空色の景色 5
フッと意識が戻る。
部屋の明かりは落とされているが、隣のキッチンは小さな電灯が点いたままになっているらしく
薄明かりが漏れている。
どのくらい眠っていたのだろう。
まだ真夜中のようだが、眠りについた時間が早かったのかずいぶん長く眠ったような気がする。
翔はゆっくりと身を起こした。
あんなに重かった体が今は、憑き物が落ちたように軽くなっていた。
ふと、ベッド横の小さなテーブルに目が留まる。
テーブルの上には、オレンジやキウィなど、皿に形よく盛り付けられた果物が置いてあった。
その横にメモが添えられている。
『だいぶ落ち着いたようだし、やっぱり帰ります。お大事にね。 樹梨 』
彼女の気遣いに自然と笑みが浮かぶのを感じながら、果物に手を伸ばす。
オレンジを頬張りつつ、ふと短い文面の一文に目が止まった。
「やっぱり?…どういう意味だ。」
そういえば、お粥を食べた後の記憶が曖昧だ。
彼女と何か話したような気もするが、よく覚えていない。
ただ、両腕を抱きしめたくなるような暖かさが胸の中に残っている。
優しい香りまでもが、ふと鼻をくすぐるような心地さえする。
甘酸っぱさを思わせるその感覚に戸惑いと、何故だか充実感を感じつつ、翔は再びベッドに寝転がった。
連日の雨が嘘のように、きれいに晴れ上がった朝。
気温は高くなりそうな気配だが、湿度が低いのだろう、辺りは朝特有のさわやかな空気に包まれている。
駅を出て、大学へ向かういつもの道を歩く。
久しぶりに晴れたせいか、日差しがいつもよりまぶしい。
同じ方向へ向かう学生の姿もちらほらと見えるが、講義の開始時間にまだ余裕があるせいか、皆のんびりとした雰囲気だ。
いつもなら自分のペースでさっさと歩いて行くところだが、病み上がりの身だ。
大事を取る意味もあり、翔も回りにあわせてゆったりと歩いていた。
歩調を緩めると、いつもは気づかなかったいろいろなものが見えてくる。
「こういうのも悪くないな。」
ずいぶん久しぶりに気持ちを緩めた気がする。
思い返せば、高2の後半からの受験勉強、晴れて合格が決まった後は、下宿するための準備に追われ、
更に答辞の依頼を受けたことで、入学するまでずっと突っ走ったままだった。
入学してからは、公私共に生活環境が大きく変わったことでストレスも加わり、ずっと緊張感が抜けていなかったのだろう。
倒れたのも当然かもしれない。
体が発した警告音だ。
「力抜けってことか…。」
道端で揺れている小さな花を見ながら、翔は小さく笑った。
そのとき、不意に聞き覚えのある声が聞こえた。
前方に視線を戻すと、少し先に見覚えのある後姿が見えた。
「あ。」
短めのワンピースにスパッツを組み合わせた軽快なファッションが夏らしく爽やかで、思わず見惚れてしまう。
友人と談笑している横顔が朝日に照らされて、キラキラと輝いて見える。
声をかけるべきかと迷いながら、そのまま歩いているといきなり肩をバンッと叩かれた。
「おっはよ〜。 やっと元気になったか、翔。」
「…っ…晴馬…。」
突然の衝撃と、テンションの高い登場に、翔はつんのめりそうになった。
「あれ?まだ治ってないの?」
そんな翔の様子に晴馬は目を丸くした。
「熱は下がったが、まだ病み上がりだ…。」
寝込んだのは丸一日と少し。
あの高熱で相当体力を奪われた。
たったあれだけの休養で全快すると思う方がおかしいだろう。
「小学生じゃあるまいし…。」
「ふ〜ん?」
晴馬は、翔の返答になにか言いたそうな顔をしたが、ふと前方に気づいて駆け出した。
「あ、樹梨ちゃ〜〜ん、アキちゃんも! おっはよう!」
その声に彼女たちが振り返る。
「晴馬くん? おはよう、今日は早いのね。」
「うん、今日は特別講義があるからさ。ほら、翔も一緒。」
その言葉に樹梨が更にこちらを振り返る。
「あ…。」
翔の姿を目にした樹梨は、緊張したように動きを止めた。
そんな彼女の様子を少し不思議に思いつつ、翔は彼女に近づいた。
「おはよう。今回はいろいろ世話になったな…。ありがとう。」
「え? う、ううんっ、全然! 大丈夫、わたし看護師の卵だし。当然のことしただけだし!」
樹梨は、何故か全力で拒否するような様子で、両手を顔の前でぶんぶんと振った。
「…え。ああ、そう…だよな。」
「ちょっと、樹梨…?」
樹梨の言葉に明らかに気落ちした様子の翔を見て、隣にいたアキが慌てて彼女をつついた。
「え? あ…ごめんなさいっ。そうじゃなくて、ええと…。」
「ん?どうしたの? 樹梨ちゃんは翔が倒れる前に気づいたんだろ? 立派に看護師してんじゃん!」
「あんたは黙ってなさいっ。」
無邪気にそう言う晴馬に、アキがその頬を引っ張った。
「い、いでででで…っ。は、離じで、アギちゃ…。」
「そう…だな。君なら立派な看護師になれると思う。」
騒いでいる彼らを尻目に、翔はなんとか笑顔を作って樹梨にそう言った。
「ありがとう。この礼は改めてするから。じゃ…。」
翔は彼女に軽く頭を下げると、早足で歩き出した。
「え、あれ? 待てよ、翔〜!」
それを見た晴馬が慌ててその後を追う。
「あ…。」
彼の後姿がどんどん小さくなっていく。
それを見つめながら、樹梨は胸がギュッと締め付けられるような感覚に捕われた。
「…梨、樹梨ってば…っ。」
しばらく彼らを呆然と見送っていた樹梨は、アキの声にハッと我に返った。
「あ、なに?」
「なに…って。聞きたいのはこっちの方。」
アキはため息をついてみせた。
「どうしてあんなこと言うかなぁ。義務的にやりました、としか聞こえなかったよ?」
「う…自己嫌悪。」
樹梨はうなだれて泣き声になっている。
「どうしたの。何かあった?」
「抱きしめられた〜!?」
「ちょっと声が大きいってば…。」
とぼとぼと歩く樹梨に合わせながら、彼女の話を聞いていたアキは思わず素っ頓狂な声を上げた。
ちょうど大学の正門に差し掛かったあたりで、学生たちの密度が濃くなっていた。
だが、驚かずにはいられない。
「抱きしめられたっていうか…引っ張られて胸に倒れこんじゃっただけっていうか…。」
「それ、抱き寄せられたってことでしょっ。」
「だから声…っ。」
「なるほどねぇ、だからあんな、ぎくしゃくした対応をしちゃったわけか。」
だが、そこでふとアキの頭に疑問が浮かんだ。
樹梨の反応はわかるが、当の本人の翔は極めてフレンドリーな雰囲気だった。
そんなアキの問いかけに樹梨は苦笑いを浮かべた。
「覚えてないんだと思う…。」
あの時もそんな気がしたが、先ほどの様子でそうだと確信できる。
「無意識にやったってこと?」
アキは目を丸くした。
だが、それなら。
「それ、すごくない? 無意識イコール本心ってことでしょ。」
脈あり。大ありだ。
「でも恥ずかしくてまともに顔が見られない…。それにあんな態度取っちゃって。…嫌われたかも。」
樹梨は一人で赤くなったり、青くなったりしている。
「面倒くさい子ねぇっ。好きって言っちゃえば済むことじゃん。高2のあの日からずっと好きでしたって告白しちゃいなさいよ。」
うなだれた様子の樹梨と、そんな彼女に発破をかけるように力説するアキ。
ふたりの声が少しずつ遠ざかって行く。
「そうだったんだ…。」
それを聞きながら、晴馬がそっと正門の陰から姿を現した。
正門の大きな柱に背を預け、そのままズルズルを座り込む。
空を見上げると、憎らしいほどすっきりと晴れた青い空が広がっていた。
「そっかぁ。」
人目を気にせず座り込むその姿には、いつものような陽気さはなく、
晴馬は何かに考えをめぐらせるように、そのまま空を見つめていた。
(続く)
( 2013. 9. 23 )