空色の景色 6
午前中の講義が終わり、学生がバラバラと部屋を出て行く。
少し遅れて片付け終わった晴馬は、講義室の中を見渡した。
少し離れた席に、突っ伏している姿を見つける。
晴馬はリュックを右肩に引っ掛けて立ち上がると、その席へと近づいた。
「おーい、もう講義終わったぞ。いつまで寝てる気?」
その声に、翔が突っ伏したまま筆記用具に手を伸ばす。
「こんなにダラけてるなんて珍しいじゃん? まだ体調が悪いんなら出てこなきゃいいのにさ。」
気だるそうに体を起こして片付け始めた彼を見て、晴馬は少し首をかしげた。
「それとも。気持ちの問題かな〜?」
「なんのことだ。」
からかい口調で晴馬がそう言うと、頭を起こした翔は、彼をちらりと見ながらノートや筆記具をかばんに押し込んだ。
「…はぁ…。」
立ち上がった拍子に脱力感に似た重さに襲われた翔が、思わずため息まじりの息を吐く。
「体調不良っていうよりも心の不調って感じじゃん? なにが気になってるワケ?」
「……。」
晴馬らしい物言いだが、そんなふうに単刀直入に聞かれても簡単に返せるわけがない。
そもそも自分でもよくわからないのだから。
「僕が言ってやろうか。一言で言えば…そうだな、恋の病ってやつ?」
「……。は…?」
あまりにも唐突に出てきた単語に翔は思わず、素っ頓狂な声を上げた。
「へ…? なにその反応。」
目を丸くして突っ立っている翔に、晴馬も目をパチクリとさせた。
「あの…さ。一応聞いとくけど。気になる子がいたら、話してみたいとか仲良くなりたいって、翔も思うよな?」
「なんの話をしているんだ。」
「だからさ、僕たちはもう大学生なわけで。立派な大人、健全な男子なわけじゃん? 気になる女の子の一人や二人いるもんだろ。」
「気になる女子?」
翔は、その言葉を反芻して、少し怪訝そうな表情を浮かべた。
「そもそも、話したこともない人間が気になったり、仲良くなりたいと思ったりするものなのか? どういう状況だ、それは。」
「どういう…って。」
逆に詰め寄られて、晴馬は引きつり笑いを浮かべた。
高校生活の前半はテニス、後半は勉強、それだけに全力投入してきたのだろう。
翔の生活や考え方の中からは、明らかに萌え要素が抜け落ちている。
「あーもういいや。今の話はおいといて。」
回りくどい言い方をした自分がバカだった。
晴馬は怪訝そうな顔をしている翔を両手で制してから、その腕を組み思案顔になった。
やはり翔みたいな相手には、率直に聞くのが一番だろう。
「じゃあ質問を変えよう。翔ってさ。」
改まった様子で翔に向き直った晴馬に、翔も居住まいを正した。
「樹梨ちゃんのこと、好きなの?」
「………。」
突然出てきた名前とその内容について来れないのか、翔はキョトンとした表情で晴馬を見た。
「やっぱりそういう反応かぁ。」
なんとなく予測はしていたが、ここまで天然だとは思わなかった。
「や〜僕もよく、晴馬くん天然だよね〜なんて言われるけどさ。翔もいい勝負だな。」
他の部分がしっかりしているだけに、こういう面を垣間見るとなんだか微笑ましくて笑えてくる。
「なるほど、似たもの同士ってやつか。だから気が合うんだな。」
晴馬はひとりでうんうんと頷いた。
「おい、何を一人で納得してるのか知らないが。 樹梨のこと、って言ったか?」
「うん。でも気にしなくていいよ、自覚のないやつに言っても仕方ないしな。
樹梨ちゃんがちょっと可哀想な気もするけど…僕が口出す問題じゃないし。」
「ちょっと待て。そこまで言っておいて、気にするな?」
珍しく真面目な雰囲気だった晴馬が、すっかりいつもの調子に戻っている。
思い切り肩透かしを食らったような気になった翔は、逃すまいと晴馬に詰め寄った。
「え? お、落ち着けよ、翔…。」
先ほどとは打って変わって真剣な様子に、晴馬は思わず後ずさりした。
そんな彼に、翔が容赦なく迫る。
「樹梨が可哀想って、どういう意味だ。」
「どういう…って。可哀想、は可哀想、だよ。」
「もっとわかりやすく言え。」
「い、いや、僕も又聞きだしぃ。」
通路を挟んだ向かい側の机にぶつかった晴馬は、その椅子に尻餅をつくように倒れこんで顔を引きつらせた。
「うそだろ…。」
中庭に立つ大学のシンボル的な、大きな常用樹の下。
その周りに配置されたベンチに腰掛けて、翔は頭を抱えていた。
「そういえば、気になる書き置きがあったんだ。『やっぱり帰ります』って。」
「やっぱり? なにそれ。おまえ、樹梨ちゃんに『帰したくない』とでも言ったの?」
「覚えてない…。」
「あははは、なにそれ。」
屈託なく笑う晴馬を翔が横目でにらむ。
「仕方ないだろう、意識が朦朧としてたんだ。」
「ふーん?」
晴馬は腰に手を当てて、翔を覗き込んだ。
「でもさ、体調が最悪だったとはいえ、赤の他人…それも女の子が家の中にいたのに、よく眠れたな。」
しかも、様子を見に来た彼女を抱き寄せて「帰るな」とささやくなんて。
ささやいた点については想像の域を出ないが、樹梨と翔の話を擦り合わせると、おそらく大きくは外れていないだろう。
晴馬はニンマリと笑いながら翔を見た。
堅物にみえて、意外と大胆だ。
だが晴馬から視線を外した翔は、足元の芝生を見ながら呟いた。
「すごく居心地が良かったんだ。安心できる…というか。」
「そっか。」
それを聞いた晴馬は、晴れた空を見上げて吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「翔にとって、樹梨ちゃんはきっと…。」
いや翔だけでなく、樹梨にとっても互いに惹かれあう存在なのだろう。
「大丈夫だよ、樹梨ちゃん。」
「…?」
「いや、こっちの話。」
翔が訝しそうに晴馬を見上げている。
そんな彼に、泣きそうな顔をしていた樹梨がオーバーラップする。
「僕さ、高校の頃、樹梨ちゃんのこと好きだったんだ。」
「え?」
突然の告白に、翔が目を丸くして動きを止めた。
そんな反応に、晴馬は思わず苦笑した。
樹梨のことを好きなのかと問われて答えられなくても、こういう話に反応してくるということは、心の奥では意識している証拠だ。
本人がわかっていないだけ。
それならば。
「でもさ、いつ頃からだったか…。なんか気づいちゃったんだよね、樹梨ちゃんがどこか遠いところを見てることに。」
腕を頭の後ろで組んで、空を見上げる。
「誰を見てるのか全然わかんなくてイラついたりしたけど。」
腕をほどいた晴馬は、再び翔に視線を戻した。
真正面から彼を見据える。
「そりゃそうだよな、たった一度だけ会ったっきりの他校生を見てたんだ。彼のことだけを、ずっと。」
そんな晴馬の所作に、翔は少しだけ首をかしげた。
「他校生?つまり、おまえが失恋したって話か?」
「な…っ。」
晴馬は思わずのけぞった。
「おまえって、やっぱそういうヤツか。人の傷をえぐるようなマネする?普通。」
それ以前に、翔は晴馬の思わせぶりな発言の意味を全く理解していない。
晴馬は軽くこめかみを指で押さえて、ため息をついた。
「ああ、そうだよ。あっさりフラれちゃったの。てか、告白さえ出来なかったんだけどさ。」
そういう意味では、厳密にはフラれたわけではない。
最初から彼女にとって晴馬は、友達以外の何物でもなかったのだ。
「仲のいい友達でいられるなら、それでもいいと思ったんだ。失くしちゃうよりはずっといいだろ?」
「失くすよりは…。」
そのときふと、翔の脳裏に樹梨との会話が甦った。
確か、晴馬のことを話していたときだ。
『あいつにはないのか? こんなふうに選択を迫られて何かを諦めた経験が。』
『どうなんだろうね。もしかしたらあるのかも。だから一橋くんのことが他人事とは思えないのかもね。』
「…そうか。」
なんとなくわかった気がする。
晴馬が、あんなにしつこく翔にテニスを諦めるなと言っていたわけが。
気持ちをつぎ込んだ大切なものを、悲しい思い出にしてしまいたくないのだ。
それを他人にも押し付けるのは、おせっかいと言えなくもないが、そんな彼の行動が以前よりは理解できる。
「一人暮らしってのは、すごいもんだな。」
「え、何の話?」
「いや…。」
思わず呟いた一言に、翔は苦笑いを浮かべた。
「一人で何でも出来ると思ってたのは、自分だけだったんだな。」
高熱を出して倒れたときに、それを思い知った。
おかげで、自分のペースで突っ走っていたときよりは、周りが見えるようになったと思う。
「おまえの言ってること、今ならわかる気がする。」
晴馬を含め、自分を取り巻いている人間たちの気持ちに、少しだけ寄り添えるようになった気がする。
「うん…?」
晴馬は翔の言葉に首を傾げたが、考えを巡らせている様子の彼を見て、口を閉じた。
「あ〜、いい天気だな。そう言えば、おまえが樹梨ちゃんと再会したのって、この樹の下だったっけ。」
翔から目を逸らせた晴馬は、樹に近づいて幹をペタペタと叩いた。
「ああ。」
彼につられて大きな広葉樹を見上げた翔の脳裏にふと、お粥を差し出してくれたときの彼女の笑顔が甦ってきた。
『帰るなよ…樹梨…俺が病人だからここに来たのか? 俺は…ただの患者…?』
同時にそんなセリフも甦ってくる。
「……っ…。」
そうだ、あれは間違いなく翔自身が発した言葉だ。
「ああ、そうか。」
目の前を覆っていた霧が、サーッと晴れていくような気がした。
― 樹梨、君にとって俺は看護すべき対象でしかなかったのかもしれない。
けど、俺にとっては。
君をちゃんと意識した入学式の日から。
いや、もしかしたら、県大会決勝戦のとき。フェンス越しにその必死な表情を見たときから。
「晴馬。」
翔は、吹っ切れた表情で彼の前に立った。
「前に言ってたサークルの話、乗ってやる。」
「は? サークル…??」
唐突な申し出に、晴馬は目をまん丸にして言葉を失った。
樹梨のことを話していたのだ。どういう脈絡でそんな話になるのだろう。
「じゃ、そういうことで。手配は任せるから、よろしくな。」
それだけ言うと、翔は踵を返した。
「え? おい、ちょっと待てよ、僕の話はまだ…。」
晴馬が慌てて追ってくる。
その彼に、足を止めて振り向く。
「言いたいことはわかったさ。フラれたおまえはどうでもいいが、その他校生とやらには負けたくない。
俺はもう二度と諦めたくないんだ。」
初めての出会いのとき、そして球技大会のあの日。
負傷した翔を懸命に気遣ってくれた彼女。
学内で出会ったときに、さりげなく向けられた笑顔。
高熱を出したときに看病してくれた優しさ、心配げに向けられた瞳。
それらは全部、水が砂に沁み込むようにスッと、翔を潤していた。
そのときは意識していなかっただけ。それが今はとてつもなく不思議に思える。
「彼女の行動の大半が、看護師を目指す者の使命感だったとしても。俺は俺の気持ちを大切にしたい。今度こそ。」
「おまえ…。」
さっきまで、あんなトンチンカンな反応しかしていなかったのに、何故こんなに突然、全てをわかってしまっているのだろう。
晴馬は言葉を継げないまま、翔を見送った。
その後姿が、今までと違い、ひと回り大きくなったように自信に満ちて見える。
「なんだかよくわかんないけど。たぶんもう大丈夫。…なのかな。」
それにしても『フラれたおまえはどうでもいい』とは。
「ほんっと容赦ないヤツ。」
晴馬は広葉樹の大きな幹に背を預けて、口を尖らせた。
だがそれも、自然に笑みへと変わる。
「『他校生に負けるつもりはない』って? そういうトコは相変わらず鈍いんだな。」
もとより彼にライバルなどいないのだ。
「あとは…。ま、頑張れよ。」
(続く)
( 2014. 8. 16 )