空色の景色 4
「ふ〜ん。それで、あとは晴馬くんに任せて逃げるように帰って来ちゃった、と?」
「だってぇ〜。」
歯にもの着せぬ物言いをするアキに、樹梨は半泣き状態で口を尖らせた。
事故とはいえ、半裸の翔に抱きついたあげく、病人の彼を思い切り突き飛ばしたのだ。
だが、そんな樹梨を彼は、晴馬が投げつけたペットボトルから守ってくれた。
なんだかもう、恥ずかしいやら情けないやらで、立ち直れなくなった。
「だって〜…じゃないっ。一橋くんが自分でも気づいてなかった不調を、逸早く見つけて看病してあげたんでしょ?
なんで最後までちゃんと看てあげないのかなぁ。」
「看病ってほどのこと、してないし…。」
タクシーを降りる時点で、翔の意識がなかったので(薬が効いて眠っていただけだが)、運転手の助けを借りて部屋まで運び込んだものの。
濡れた服を脱がせるにしても女手ひとつでは手に余るので、晴馬に助けを求めたのだ。
あとは、すぐに駆けつけてきた晴馬がやってくれた。
「一応、お湯で濡らしたタオルで拭いてあげたけど…。」
それを聞いたアキは、大袈裟にため息をついた。
「本人に意識がない状態で看病したって、全然印象に残らないじゃない。」
優しく看病する樹梨を、翔にしっかりとアピールしておかねば意味がない。
「アキちゃん、いくらなんでもそれは看護師見習いにあるまじき発言…。」
「今は樹梨の恋について語ってんのっ。このチャンスにナイチンゲール症候群を狙わないでどうすんのよ。」
「ア、アキちゃん、声が大きいってばっ。」
こぶしを握って力説するアキを、樹梨は慌てて制した。
回りを見ると、クスクスと笑っている他の学生が目に入る。
「と、ともかく…。」
それに気づいたアキも、咳払いとしつつトーンを落とした。
「途中で放り出すなんて樹梨らしくないよ。球技大会で発揮したあのパワーはどこいったの?」
「そうだけど…。」
彼の不調を見抜いたときは看護師の卵としての使命がフル活動していた。
2年前のテニス大会で彼を必死に止めたのも、樹梨の中にもともとあった本能のようなものだったのだろう。
でも今回は。
「あのさぁ、患者の裸にいちいち動揺してて看護師が勤まる? だいたい、彼が眠ってたときはなんともなかったんでしょ。」
「アキちゃん、さっきは、看護師なんて関係ない…みたいなこと言った…。」
アキの言葉に樹梨はボソッと反論したが、アキはあっさりと無視した。
「一橋くん、今日もまだ寝込んでるんでしょ? この後の講義が終わったら、ちゃんと様子を見に行ってあげなさいよ?」
本当は、樹梨が動揺した理由も、逃げ出した気持ちも良くわかっている。
それだけ彼女が翔を意識している証拠なのだ。
だからこそ、ここで背中を押してやりたい。
「一人暮らしの病人を放っておく方がおかしいんだから。」
「うん……。…あ!」
曖昧に頷いた樹梨だったが、ふと何かを思い出したようにハッと顔を上げた。
「どうしたの?」
不思議そうな顔をするアキに、樹梨はバツの悪そうな顔をしてそっとカギを取り出して見せた。
「翔くんの家のカギ…。あのまま持って来ちゃった。」
「あらま。それは尚更、返しに行かないとね。『翔くん』に。」
アキは意味ありげに樹梨を見て、クスッと笑った。
*
「はぁ〜。」
翔の部屋の前まで来たものの、なかなか入る勇気が出ず、樹梨はため息のような深呼吸を繰り返した。
昨日はなんのためらいもなく、このドアのカギを開けたのに、この違いはなんだろう。
(というか…。いきなり開けちゃったのがいけなかったんだよね。)
眠っているものと思いこんで安心していたのに、まさか目の前に半裸で立っているとは。
「思わなかったんだもん〜。」
「何を『思わなかった』んだ?」
頭を抱えて呟いた途端、後ろから声をかけられた。
「え。」
まさかと思いつつ、恐る恐る振り返る。
「翔…くん…っ。」
「うちの前に誰か立ってるようだと思ったが。やっぱり君か。」
そこには、いつもと違って部屋着のようなラフな格好をした翔が立っていた。
手にはコンビニの袋を提げている。
「え、あの…。体調はもういいの?」
昨日の様子ではまだ寝込んでいるのが普通だ。
「いや、まだ少し熱っぽいんだが…空腹で…。」
目を丸くしている樹梨に、翔は照れくさそうにそう言いながら、部屋のドアを開けた。
「あれ、カギかけてなかったの?…あ!」
「それが…見当たらないんだ。昨日の記憶も曖昧だし、どこかでなくしたらしい。」
部屋へ樹梨を招きいれながら、翔は苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい、私が…。」
樹梨はそう言ってカギを取り出そうとしたが、部屋に入った翔は、そのままベッドへ倒れこんだ。
「はぁ…。やっぱまだダメだな…。」
そう言って仰向けになった翔は、手首を額につけて、肩で息をしている。
「大丈夫?」
それを見た樹梨は慌てて翔に駆け寄った。
「…じゃないみたいね。水分補給してる?」
「ああ、昨日君が置いて行ったのと…晴馬にぶつけられたペットボトルがあったからな。」
何気ない調子で翔は答えたが、それを聞いた樹梨は、昨日のシーンを思い出して赤面した。
彼が全く気づいていないのが幸いだ。
「そ、そういえば、おなかすいてるって言ってたけど。 昨日、晴馬くん何か作ってくれた?」
お粥でも作れたらと思い、昨日の買い物では飲料の他にちょっとした材料を買っておいたはず。
一緒に買い物をしていた晴馬もそれを見ていたはずだ。
水枕や冷却シートを用意しながら、樹梨は首をかしげた。
「晴馬…? ああ、そういえば。料理なんて出来ないから何か買ってきてやると言ってくれたが…。」
翔は、額に乗せていた手を持ち上げ、傍らのテーブルを指した。
「え。これを買ってきたの…!?」
小さなテーブルの上にコンビニ弁当が置かれている。
だが。
「焼肉弁当…って…。」
いくらなんでも高熱を出している病人にこれはないだろう。
「悪気がないのはわかるが…受け付けない…。」
「そ、そうよね……。」
どんな場合でも、晴馬には悪気のかけらもないのだ。
大学では喧嘩別れのようになり、翔の部屋ではペットボトルを投げつけるという、そんなシーンばかり目にしていたので、
翔が「晴馬に悪気はない」と言ったのを聞いて、樹梨はホッと気持ちが柔らかくなるのを感じた。
「お粥、作ってくるね。」
枕を水枕に取替え、翔に冷却シートを渡すと、樹梨は小さなキッチンへ向かった。
「どう…?」
樹梨が差し出したミルク粥を受け取ると、食欲をそそる香りが翔の鼻をくすぐった。
隠し味に入れているらしい生姜の風味に箸が進む。
「…うまい。」
昨日の昼の学食以来の食事だ。
翔は、樹梨が作った粥を一気に平らげた。
「…生き返った…。」
翔は、やっと人心地ついた様子でふうっと息を吐いた。
「それだけ食欲があったら大丈夫ね。あとはお薬を飲んで寝れば、すぐに良くなるわ。」
食器を下げながら、樹梨はにっこりと微笑んだ。
あとはゆっくり眠るだけ。もう大丈夫だろう。
「水枕、換えてくるね。あ、それと…。後片付けが終わったら、私は失礼するから。」
「え?…ああ。」
だがそれを聞いた翔は、ふと顔を上げて彼女の後姿を見つめた。
「翔くん、水枕…。少し頭を上げて?」
キッチンで水と氷を入れて戻ってくると、翔は横になって目を閉じていた。
「翔くん?」
眠ってしまったのか、樹梨の声に反応しない。
「う〜ん、どうしよう…。」
樹梨は、気持ちの良さそうな寝息を立てている翔をしばらく見つめていたが、意を決して彼の枕元に膝をついた。
「相手は病人。今は患者と看護師…。うんっ。」
そう言い聞かせながら、彼の後頭部に左腕を入れて、頭をそっと持ち上げる。
「起こさないように…起こさないように…。」
そして右手で水枕を差込み、左腕を抜いて完了…と思ったとき。
「……っ!?」
いきなり腕をつかまれた。
「しょ、翔くん…っ?」
慌てて彼の顔を見ると、翔は焦点の定まらない様子で気だるそうに樹梨を見上げていた。
だが次の瞬間、彼の腕がぐいっと樹梨の身を引き寄せた。
「えっ。」
抵抗する暇もなく、気づいたときには、樹梨は翔の胸の中に収まっていた。
「あ、あの…っ。」
彼の胸から、少し早い鼓動が伝わってくる。
それは熱のせいなのか、それとも。
「帰るなよ…。」
翔がうわ言のように、そう呟いた。
「樹梨…。俺が病人だからここに来たのか? 俺は…ただの患者…?」
「そんなこと…。」
そんなんじゃない。先ほど呪文のように口にしたのは、そう言って自分に暗示をかけないと何も出来ないと思ったから。
「わたしは…。」
だが、言いよどんだ樹梨を見た翔は、スッと抱擁を解いた。
「悪い…。何言ってんだろうな、俺…。」
樹梨を離した腕は、力が抜けたようにパタリとベッドに落ちる。
「翔…くん?」
体を起こした樹梨が翔を覗き込むと、彼は再び寝息を立て始めていた。
「あ…れ? 今のって寝ぼけてたの?」
それとも、そもそも寝言だったのだろうか。
「あぁぁ〜びっくりした…。」
樹梨は、翔のベッドサイドにペタンと座り込んだ。
目の前には、安心しきったように眠っている彼の無防備な姿がある。
「帰るな…って言ったよね? 私のこと樹梨…って。」
今まで彼に名前で呼ばれた記憶は、ほとんどない。
彼が呟いた言葉の意味、行動。
考えれば考えるほど収拾がつかず、今のシーンがリピートして胸の高鳴りが収まらない。
「翔くん、今のどういう意味? わたし、少しは期待しても…いいのかな…。」
(続く)
( 2013. 7. 21 )