空色の景色 1
駅を出ると、どんよりと重い雲が広がっていた。
清々しかった初夏を通り過ぎ、季節は梅雨に入ろうとしている。
「やっぱり傘を持って来るべきだったか…。」
今にも降って来そうな空だ。
だが、持っていないものは仕方がない。
降りだす前に大学に入ってしまえばいいのだ。
翔はかばんを肩にかけ直して、早足で歩き出した。
「いや〜、すごい雨だなぁ。」
食堂で向かい合わせに座っていた晴馬が、フォークを持ったまま天井を見上げた。
昼食時でにぎわう食堂。
その建物全体を包み込むように、ザーッという雨音が聞こえている。
結局、学舎へ入る直前に降り出した雨のせいで、しっとりと濡れてしまった。
講義を受けているうちに、いつのまにかシャツは乾いたようだが。
「こんだけ降ってたら、いっそ清々しいよね!」
「そうか?」
嬉しそうにニコニコしている晴馬を、翔は恨めしそうに横目で見た。
「これだけ降ってたら」傘を持たない身では、帰りはずぶ濡れ必至だ。
想像しただけで、すでに体が重く感じられる。
「相変わらずロマンのないやつだなぁ。」
「ロマン?」
この状況に全く似合わない、かつ時代遅れ的な言い回しに、翔は思わずそのまま問い返した。
「もうちょっと想像力を働かせてみなよ。例えばー。」
その1.傘を持っておらず困って空を見上げている女子学生にさりげなく声をかけて、いい雰囲気になる。
その2.雷の音を聞いて恐がる女子学生にさりげなく寄り添って、いい雰囲気になる。
その3.相合傘をしたものの、彼女が歩きにくそうにしてるのでさりげなく手を肩に回し、いい雰囲気に…。
「さてと、次の講義の準備をするか。」
目を輝かせて「ロマン」とやらを語る晴馬を尻目に、翔はさっさと立ち上がった。
「え?ちょっと待てよ、まだその4とその5がぁ…。あ、あぶないっっ。」
「…?うわっ。」
晴馬が叫びながら翔の背後を指すのを見て、翔が振り向くと、トレーを持って近づいて来ていた学生と衝突しそうになっていた。
「きゃっ…。」
相手も、翔が急に立ち上がるとは思っていなかったのだろう、驚いてトレーを引いた。
乗っていた食器がガチャッと音を立てる。
「すみませ…。あ。」
同じように慌てて身を引いた翔は、その相手を見て言葉を止めた。
「あれ、樹梨ちゃん?久しぶりだね!」
同じようにその人物を見た晴馬が嬉しそうな声を上げる。
「うん、同じ学内にいてもなかなか会えないね。元気だった?」
樹梨は晴馬に笑みを向けて答えると、傍らの翔に視線を移した。
「…一橋くんも。」
「ああ…。それより、悪かった。大丈夫だったか?」
「うん、気にしないで。わたしたちが急に近づいたから…。」
どうやら彼女は、翔たちの姿を見つけて声をかけようとしたらしい。
だが晴馬は彼女の言葉尻に反応した。
「わたしたち?」
晴馬の問いかけに、彼女の後ろからもう一人、見覚えのある顔がヒョイと覗く。
「わたしも居るけど?」
「あぁ、アキちゃんか。えーと、君も元気そうで…。あはははは。」
「なに、その取って付けたような態度。」
「いやいやいやっ。」
晴馬は慌てて、顔の前で両手を振ると、彼女らに席を勧めた。
「そこ座りなよ。翔はもう食べ終わって出てくとこだけど、僕はまだ大丈夫だから。」
「あ、そうだったんだ…。」
その言葉に、樹梨が翔をちらりと見上げた。
「終わってない。こいつが鬱陶しくて場所を変えようとしてただけだ。」
翔は、そう言いながら再びトレーをテーブルに置いた。
「ふ〜〜ん?」
アキが意味ありげな笑みを浮かべつつ、晴馬の隣の席に腰掛ける。
「え、アキちゃんこっち?」
「なに。なんか問題でも?」
「いえ…ないです。」
少しばかり頭を垂れる晴馬。
その向かい側に翔が再び腰を下ろすと、その横に樹梨も腰掛けた。
「そういえばさー、あの話どうなったの、晴馬くん。」
アキが箸を割りながら、問いかけた。
「あの話って?」
「ああ、実はさ…。」
小さく首をかしげる樹梨に軽く笑みを返し、その隣の翔に意味ありげな笑顔を向けると、晴馬はかばんの中から何かの用紙を取り出した。
「取り寄せてきたよ、サークル活動の申請書!
いろいろ調べてみたんだけど、この大学にはテニスのクラブもサークルもないって言うしさ。
それなら自分たちで作っちゃえ〜と思って。
とりあえず、4人いれば形はなんとかなるから、場所とか活動内容なんかは少しずつ考えていくとして…。」
「テニス?」
「4人?」
翔と樹梨が同時に声をあげた。
「うん、この4人で硬式テニスのサークルを立ち上げるんだよ。」
「ちょっと待て。」
嬉々として話す晴馬を、翔が遮った。
「なんで俺が入ってるんだ。」
「なんでって。 翔、テニスに未練残してるだろ?そういうの良くないって。そりゃ、高校みたいな熱血クラブには出来ないかもしれないけどさ。
それに、サークル作ったら定期的に皆で集まれるし、一石二鳥…。って、おい、翔?」
一人でまくし立てる晴馬を無視するように、翔は席を立った。
「俺はパス。やりたきゃ自分たちだけで勝手にやれ。」
「え、なんでだよ、僕は翔に高校でやり残したことを…。」
「余計なお世話だっ。」
明らかに不機嫌オーラをまとっている。
「一橋くん…。」
立ち上がった翔を、樹梨が心配そうに見つめた。
「悪い。…またな。」
*
「なんなんだよ、翔のヤツ!」
混雑する食堂を後にし、晴馬は樹梨、アキとともに喫茶室に場所を移していた。
「でもさ、サークル作りたいとは聞いたけど、まさかテニスをやろうとしてるとは思わなかったよ。」
アキが晴馬をなだめるように言う。
「どうしてさ? あんな話を聞いた後だもん。テニスだろ、普通。」
「う〜ん…。悪気がないのはわかるんだけどさぁ。ちょっと単刀直入すぎるって言うか…。」
「どういう意味。」
ふて腐れる晴馬に、どう言えばいいのかと人差し指で額を抑えるアキ。
そんな二人を見ていた樹梨が口を開いた。
「あのね、晴馬くん。一橋くんは確かにテニスを途中でやめちゃって、未練がないとは言えないと思うんだけど…。」
「うん?」
「でも、もし怪我のトラブルがなかったとしても、大学生になってまで続けたいと思ってたのかな。」
高校と違い大学となると、それなりに自分の将来を意識し始めるものだ。
自分たちもある程度の道を考えて、ここにいる。
「晴馬くんは、どうして理学部を選んだの。」
「僕…?う〜ん。好きだし得意分野だし…将来は企業の開発部門にでも就職できればな〜とか思って。かな。」
その言葉に樹梨は小さく頷いて続けた。
「一橋くんもそうなんじゃない? プロのテニスプレーヤーを目指してたわけじゃないと思う。」
「……。」
「引退する時期が唐突に来ちゃって、本人も戸惑ったと思うけど…。」
たとえ怪我で一線から退いたとしても、3年生の夏までやりきって終わらせる。
そんな選択肢もあったはず。
それを選ばなかったのは、彼のプライドゆえかもしれない。
「もし未練を残してたとしても、一橋くんは辞めることを選んだんだよ。」
未練を断ち切るために、それまでテニスに注いでいたエネルギーを勉強へと向けたのかもしれない。
答辞を読むくらいだから首席合格に近かったはずだ。
「それが彼の選んだ道なら、あとから出てきた私たちがちょっかい出して引っ掻き回すのは、迷惑以外の何物でもないし。」
「ちょっかい出して、引っ掻き回す…。」
歯に衣着せぬ物言いをするアキに、晴馬が引きつり笑いを浮かべる。
そんな彼らに苦笑しながら、樹梨は小さく呟いた。
「きっと、ものすごく葛藤したんだと思う。」
球技大会の日、樹梨が手当てした手首をぐっと握りしめていた翔。
あのときの彼の横顔が脳裏に浮かぶ。
「いっぱい悩んで考えて、選んだ道なんだよ。」
「いっぱい悩んで…。」
「うん。」
「でも。悩み抜いて諦めることを選んで…。すっきり吹っ切れたわけ?ほんとに?」
「え、それは…。」
珍しく食い下がる晴馬に樹梨とアキは顔を見合わせた。
「ほんとに吹っ切れてるなら、あんなに怒るのはおかしいじゃないか。」
反論の勢いを失った二人を前に、晴馬はさらに畳み掛けた。
「気持ちを押し込めて封印してるから、触れられたくなくて怒ったんだろ? そういうの良くないんじゃないかな。」
晴馬が珍しく正論を述べている。
「う…。」
「…ん〜。」
いつもの砕けた雰囲気とは違って、まっすぐな瞳でそう言う晴馬に、二人はすっかり言葉を失った。
「あははは! ほら、やっぱり僕、間違ってないじゃん!」
だがそんな二人に、晴馬はすぐにいつもの雰囲気に戻った。
「よしっ、めげてなるものか! 翔を捕まえて口説かなきゃ。」
「く、口説くって…。」
呆気にとられる二人を無視した晴馬は、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、そういうことで! 決まったらまた連絡するから待っててね!」
そう言うと彼はあっという間に走り去ってしまった。
二人の前を、なにやら空しい風が通り過ぎる。
「どうしよう、アキちゃん…。」
「どうしようって言われてもねぇ。とりあえず放っとけば? あいつの言うことも一理あるし。」
「そんな無責任な…。」
「ふ〜ん、そんなに気になるんだ?一橋くんのこと。」
自分のことのようにオタオタとしている樹梨を見て、アキが意味ありげに笑った。
「そんなんじゃ…!」
「ま、最初が最初だったからね。樹梨もあのときみたいにドーンと彼にぶつかってみたら?気になるんでしょ。」
アキは高2のテニス県大会のときのことを言ってるのだろう。
そのときのことを思い出して、樹梨は顔を赤らめた。
「あのときは、ほら…。」
彼が怪我をしていたから。
ぼそぼそと言い訳するように言う樹梨にアキが発破をかけるように元気よく言った。
「同じだよ、樹梨。がんばっ!」
( 2013. 7. 6 )