笹百合を揺らす風 2

考えてみれば、確かにその通りだ。
心の準備が出来ていないところへやって来られても大いに困るので、彼が現れないこの状態を普通に思っていたが。

「アシュヴィンには…他に想う人が…?」

ギュッと胸を絞られるような感覚に襲われる。
彼の姿が急に、手の届かない遠い存在のように思われた。

ふと気づくと、涙がぽろぽろと頬を伝っていた。

「あ、あれ…?なんで…。」

「我が君、嘆くことはありません。結婚は国のためのものと割り切って、貴女は貴女でご自由に生きれば良いのです。」

柊は千尋の手を取った。

「柊…? なにを…っ。」

「わたしでよろしければ、喜んでお相手させていただきますよ。」

無意識に後ずさる千尋を、柊がグイッと引き戻そうとする。

「離して…っ。」

思わず目を閉じたとき、その暗闇の中に、アシュヴィンの笑顔がいっぱいに広がった。

「アシュヴィン…っ。」

助けを求めるように思わずそう叫んで、千尋はハッとした。

彼を避けながらも、その笑顔が頭から離れなかったのは。
この涙の意味は。

「わ、わたし…。」

「我が君、私の心は貴女のもの…。」

そう言って、柊が千尋の手に口付けようとした。
その瞬間。

シュッと空を切り裂く音とともに、彼の目の前に剣が振り下ろされた。

「その手を離してもらおうか、柊。 我が妃に軽々しく触れるなど、中つ国時代からの側近といえど、見過ごすわけにはいかんっ。」

「ア、アシュヴィン…!?」

「これはこれは…。ようやくナイトのお出ましですか。」

柊は、突きつけられた剣に臆する様子も見せず、千尋の手をゆっくりと離した。

「千尋、来い。」

涙を浮かべたまま、呆然とした様子でこちらを見ている彼女を、アシュヴィンは腕の中に抱き寄せた。

「よく我慢しておられましたね、殿下。なかなかお出ましにならないので、殿下には本当に他に女性がおいでになるのかと勘ぐっていたところですよ。
それならそれで、我が君をこのまま部屋へ連れ込んでも良いかと思い始めておりましたが。」

本気で睨みつけているアシュヴィンに、柊は悪びれることなくそう言った。

「貴様、よくもぬけぬけと…。」

「まぁまぁ…。とりあえずその剣を収めて頂けませんか。殿下の大切な女性を惑わすつもりなど、毛頭ございませぬゆえ。」

「にわかには信じがたいが?」

今の今まで彼は、アシュヴィンには他に女がいると千尋に吹き込んで、彼女を自分のものにしようとしていたのだ。
これが千尋の側近でなかったら、即座に切り捨てているところだ。

「信じて下さいとしか申し上げられませんね。我が君は私にとって唯一無二のお方。その方が、お心を痛めておいでとあらば、悪者になってでもなんとかして差し上げたいと思ったまでのこと。」

「悪者…?」

その言葉に千尋が眉をひそめる。

「我が君、あなたはずっと、そんなふうに殿下の腕の中に包まれたいと思っておられたのでしょう?ああ…ご自分では意識されていなかったのかもしれませんが。」

「え…? あっ…。」

その言葉に改めて自分の状況を知った千尋は、慌ててアシュヴィンから身を離してうつむいた。
頬がどんどん熱を持ち始める。

そんな様子にアシュヴィンも、彼女が離れて所在なくなった腕をごまかすように、剣を収めてそっぽを向いた。

「では、私の役目はここまでということで。邪魔者は消えますゆえ、あとはお二人でどうぞご懇意に…。」

「待て、まだ話は…。」

アシュヴィンは慌てて彼を捕らえようとしたが、柊はあっという間に姿を消してしまった。




常世の国独特の乾いた風が、小さな庭を吹き抜ける。

柊を追いかけようとして不意に動きを止めたアシュヴィンの背を、千尋はそっと見つめた。
彼から逃げ回っていた身としては、彼がそれに気づいていないとしても、どうにも気まずい。

「あの、アシュヴィン。助けてくれて、ありがとう…。」

「いや。あいつには、最初からお前をどうにかしようなんて気はなかったんだろう。助けたというほど大仰なもんじゃない。」

それよりも。
アシュヴィンはそこで言葉を切って、改めて千尋に向き直った。

やっと捕まえたのだ。
柊などに構っている暇はない。

「おまえ。ずっと俺を避けていただろう。」

「え?ええと…。」

グイッと迫られて、千尋は思わず後退りした。

「訳をお聞かせ願いたいものだな、妃殿。」

聞かせろと言われても、自分でも説明がつかない。

「み、水を…。」

「…?」

「あの! 球根を植えたのっ。アシュヴィンにもらったやつ。お水あげないと…!」

そう言って千尋は踵を返そうとした。
だがその腕をあっけなく捕らえられる。

「おっと。やっと俺の前に姿を現してくれたんだ、そう簡単に逃すわけにはいかないな。」

目を丸くしている千尋にアシュヴィンは、にやっと笑って見せたが、彼女の頬に涙を跡を見つけてすぐに表情を変えた。

「そんなに…怖かったのか?」

一国の軍を預かる総大将を務めていたとはいえ、所詮は年若い姫。
戦場とはまた違う、身の危険を感じることもあるだろう。
男と一対一になったとき、か弱い身では抗うことも難しい。

「悪かった…。」

今、自分が彼女にしようとしたのも、柊と同じようなことだ。
アシュヴィンは視線を落としてそう言うと、千尋の手を離した。

「アシュヴィン? あの…違うの! 泣いたのは、怖かったからじゃなくて…っ。」

千尋は慌ててアシュヴィンを見つめなおした。

「アシュヴィンには、他に想う女の人がいるのかな…って。」

それを想像したとき、どうしようもなく哀しくなった。
アシュヴィンの横で笑っているのは、彼の笑顔に包まれているのは、自分でありたいと願った。

自分が泣いていることに気づかないほどに、千尋の心の中はアシュヴィンへの想いでいっぱいになっていた。

「アシュヴィンが見てるのは私じゃないのかもって…そう思ったら苦しくって…寂しくって…。だから嬉しかったの、来てくれて。俺の妃に触れるなって言ってくれて…。」

今、彼につかまれた腕と、さきほど柊から庇うように抱きしめられた肩を、千尋は自分で包み込むように抱え込んだ。

「避けてたのは…自分でも何故だかよくわからない。…ごめん。」

「……。」

千尋の告白をじっと聞いていたアシュヴィンは、しばらく黙ったままだった。

「あの…アシュヴィン?」

だが、その沈黙に不安になった千尋が恐る恐る声をかけた瞬間、アシュヴィンはいきなり千尋の手首をつかんで歩き始めた。

「え?え?ちょっと…っ。」

「いいから来い。」

そのまま千尋の部屋に入ったアシュヴィンは、後ろ手にドアを閉めた。
こじんまりとした部屋の中に、小綺麗なベッドが見える。

歩みを止めることなくそこへ向かったアシュヴィンは、有無を言わさず千尋をベッドに押し倒した。

「な…っっ。なにを…っ。」

千尋は反射的に抵抗しようとしたが、アシュヴィンは彼女を押さえつけたまま動きを止めた。

「あ…の…っ。」

そのまましばらく千尋を見つめていたアシュヴィンだったが、おもむろに大きく息をついた。

「自分でも柄にもないと思うが…。嫌われたんじゃなくて良かったと…ホッとした。安心しろ、いきなり襲ったりしない。」

そのまま千尋の横に体を投げ出す。

「おまえが無意識に俺を避けようとした理由は、なんとなく想像がつく。」

それは、あの夜。
アシュヴィンの部屋で眠っていた彼女を見つけたとき。
眠ったままアシュヴィンの名を呟いた彼女に、抑えきれなくなってそっと口づけた。

その直後、目を覚ました彼女にからかい半分に意味深なセリフを投げたのだが、そのせいで千尋は混乱してしまったのだろう。

「悪かったな、寝込みを襲うようなことをして。」

「え…じゃあ、あれは。やっぱり夢じゃなかった…ってこと?」

だが、緊張を解いたアシュヴィンの隣で、逆に千尋が硬直した。

「ん?とっくに気づいてると思っていたが。」

それが原因ではなかったのだろうか。

「き、気づいてなかったっていうか…。夢か現実かわからなくて困ってたっていうかっ。夢だったんなら、あんな夢見るなんて恥ずかしいって思ったしっ。」

千尋は、今更のようにパニックになっている。

「ほお…?自分の中にそういう願望があるかもしれないと思ったわけか。」

アシュヴィンは、フッと口の端に笑みを浮かべながら、半身を起こして千尋を見た。

「その願望、叶えてやろうか?」

彼女の両脇に手を付いて、逃げ道を塞ぐ。

「さっき、あいつが言っていただろう? なぜ夜伽に訪れないのかと。おまえの気持ちを無視したまま、ことを進めたくなかっただけだ。」

だが、千尋の想いを聞いた今、遠慮する理由はもう何もない。

「え、あの…っ。ちょ、ちょっと待って!」
造花(後)へ








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今回は柊にちょっとした悪役をやってもらいました。

アシュヴィンが身を潜めているとわかっていて
ここまでやってくれるのは彼くらいしか思い浮かびません。
あ、風早も充分渡り合えるでしょうが、彼の場合は保護者ポジションなので(笑)

さて、そんなこんなで千尋もやっと自分の気持ちを自覚したようです。
次回はアシュヴィンの気持ちにも寄り添ってみたいと思います。

( 2015. 2. 14 )
















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