空色の景色 7
午後の講義が終わり、周りの学生たちがガタガタと席を立って行く。
それを見ながら樹梨もノートを閉じた。
「はぁ。」
無意識にため息が漏れる。
『高2のあの日からずっと好きでしたって告白しちゃいなさいよ。』
ふとした瞬間に、アキの言葉がリピートする。
「ほんと、簡単に言ってくれるんだから。」
大学に入ってからこちら、翔の中に樹梨という存在は認識されたとは思うが、
彼にとって樹梨は、おせっかいの固まりにしか映っていないだろう。
高2の地区大会、入学式、球技大会、そして今回の翔の体調不良。
「全部わたしが勝手に、望まれてもいない手助けをしただけじゃない…。」
翔はありがとうと言ってくれたけれど、本心は大きなお世話だと思っていたかもしれない。
しかも今回は、無理やりタクシーに乗せたり、無断でカギの開け閉めをしたり、挙句の果てには突き飛ばしたり。
思い出せば出すほど、穴があったら入りたくなる。
『抱き寄せられたってことでしょ?』
ふとアキの言葉がリピートする。
でも、体調が悪いときに世話をしてもらえたら、誰だって心が動くものだ。
彼の感謝の気持ちが表れただけだったのだろう。
その証拠に、翔は何も覚えていなかった。
「思いっきりナイチンゲール症候群じゃん…。」
それも一過性の。
あの瞬間はドキドキして気持ちが高揚してしまったが、冷静になって考えるとそれ以外の何物でもないとわかる。
「はぁ…。」
樹梨は盛大にため息をつきながら、机に突っ伏した。
そういえば最近、翔の姿をよく見かける。
食堂だったり、正門のあたりだったり、なぜか看護科の学舎の近くだったり。
そのたびに、顔を合わせるのが憚られて彼の視界に入らないところへと踵を返している。
改めて礼を、と言っていたからそれで樹梨を探しているのかもしれない。
それならいつまでも逃げていては申し訳ない。
でも。
お礼をされてしまったら、その時点で彼とのつながりは途絶えてしまうだろう。
「矛盾してるよね…。」
顔を合わせたくないのに、彼の姿は見ていたい。
「帰ろ…っと。」
いつまでもこんなことをしていても仕方がない。
樹梨は無造作にテキスト類を片付けて、ゆっくりと立ち上がった。
出入り口から外を見ると、昨日から降っていた雨は上がり、雲の隙間から日の光が覗き始めていた。
「まぶし…。」
学舎を出ると、西へ傾きかけた太陽の光が、真正面から差してきて、思わず手をかざす。
今朝はまだ雨模様だったのに。
最近の天気は、降ったり晴れたりと移り変わりが忙しい。
そのときふと樹梨は、少し離れた柱の向こうにいる人影に気づいた。
逆光を手で遮りながら、引き付けられるように目を細めて見る。
「あ…。」
柱に背を預けて空を見上げているその姿を確認した途端、胸の奥が軋むように音を立てた。
いつものように踵を返そうと思うのに、樹梨の足はその場に縫い止められたように動かなくなった。
「翔くん。」
腕を組んだ姿勢で柱にもたれた彼は、遠い空を見つめていた。
斜め横から差し込む金色の光が、彼の端正な横顔を照らしている。
その光景が、切り取られた一枚の写真のように樹梨の脳裏に焼きついて、目が離せなくなった。
どのくらいそうしていたのだろう。
不意に足元でバサリという音が響き、樹梨はハッと我に返った。
慌てて視線を向けると、手から滑り落ちた樹梨のカバンが派手に転がっていた。
「あ。」
無造作に詰め込んだだけだったので、中身が飛び出してしまっている。
ペンケースも開いたままだったらしく、筆記具がそこらじゅうにばら撒かれていた。
「うそっ。」
少数ではあるが一斉にこちらを見た他の学生たちの視線に、思わず頬が赤くなる。
樹梨は慌ててしゃがみ込み、散らばった物をかき集め始めた。
「やだもう、恥ずかしいっ。」
涙目になりながら必死に拾い集めていると、不意に目の前に影が差した。
その瞬間、いきなり手首を掴まれた。
「なにやってるんだ!」
「…えっ…。」
聞きなれたその声に引き寄せられるように顔を上げると、翔が何故か少し慌てた様子で樹梨を見ていた。
「翔…くんっ…。」
突然目の前に現れた彼に、胸の鼓動がうるさいほど響き始める。
だが彼は、動きを止めた樹梨を見てホッとしたように息をついた後、改めて樹梨を見つめた。
「怪我するぞ。」
若干の怒気を含んだその声に驚きながら彼の目線をたどると、樹梨がつかもうとしていた物の中に
ペン型のカッターナイフが含まれていた。
落ちた衝撃でキャップが取れて刃身が露わになっている。
「あ…。」
「案外そそっかしいんだな。」
翔は樹梨の手を掴んだまま、もう一方の手でカッターナイフを拾い上げた。
転がったキャップを見つけ、そのまま器用に刀身を差し込む。
「ほら。」
「あ、ありがとう…。」
カッターナイフを受け取りながら、樹梨は掴まれたままの手をちらりと見た。
だが翔は、その反応にフッと笑みを浮かべながら、小さく呟いた。
「やっと、つかまえた。」
「…え?」
「俺のこと、避けてただろう?」
「…っ…。」
単刀直入にそう問いかけられて、樹梨は言葉を失った。
「そんなこと…。」
何とか声を絞り出そうとしたものの、その後が続かない。
確かに避けていたのだから、否定のしようがない。
けれどそれは、彼の存在が遠ざかってしまうのが怖かったから。
だがそんな矛盾だらけの感情をどう言葉にして伝えたらよいか、わからない。
樹梨はいたたまれなくなって視線を落とした。
「…悪かったな。」
そんな彼女を見て、翔はスッと手を離した。
「え…?」
樹梨が慌てて見上げると、翔は何故か寂しそうな笑顔を浮かべていた。
手から彼の温もりが消え、急に心もとない感覚が湧き上がってくる。
樹梨は無意識に、離された手を胸の前で握り締めた。
「俺の部屋に来てくれた日のことだ。」
呟くようにそう言いながら翔は、散らばっていたカバンの中身を手早く拾い集めて樹梨に渡し、立ち上がった。
「君は、体調の悪い俺を放っておけなかっただけなのに。いきなり抱き寄せたり、その…帰るなと言ったり。」
翔は自嘲気味な苦笑いを浮かべながら、樹梨に触れていた手を所在なく腰にあてた。
「え、それって。翔くん、覚えて…?」
「本当に悪かった。樹梨に避けられて当然だと思う。」
晴馬と話すことで、翔が自分の気持ちに気づいたときは、それだけで舞い上がっていた。
ライバルの存在を匂わされて、余計に気持ちが高ぶったのかもしれない。
だがここ数日、遠目に見つけた彼女は、いつも不自然に方向を変えて離れていった。
あの日、翔が無意識に取った行動が原因で彼女に避けられているのだろう、と思い至ってからは、さすがに少しばかり落ち込んだ。
けれどそれでも。
言っておきたい、言っておかねばならないことがある。
「君に『帰るな』と言ったこと。あれは、本心だ。」
「……っ…。」
いつのまにか翔の顔からは苦笑いが消え、真剣な眼差しが樹梨を捕らえていた。
その視線に、樹梨の胸の鼓動が大きく波打つように激しくなった。
「君にそばにいて欲しいと思った。体調不良のせいで心細かったとか、そんな一時的な気持ちじゃなく。」
翔がナイチンゲール症候群という言葉を知っているかどうかわからないが、いま彼はそれを真っ向から否定している。
樹梨はうるさいほどに高鳴っている胸をギュッと押さえたまま、じっと彼の言葉を聞いていた。
「君を抱き寄せたのも、一時のきまぐれや、いい加減な気持ちでやったことじゃない。それだけはきちんと伝えておきたかったんだ。」
確かに意識が朦朧としていたせいもあるが、だからこそ本心が現れたと言える。
「それって…。」
胸に手を置いた樹梨が、目を丸くした。
「俺はきっと、初めて会ったときから…。」
だが翔は、そこまで言って言葉を切り、スッと視線を逸らせた。
「いや…ここから先はダメだな。」
緩やかな風が吹きぬけ、翔の前髪を揺らした。
「すまなかった。そしてありがとう、樹梨。…じゃ。」
翔はそう言って一瞬だけ笑顔を見せると、背を向けた。
「え…?」
黙って翔の言葉を聞いていた樹梨は、ハッと我に返った。
「ま、待って…翔くん!」
( 2014. 8. 31 )