笹百合を揺らす風 1
「リブ、千尋を見なかったか。」 茶の用意をしていたリブに、ふらりと現れたアシュヴィンが声をかけた。 「これは殿下。姫様でしたら、先ほどまでここでおしゃべりをされていましたが。」 彼女はほんの少し前まで、ここでリブ相手に取りとめのない話をしていたが、ふと何かに気づいたそぶりを見せて、慌てて出て行ったばかりだ。 このタイミングで、二人は出くわさなかったのだろうか。 リブは小首をかしげた。 「そうか。」 それを聞いたアシュヴィンはそのまま思案顔になった。 「あの、殿下? どうかなさいましたか?」 「いや…。ここしばらくあいつの顔を見ていなくてな。千尋の気配がすると思って近づくんだが、なぜか出会えない。」 「それはまた何故…。」 「こっちが聞きたい。」 アシュヴィンは憮然とした表情で壁に背を預けた。 先日アシュヴィンは、ふと思い立って中つ国の出雲へ赴き、ひとりで笹百合の園を訪れた。 季節柄、以前、千尋を誘ったときのような花園ではなかったが、土を掘り起こしてみると球根が出てきたので、それを彼女への土産にと持って帰ってきた。 そういえば彼女にそれを渡したときも、何やらそわそわしている様子で、落ち着きがなかったように思う。 かの地の笹百合だと告げると、一瞬驚いた表情を浮かべてアシュヴィンを見たが、すぐに視線を泳がせ、礼もそこそこに自室に引っ込んでしまった。 アシュヴィンにも、やらねばならない事案が山積していたので、そのときはさして気にもしなかったのだが。 よくよく考えてみれば、あの頃から様子がおかしい。 というよりも、彼女の姿を見ていない。 「気配は感じるんだがな。」 「喧嘩でもなさったのですか?」 リブは苦笑いを浮かべた。 さきほど千尋がここでおしゃべりをしていたときも、彼女の口からは一度もアシュヴィンの名が出なかった。 それは、彼に興味がないのではなく敢えて避けていたように思える。 「喧嘩もなにも、千尋がこの宮へ来てからまだ一度もまともに接してないぞ。」 千尋と婚姻関係を結び常世の国に帰って来たものの、アシュヴィンの身辺がバタつき、千尋とはすれ違う日々が続いていた。 ようやく少しばかり余裕が出来たので、ずっと気になっていた彼女のことに時間を割こうと思ったのだが。 「殿下は少し変わられましたね。」 何事にも自信満々だった皇子が今は、厨房の壁にもたれて腕を組み、ため息をついている。 たったひとりの女性のことで。 「どこがだ。」 アシュヴィンがムッとしながら見たが、リブはクスッと笑って受け流した。 「ま、とりあえず一服、いかがです?」 「おい風早、あの二人はどうなっているんだ。」 布都彦や那岐たちと談笑していた風早の元へ、足早にやって来た忍人が苛立ちを滲ませた様子で言った。 「どう、とは?」 「こちらの陣営も整ってきただろう。いつまでこうしてのんびり構えているつもりだ。」 「ああ、そうだねぇ。」 そっちの話か、と風早は密かに苦笑いを浮かべた。 「さきほどアシュヴィンに今後の計画を問うてみたが、心ここにあらずという様子。あれは俺たちが恐れてきた黒雷か?あんなもの、ただの腑抜けだぞ。姫は姫で、曖昧な笑みを浮かべるばかりで全く話にならん!」 「そうか…。う〜ん、困ったもんだねぇ。すれ違ってばかりで。」 腑抜けだとか、話にならんとか、臣下にここまで好き放題言われている二人も気の毒だが。 何気なく見上げた空は晴れ渡っている。 だが黒い太陽の影響なのか、大地も空気もパサパサと乾燥したような、潤いのなさを感じさせる。 「潤いが欲しいねぇ、あの二人の間にも。」 「潤い…?」 なぜか遠い目で空を眺めている風早に、忍人は眉をひそめた。 「たかが政略結婚だろ? 千尋も適当にやっときゃいいのにさ。」 そんな彼らに、那岐が受け流すように言った。 「確かにこの結婚は政治的なものだったけど。あの二人は憎からず想い合ってるよ。結婚という形が先行してしまったから、お互い、どう接していいか戸惑ってるんじゃないかな。」 「確かに黒雷らしくありませんね。」 そこへふらりと柊が現れた。 「今までの彼なら、手に入れたいと思ったものは力づくで奪ってきたはず。」 「あの…力づくでとは、この場合どういう…?」 布都彦が控えめに口を挟む。二人はもう成婚しているのだ、今更何を奪う必要があるのか。 そんな彼に那岐が額を押さえた。 「おまえさ、そういう天然ぶった質問するのやめなよ。」 「わからないから聞いているのだ。那岐は理解しているのか?」 「そ、そりゃまぁ…。男が女を力づくで、なんて…。やることはひとつだし…。」 あくまでも直球な質問にさすがの那岐も顔を赤らめた。 「千尋の気持ちも考えずに力づくで、ですか。そんなことしたら、いくらアシュヴィンでも俺が許しませんよ?」 「でもさ、いちおう夫婦なんだし。風早に許さないって言われる筋合いはないんじゃ…。」 「何か言いましたか、那岐。」 風早がにこやかにそう受け答えたが、その笑顔が妙にコワイ。 「い、いや、別に。」 あのアシュヴィンがなんだか気の毒に思えてくる。 だが、風早とは伊達に長年付き合ってはいない。那岐は何も言わずに肩をすくめてみせた。 「先ほどから何の話をしている。俺は先手必勝のこの好機を逃すべきではないと…!」 皆の話が違う方向へ流れているのをみて、忍人が苛立ちを見せたが、それを柊が制した。 「はいはい、あなたの言いたいことはわかりますよ。そうですね、ではここは我が君のため、私が一肌脱ぐと致しましょうか。」 柊は何を思ったか、宮の中に広がる庭に目をやってクスッと笑った。 「姫のために…人肌、脱ぐ…??」 「布都彦、いくら天然でも、そういう冗談を言うのはやめましょうね? 柊もね?」 風早がコワイ笑みのまま、そう言う。 「ははは…。わたしはそんな命知らずではありませんよ。」 きょとんと首をかしげる布都彦の横で、さすがに柊の方は引きつり笑いを浮かべた。 「はぁぁぁぁ…。わたし、何してるんだろ…。」 千尋は自室のベッドに寝転がって、笹百合の造花を手に取って眺めていた。 以前、アシュヴィンのために作った造花の中の一輪だ。 この花を見た彼は、それからまたしばらく宮を留守にしたが、次に戻ってきたときには球根を手にしていた。 聞けば、あの出雲の里の奥にあった笹百合の園へ行ってきたという。 『俺の部屋を華やかにしてくれた礼だ。この球根が花開く頃には全てが片付いているといいな。』 そのときはまた二人であの園を訪ねよう、彼は優しい笑みを浮かべてそう言ってくれた。 その笑顔に吸い込まれそうになったが、ふと、あの晩見た夢と目覚めたとき目の前にいた彼と、そしてその意味深なセリフが甦って、思わず目を逸らせてしまった。 『あ、ありがとう…っ。』 球根を渡してくれたとき彼の手が触れ、その瞬間、千尋は弾かれたように踵を返して走っていた。 あれから、どうしてもアシュヴィンの顔を見ることが出来ない。 彼が近づいてくる気配を感じると、無意識に逃げ出してしまう。 こんなことではいけない。 軍のためにも。夫婦としても。 わかってはいるのだけど。 「この球根、植えに行こうかな。」 この部屋の外に小さな花壇があったように思う。 そこならアシュヴィンと鉢合わせする心配もないだろう。 自分でも理解出来ない胸の奥の疼きを押さえながら、千尋は身を起こした。 ザクザクと土を掘る音だけが響く。 何も考えずに一心に作業していると、心が落ち着いてくる。 ちょうどいい具合の穴が掘れたところで、千尋は球根を取り出した。 「……。」 だが、それを見た瞬間にまた胸の奥がギュッと捕まれるような感覚に包まれる。 アシュヴィンの屈託のない笑顔が鮮やかに甦る。 「つ、土、かぶせなきゃ。」 彼の笑顔に浸っていたいという思いを抱えながらも、胸の疼きを振り払いたいという気持ちに押された千尋は、急いで土を戻した。 そのとき、不意に目の前の地面を人影が覆った。 「え。」 (まさか、アシュヴィン…!?) 一心に土いじりをしていたせいか、人の気配に気づかなかった。 今、いきなり目の前に立たれても、どう対応したらいいかわからない。 急速に胸の鼓動が早くなる。 「我が君にはガーデニングのご趣味がおありでしたか。」 だが聞こえてきた声は、アシュヴィンのものではなかった。 「…柊?」 ホッとしたような、がっかりしたような、妙な気持ちで千尋は声の主を見上げた。 ガーデニングなんて言葉、どこで仕入れてきたのだろうと、どうでもいいことを思いながら千尋は小さく息をついた。 「おやおや、待ち人にあらず、といったところですか。わかってはいても、そのようなお顔を見せられるとさすがに少々傷つきますね。」 「な、なんのこと。」 心の中を見透かされているようで、千尋は慌てて花壇に視線を戻した。 「アシュヴィン殿下は相変わらずお忙しいご様子。しかしながら、ご自分の妃となられた方をこのような状態で放っておくとは、いくら殿下でも如何かと思いますね。」 「……。」 確かに当初はそんな状態だったが、今は、千尋自身が敢えて避けているのだ。 だが、なぜそんなことをしているのか自分でもよくわからない。 「所詮は政略結婚、致し方ないのかもしれませんが。わたしには我が君がお可哀想に思えて仕方がありません。」 柊は大袈裟にため息をついて見せた。 「別に可哀想なんて…。」 そんなふうに憐れみの目で見られるのも、なんだか癇に障る。 千尋は花壇の土をペタペタと叩いた。 「いいえ、お可哀想です。殿方はいくらでも他に女性を作ることが出来ますが、奥方様の方はそうはいきますまい。」 柊が横に膝をついて、千尋を覗き込んだ。 「夫が自分を顧みず、他の女性と懇意にしているなど、この上ない屈辱。しかしながら、国の命運を背負ってのご結婚ではおいそれと別れることも叶わず…。本当においたわしい。」 「ちょっと待ってよ、柊。 勝手に話を進めないで。」 千尋は思わず立ち上がった。 同時に微かに空気が揺れた。 柊はその僅かな気配に一瞬目を細めたが、すぐに何事もなかったように千尋に視線を戻した。 「おや、わたしの勝手な想像だと…? しかしながら、殿下にその気がおありなら、妃の部屋へ夜伽に訪れるなど造作もないこと。ここ数日は、この宮に落ち着いておられるご様子ですし。…殿下はなぜ貴女の元を訪れにならないのです?」 「そ…れは…。」 |
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