野分の風 5
「おい。あいつ本当に検非違使庁の長官なのか? さっきの威厳は皆無だぞ。」 捕縛された男が勝真に怪訝な目を向けた。 この一場面で、別当だと名乗った彼は神子に怒鳴られ陰陽師には無視され、更には素性不明の男にいいようにあしらわれた挙句に逃げられた。 「あ〜、まぁあれだ。仕事ができるのと私生活は別…というか…。」 一緒に成り行きを見守っていた勝真も、どうフォローしてよいかわからず、引きつり笑いを浮かべる。 「おい、幸鷹。取り込んでるとこ悪いが、俺はこいつを役所まで引っ立てて行くからな。もう一頭、馬が必要だからおまえが乗ってきたやつを…。」 勝真がそう話しかけたが、幸鷹は彼の前をつかつかと横切り、馬の手綱を取るとサッと飛び乗った。 「…って、おいっ?」 「勝真殿、あとは任せます。」 そう言うと勢いよく馬の腹を蹴る。 「ちょっと待て、おい幸鷹…っ。」 勝真の制止も空しく、幸鷹はあっという間に走り去って行った。 「こいつ、どうするんだよ…。」 途方に暮れながら男を見ると、彼は後ろ手に縛られたまま器用に肩をすくめた。 「無罪放免にしてくれてもいいぜ?」 「馬鹿言うな。仮にも検非違使別当殿の命令だぞ。」 男だけ歩かせてもいいが、かなり距離がある。 《相乗り》 それしか選択肢がない。ものすごく気乗りしないが。 「なんか俺だけ貧乏くじ引いてないか?」 いや、京職という職に就いている以上、当然の職務なのだが。 生暖かく吹き抜けていく風にふと空を見上げると、雨の前なのか急速に灰色の雲がかかりつつあった。 その雲もどんどん流れていく。 「ひと雨…いや、嵐が来そうだな。仕方ない、観念してさっさと連れてくか。」 少し馬を走らせると、すぐ彼らに追いついた。 気づかわし気な様子の泉水に、花梨が笑顔を返している。 泰継は淡々を話しているようだが、さりげなく彼女に寄り添っているように見えた。 「……っ。」 数刻前に朱雀門で彼らを見た時と同じ、じりっと焦げたような痛みが走る。 あの時と違って、今はなんとなくその正体がわかる。 「泉水殿、泰継殿、道を開けてくださいっ。」 幸鷹は、馬の速度を落とさないまま叫んだ。 「……?」 何事かと振り返った彼らが、一様に驚きの表情を浮かべた。 「な…っ。」 慌てて道を開ける彼らの間をまっすぐに進み、すり抜けざまに花梨を抱き上げる。 「きゃあぁぁぁっ。」 突然の出来事に花梨はパニックになった。 「いやっ、降ろしてっっ。」 馬の上でじたばたと抵抗する花梨を抱えなおす。 「神子殿、落ち着いてくださいっ。大丈夫ですからっ。」 その声に花梨は驚いて顔を巡らせた。 「ゆ、幸鷹さん…っ?」 「はい、人攫いではありませんからご安心を。」 「な、なんで…っ。」 相手が幸鷹なので盗賊の類ではないと安心したが、やっていることは人攫いと変わらない。 「あなたが、私の手をすり抜けて遠いところへ行ってしまいそうだったので。」 「遠いところって…。紫姫のお屋敷に帰ろうとしてただけですよっ?」 「そうですか。」 軽くあしらうような、幸鷹らしからぬ返答に花梨は恐る恐る彼を見上げた。 「あの…どこへ?」 「さぁ、どうしましょう。」 そう言うわりに、馬は先ほどと変わらず全力に近いスピードで駆けている。 「あっ、紫姫のお屋敷、通り過ぎちゃいましたけど…っ。」 「そうですね。」 幸鷹は花梨の言葉にきちんと返事はくれるが、全く返答になっていない。 身体は密着しているのに、その心はとても遠く感じる。 人攫い同様に連れ去られているこの状況はわけが分からないが、彼の気持ちが離れてしまったのは間違いないのだろう。 また胸がつかえて苦しくなってくる。 その時、俯きかけた花梨の頬にぽつんと大きな雫があたった。 見上げると、いつのまにか掻き曇った空から大粒の雨が降り始めていた。 生暖かい風が強さを増している。 「野分が近づいているようですね。」 同じように空を見上げた幸鷹は、先ほど花梨に掛けてやった上着を彼女の頭からずっぽり被せ、手綱を握りなおした。 「ここは…。」 「私の家に所縁のある寺です。正確には藤原一族の…ですが。」 ひっそりと山際に建てられたその寺は、手入れが行き届いているのか小綺麗に整っていた。 幸鷹は、その一角にある小さなお堂に花梨を連れ込むと、後ろ手にパタンと扉を閉めた。 「幸鷹さん、あの…。」 先ほどからいつもと様子が違っている彼に、花梨はじりっと距離を取った。 外は風雨が強くなっている。先ほど幸鷹は「野分」と言っていた。 確か、台風のことだ。 「そのように警戒しないでください。あなたにそんな目で見られると、少なからず落ち込みます。」 幸鷹は苦笑いを浮かべながら、部屋にあった燭台に灯をともした。 「神子殿、上着を返して頂けますか。」 「え…。あ、すみません。」 先ほど掛けてもらってから、ずっとそのままにしていた。 花梨は慌てて頭と肩から外したが、先ほど降り出した雨のせいですっかり濡れてしまっていた。 「あ…。」 ふと見ると、軽装になった幸鷹の衣と、更には髪もしっとりと濡れている。 花梨は急いで上着の雫を払って、幸鷹に差し出した。 「ごめんなさい、そのままでは冷えてしまいますね。早く着てください。」 「なにを言ってるんですか、それはこちらのセリフです。これはあなたに。」 それを受け取った幸鷹は、力強く衣を振って水気を落とすと再び花梨の肩に掛けた。以前と変わらないその優しさに胸が疼く。 「あの…そんなふうに気を遣わないでください。八葉は神子が京を巡るときに力を貸してくれればいいだけですし…。」 「……神子殿。わたしが紫姫の屋敷を無視して、あなたをこちらに連れてきた理由がわかりますか。」 やんわりと幸鷹を拒否する花梨に、幸鷹は穏やかに問うた。 花梨がわずかに首をかしげるのを見ながら続ける。 「あなたに直接問うためです。あなたの逃げ道を塞いで。」 「な、なにを…。」 幸鷹が発した不穏な言葉に、花梨は上着をかき寄せながら後ずさった。 「辻強盗を捕まえた後、おっしゃいましたね。.神子と八葉は京の街を救うための同志で、それ以上でも以下でもないと。」 「え、ええ…。」 それはここ数週間の幸鷹を見ていて、彼に対して出した結論でもある。 「今も私に対して、あなたは同じことを言った。……なぜですか?」 「なぜって…。」 幸鷹がまっすぐな眼差しで花梨を見ている。 その怖いくらいの真剣さに、もう一歩後ずさりする。 「それは…。」 だが辻強盗騒動の後と同じことを言う幸鷹に、再び腹立たしさも甦ってきた。 「だって…幸鷹さん、それはあなたが思ってることでしょ。 」 「え…?」 「わたしのこと、もうなんとも思ってないくせに…。」 胸がつかえて苦しさを増す。 発した言葉は、矢となって自分の心に突き刺さってくる。 「ううん、最初からなんとも思ってなかったんですよね。向こうの世界に一緒に帰りたかっただけで。」 そう言葉にした瞬間、涙が溢れた。 「ちょっと待ってください、私がいつあなたにそんなことを…。」 幸鷹が否定しようとしているが、涙も言葉も止まらなくなった。 「勝手に勘違いしてた自分が恥ずかしいんですっ。お願いだからもう構わないで…っ。」 あっという間に涙でぐちゃぐちゃになる。 「落ち着いてください、神子…花梨さん…っ。」 涙を隠そうとした手を、幸鷹が掴んだ。 「…い、や…っ、離してっ。」 感情のままに振りほどこうとするが、手首をがっちりと捕らえられて身動きできない。 気づくといつの間にか壁際へ追い詰められていた。 「やだってばっ。幸鷹さんなんか、大っきら…っ」 言いかけた言葉を、不意に柔らかな感触に奪われた。 「……っ。」 驚いて目を見開くと幸鷹がゆっくりと唇を離した。 「私は…大好きですよ。」 そう囁いてもう一度、今度はしっとりと唇が重なる。 その優しい感触と奥に秘められた熱が、あっという間に花梨の思考を奪っていく。 「…ん…っ……。」 足から力が抜け、崩れ落ちそうになったとき、幸鷹の腕がその身を支えた。 「…っと、大丈夫ですか?」 「幸鷹…さん…なん…で…。」 花梨が潤んだ目で幸鷹を見る。 「…っ…。」 その瞳に思わず息を飲んだ幸鷹は、さりげなく視線をそらした。 「普通に話しても、聞いてもらえそうになかったので。でも…謝りませんよ。」 幸鷹はいたずらっぽく言うと、彼女を床に座らせて上着を掛け直した。 壁を隔てた向こうでは、激しくなってきた雨と風が樹々を大きく揺らしている。 「あなたが私の心を疑って、あまつさえ、私があなたを利用しようとしてるとまで思っていたとは正直、相当ショックです。」 「違う…んですか?」 花梨がすがるように幸鷹を見上げた。 「当然です。…しかしながら、あなたをそんなふうに追い詰めたのは私なのでしょう。」 そんなつもりは露ほどもなかったが、翡翠を始め他の八葉たちの反応を思い返しても、そう考えざるを得ない。 「翡翠殿に言われました。乙女心に疎すぎると。」 悔しいが、彼の言った通りらしい。 苦笑いする幸鷹に、花梨がぼそぼそとつぶやくように言った。 「不安…だったんです。全然お顔を見せてくれないし…。やっと会えたと思っても、なんだか迷惑そうで…。」 「迷惑?」 「朱雀門でも、無視して行っちゃうし…。」 「私に気づいてたんですか?」 あの人混みの中で、彼女が自分を見つけ出していたことに少なからず驚く。 同時に、不謹慎ながら嬉しくも思う。 だがあの時、声もかけずに背を向けた自分に、花梨はどれほど傷ついたことだろう。 「はぁ…情けないな。」 幸鷹は花梨の傍らへ座り込んだ。 「幸鷹さん…?」 「花梨さん、あなたと距離を置こうと思ったのは本当です。」 「え…。」 途端に花梨が不安そうな表情を浮かべる。 「でもそれは、あなたしか見えなくなる自分を制御したかったからです。」 幸鷹は、背中を壁に預けて大きく息を吐いた。 「あなたを疎ましく思ったからではありません、断じて。」 そのまま瞳を閉じて、呟くように言う。 「疎ましいなんてとんでもない。逆なんですよ…あなたが愛おしくて、かわいくて…。だから…。」 |
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