。
そのまなざしに胸の奥がドクンと大きく音を立てる。
「わたしは…わたしも…体調の悪い人を放っておけなかったとか、そんな看護師の卵としての使命感だけで、翔くんの看病をしたわけじゃないの。」
小さく震える指先を握り締める。
「ずっと前から…初めて会った高2のあの日から、ずっと翔くんのこと見てたから。
だから…熱を出した翔くんに付いていてあげたかったの。私が自分から、そばにいたいと思ったのっ。」
「樹梨…?」
彼女の言葉を聞いて大きく目を見開いた翔が、掠れた声で呟いたが、目を伏せた樹梨はそれに気づかないまま続けた。
「だから…。抱きしめられたときはびっくりしたけど、すごく…ドキドキして…。」
でもそれが熱に浮かされての行動だったことに思い至ると、途端に惨めな気持ちになって、どうしようもなく哀しくなった。
「翔くん、覚えてないみたいだったし、なんだか余計に顔が見られなくて。だから避けちゃってた…ごめんなさい。」
目を伏せたまま指先から力を抜いて彼の腕を離そうとすると、翔がその手をスッとつかんだ。
そのままぐいっと引き寄せられて、反動でバランスが崩れる。
「…っ…?」
気がつくと、樹梨の体は翔の胸の中に倒れこんでいた。
「あ…ごめ…っ…。」
慌てて身を起こそうとすると、その身を閉じ込めるように翔の腕が背に回された。
「しょ、翔くん…っ?」
「ダメだな、俺は。結局、樹梨を傷つけてしまってたんだな。だけど…。」
翔の頬に、樹梨の柔らかな髪の毛が触れる。
「今のは、肯定的な意味に捉えて…いいのか?」
呟くように発せられたその言葉に、樹梨は体を硬くしたまま小さく頷いた。
「…そうか。」
その返答に、翔は体からふっと力が抜けるのを感じた。
腕の中に包み込んだ彼女の体から体温が伝わってくる。
それがゆっくりと胸の奥に広がって、じわじわと温かい想いへ変わっていった。
「君に嫌われてたんじゃなくて良かったと…心からそう思う。」
ささやくように樹梨の耳元でそっと告げると、彼女はぴくりと体を震わせた。
そんな反応が愛しくて、翔は彼女を抱きしめる手に力を込めた。
「翔…くんっ、あのっ…人が…見てるから…っ。」
「もう、誰もいない。」
いつの間にか夕日が沈み、残照に包まれるのみとなった学舎の周りからは、すっかり人の気配が消えていた。
「え…。」
翔の腕の中から顔を上げて辺りを見渡した樹梨は、再び翔を見上げて、みるみるうちに顔を赤らめた。
「あ、あの…。」
「さっき言いかけて止めた言葉…言っていいか?」
その言葉にわずかに息を飲んだ樹梨は、小さく頷いた。
「君と一緒にいたい。そばにいて欲しい。そう思ってる。きっと…初めて会ったときからずっと。」
見つめ合ったままの彼女は、頬を染めたまま大きく目を見開いた。
「俺は…。」
その瞳に引き込まれるように、無意識に顔が近づいていく。
「樹梨が…好きだ。」
「…っ…。」
掠れるようにそう告げた瞬間、翔は唇に彼女の柔らかさを感じていた。
階段状になった講義室での講義が終わり、学生たちがガタガタを音を立てて席を立って行く。
テキストを閉じてリュックへ突っ込んだ晴馬も、皆と同じように立ち上がりながら後ろを振り返った。
「おはよう、翔。おまえが遅刻してくるなんて珍しいじゃ…ん??」
彼が講義の途中にそっと入ってきたことに気づいていたが、晴馬から離れた出入り口近くの席に座ったので、声をかけずにいたのだが。
「え、どしたの? また体調悪いわけ?」
いつぞやと同じように、翔は机に突っ伏したまま動こうとしない。
「それともまた心の病? あ〜、もしかして樹梨ちゃんにフラれたとか?」
ジョーク半分に彼の頭の上でそう言ってみる。
すると、その言葉に翔の肩がピクッと揺れた。
「え。うそ、マジで?」
「そんなんじゃないっ。」
次の瞬間、いきなり立ち上がった翔は、バッグを掴むとくるりと踵を返して足早に歩き出した。
「え? 一体なんなんだよっ。待てってば…。おい、教科書〜!」
テキストが机の上に広げたままになっていることに気づいた晴馬は、それを掴み取って、慌てて彼の後を追った。
「ええ?ちょっと待てよ、それってキス…っ。」
昼食時のにぎわう食堂で素っ頓狂な声を上げかけた晴馬は、慌てて口をつぐんだ。
「キスしたってことかよ…。」
向かい側に座っている翔に心持ち顔を近づけて、小声で問いかける。
「まぁ…。気がついたら、そんなことに…。」
微かに頬を赤らめた翔は、視線を逸らせたままボソボソと答えた。
「おまえ、なんだかんだ言って、いっつもやることが極端だなあ。ていうか、樹梨ちゃんの唇をあっさり奪いやがって…。腹立つ〜うらやましい〜〜っ。」
晴馬はスパゲティを巻いたフォークを手に持ったまま、天井を仰いだ。
「うらやましいはともかく、腹を立てられる筋合いはない。」
翔は仏頂面をして答えたが、その表情は明らかに照れ隠しだ。
「ま、いいや。僕は最初から土俵に上がってなかったんだし。何はともあれ、めでたく両想いなれたってことだろ、良かったじゃん。」
テニスに一直線、リタイアしたら今度は勉強一直線、そして恋愛にもまっすぐで。
一見、不器用なようにも見えるが、なかなか出来ることではない。
「ほんと、すごいヤツだよな、おまえ。」
晴馬は、苦笑交じりの笑みを浮かべつつ、大袈裟にため息をついて見せた。
だが、晴馬の頭にふと疑問が浮かんだ。
「でもさ、万事うまく行ったのに、なんでそんなに黄昏てるわけ?」
「別に黄昏てるわけじゃないさ。というよりも…。」
翔の脳裏にふと、昨日の情景が甦ってきた。
彼女の柔らかさに酔いしれていた翔は、樹梨が微かに身じろぎするのを感じて、ハッと我に返った。
「あ…。す、すまないっ。」
慌てて抱きしめていた腕を緩める。
翔と目が合った樹梨は、一瞬呆けたような顔をしていたが、すぐに目を見開きみるみるうちに顔を赤らめた。
「う、ううん…。」
「いきなり、ごめん。俺…。」
樹梨の肩に手を置いたまま、翔が言いかけたとき、それを遮るように樹梨が口を開いた。
「翔くんっ。わたし、返さなきゃと思ってたのに、ずっと渡しそびれてて…。これっ。」
「…?」
その言葉に少々面食らいながら彼女が差し出した手を見ると、そこには翔の部屋のカギがあった。
「これ…。君が持っていたのか。」
失くしたと思い込み、それからはスペアキーを持ち歩いていた。
「ごめんなさいっ。」
樹梨は翔にカギを渡すと、さっと頭を下げた。
「あ、いや…カギの件は構わないんだが。その…。」
このタイミングで謝る樹梨に、翔は戸惑った。
「その『ごめん』というのは…。俺を拒否…。」
ここ数日のモヤモヤとしていた気持ちがすっきり晴れて、思わず衝動的になってしまったが、やはりいきなりああいう行動は不味かった。
「え?ち、ちが…っ。」
気落ちして視線を下げる翔に、樹梨は慌てた。
「違うのっ。その…突然でびっくりして…。何言っていいかわからなくなって…っ。」
樹梨は思わず、翔の腕を取っていた。
「翔くん、いつも驚かされるけど…。でも、どんなときも真っ直ぐに前をみつめていて。
わたしは…わたしもそんな翔くんが好きだったの。ずっと…ずっと前からっ。」
「樹梨…?」
「高校は違ってたけど…あれっきり会えなかったけど…。ずっと想ってた。」
その言葉を聞いた翔の脳裏にふと、晴馬のセリフが甦った。
『たった一度だけ会ったっきりの他校生を見てたんだ。彼のことだけを、ずっと。』
「え…もしかして、あいつが言ってた他校生って…。」
そのことに思い至った翔は、目を見開いた。
目の前には、告白を終えてまた急に恥ずかしくなったのか、顔を赤らめてじっとうつむいている彼女がいる。
「そう…か。」
翔は、樹梨に掴まれていた手首をクルリと返し、彼女の手を握った。
「ありがとう、樹梨。」
ずっと忘れないでいてくれて。
また見つけてくれて。
もう一方の手で彼女の頬にそっと触れると、ぴくりと反応した樹梨が、おずおずと顔を上げる。
「……。」
その潤んだ目に誘われるように、翔はそのまま彼女を引き寄せた。
「もう一度…いいか…?」
囁くようにそう言うと、樹梨は一瞬目を見開いたが、やがてゆっくりと目を閉じた。
「っ…。」
そっと触れ合った唇からは、彼女の甘美な柔らかさが伝わってきて眩暈さえ感じる。
迫りくる夕闇の中、ふたつの影はひとつになったまま動かなかった。
「…ょう、翔…?」
ふと気づくと、相変わらずスパゲティを頬張っている晴馬が、怪訝そうな表情で翔を見ていた。
「あ、ああ…。」
「ああ、じゃないよ。なに一人で妄想の世界に入り込んじゃってるのさ。」
「妄想じゃない、回想だっ。」
思わずそう口にした翔は、慌てて口を押さえた。
「ふ〜〜〜ん、回想ねぇ。」
晴馬が、意味ありげにニヤッと笑う。
「なるほどね。黄昏てるんじゃなくて、嬉しくて締まりがなくなってただけか。」
「そういうわけじゃ…。」
「ま、いいさ。その顔見てたら、心配してたのがアホらしくなった。」
食べ終わった晴馬は、フォークを皿に置くと、カバンの中から書類を取り出した。
「てことで、その話はおしまい。好きだった子を横からかっ攫われた上に、その男のノロケ話を聞くなんて、いくらなんでもカナシすぎる。」
「元はと言えば、おまえが誘導尋問したんだろ。」
「はいはい、その話はもう置いといて。」
翔はムッとした表情を見せたが、晴馬は取り合わずに、持っていた書類をテーブルに置いた。
「こっからは仕事の話ね。はいこれ、例のサークルの申請書なんだけどさ。」
「おい、なんで俺が代表者になってるんだ。」
「あれ? 申請書にメンバーの名前書いてもらったとき、言わなかったっけ?」
「聞いてないっ。」
春の球技大会でテニスの会場となった、小高い丘の上のテニスコート。
あれから無事に許可が下りたサークル活動は、晴馬が中心になってメンバーを募集し、十人ほどの希望者を集めていた。
「だって普通に考えて、経験者の翔が一番適任だろ。」
「言い出したのはおまえじゃないか。」
「細かいこと気にするなよ。樹梨ちゃんに嫌われるぞ。」
「なんでここで樹梨が出てくるんだっ。」
入部希望者を前にして、二人で小声で言い合う。
「あの〜。まだ始めないの?」
そんな二人を怪訝そうに見ていた学生から、控えめに声があがった。
「あ〜ごめんね、今から始めるから。ほら、翔! ひとこと挨拶して。」
「だからなんで俺が…。」
「入学式でも答辞をしゃべってたじゃん。カッコよかったぞ〜。」
「あれはひと月も前から用意してたんだ。こういうのとはワケが違…。」
「翔くん、頑張って〜。」
そこへ、控えめに後方に立っていた樹梨から声がかかる。
「…っ…。」
「ふっ。」
その声を聞いて動きを止めた翔を見て、晴馬が不敵に笑った。
「おまえ…。覚えとけよ。」
翔は晴馬を軽く睨みながら、皆の方へ向き直った。
「一橋翔です。皆でテニスを楽しみましょう。よろしく。以上。」
一瞬、沈黙が漂う。
「……へ? それだけ?」
「さっき、ひとことって言ったぞ。」
「え〜。揚げ足取りなヤツだな…ったく。ま、いいや。はい、拍手〜。」
その声に我に返った部員たちがパラパラと手を叩く。
「んじゃ、次は始球式だよ。」
「は? おまえな、始球式ってのは大会のオープニングでやるもん…。」
「はい、打って。」
晴馬がにっこり笑いながらラケットとボールを差し出した。
「………。」
屈託無く笑う晴馬を前にして、翔は思わずこめかみを押さえた。
( 2014. 9. 15 )