野分の風 6
「ゆ、幸鷹さん、なにを…っ。」 彼らしからぬ甘い言葉に花梨は頬を染めた。 「だから…。」 幸鷹が表に全く出さなかったはずの自戒の心を、花梨はまっすぐに感じ取り、あんなに取り乱すほどに悩んでいた。 そのことが更に、彼女を想う気持ちを高めていく。 花梨と二人きり、野分に閉じ込められた狭く薄暗い部屋の中。 幸鷹は花梨の肩に手を滑らせた。 掛けていた上着を床へ落として、その身を引き寄せる。 「もし叶うなら、あなたを抱いてしまいたい…。」 「ゆ、幸鷹さん…なに言って…っ。」 とんでもないセリフに花梨の頬は、一気に熱を持った。 「そうですね…なにを言ってるんだろうな、私は…。神子殿を抱くなんて許される…わけ…。」 その時、花梨を抱き寄せていた幸鷹の身体が、ふっと重くなった。 かかる吐息も微妙に熱い。 「え…?」 花梨は慌てて幸鷹のうなじに手を差し入れた。 「幸鷹さん、熱があるんじゃないですか? いつからですかっ。」 「熱…? そういえば、今朝から少し身体が重いように感じてましたが…湿度が高いせいだとばかり…。」 本人も気づかない程度のわずかな不調が、軽装のまま雨に打たれたせいで急に悪化したのだろうか。 「大丈夫ですよ、少し疲れが溜まっていただけで…。ここで休んでいれば治ります…衣もそのうち乾くかと…。」 「乾くわけないじゃないですか、火もないのにっ。」 おまけに外は大荒れの台風だ。 「脱いでくださいっ。」 そう言うと花梨は、幸鷹の返事を待たずにその衣に手をかけた。 「………は?」 上がり始めた熱のせいか、頭がうまく回らない。 幸鷹が呆気に取られているうちに、花梨は幸鷹の胸元を開いて衣を肩から落とし、あっという間に単衣姿にしてしまった。 「少し待っててくださいね。」 今度は自分が着ている狩衣風の衣の留め具に手をかける。 「な…にを…っ。」 「大丈夫です、ちゃんとインナー着てますから。」 ふふっと笑みを浮かべつつ、花梨は手早く衣を脱ぐと、それを幸鷹の肩に掛けた。 優しいぬくもりがゆったりと伝わってくる。 そのぬくもりと花梨の香りに包まれて、幸鷹は久方ぶりに体の緊張が解けるのを感じた。 花梨を遠ざけようとしたことは、自分でも気づかぬうちに相当なストレスになっていたようだ。 「百害あって一利なし…か。自分も彼女も傷つけて。なにをやっていたんだろうな…。」 花梨は、先ほど幸鷹が掛けてやった上着も、さらに上から掛けようとしてくれていた。 その手をぐいっと引く。 「え…?」 全く予期していなかったのだろう、花梨は何の抵抗もせず、ころんと転がるように幸鷹の腕の中に収まった。 抗議の声を上げようとする花梨の唇を、人差し指で塞ぐ。 「そのような恰好では、あなたまで体調を崩しますよ……ああでも…。」 熱のある人間にくっついている方が良くないかもしれない。 同じ衣の中に引き込んだものの思案顔になった幸鷹に、花梨はその意図を読み取った。 「幸鷹さん…わたしも大好きです…。」 「……え?」 問い返そうとした幸鷹に、花梨の唇が重なった。 何が起こったのか理解したときにはもう、ぬくもりが離れていく。 「待って…。」 彼女の後頭部に手を伸ばして、再びその唇を引き寄せる。 「……っ……。」 彼女が息を飲むのが伝わってきたが、すぐに甘い吐息に変わっていく。 そんな反応に体の芯が熱を持つ。 「本当に、襲ってしまいますよ?」 耳元で吐息交じりにそう囁くと、花梨の背がぴくりと震えた。…だが。 「残念ながら限界…かな…。」 幸鷹の吐く息は、自分でもわかるほど熱を帯びつつあった。 「…幸鷹さん。」 花梨は彼の身を柔らかく抱きしめた。 熱のせいで理性のたがが緩んでいるのか、気だるげに目を閉じる幸鷹からは大人の色気が漂っている。 その横顔に、今頃になって胸がどきどきと音を立て始めた。 「もう…幸鷹さんのばか…。」 目を逸らせて小さく呟く。 「…そう…ですね…。」 幸鷹がフッと笑みを浮かべるのが伝わってきたが、やがて規則正しい息遣いに変わっていった。 「ほんとにここで合ってんのか?」 「ああ、紫姫が探り当てた寺に間違いない。」 野分も過ぎ去った次の日の早朝、ひっそりと佇む寺の境内に、声を潜めて話す人影が現れた。 「ずいぶん静かだな。賊に攫われたと聞いたが…。」 「まだ朝早いからそいつも爆睡してんだろ。ちょうどいいじゃねえか、寝込み襲ってやろうぜ。」 イサトがぶんっと錫杖を振り回す。 その横で頼忠も剣に手をかけた。 「……ん……?」 意識が浮き上がるようにふと目が覚めた。 鳥の声が聞こえている。 わずかに入ってくる光から、どうやら夜が明けたらしいとわかった。 「台風一過、か。」 胸元にかかる僅かな重みとやわらかい温もりに目を向けると、花梨が幸鷹に身を預け、幸せそうに眠っていた。 頬に彼女の柔らかな髪が触れる。 その髪に口づけようとしたそのとき。 「御用だ、盗賊野郎!」 「神子殿を返してもらおうっ。」 突然扉が蹴り破られたかと思うと、男たちが大声で踏み込んできた。 「…?」 「う…ん……なに…?」 目を覚ました花梨がぼんやりと顔を上げる。 その瞬間、顔を近づけていた幸鷹と、諮らずも唇がきれいに重なった。 「神妙にお縄につきやが…っ…れ?」 「……は?」 武器を振り上げた彼らの前で、チュッと音を立てて唇が離れる。 「ゆ、幸鷹さん…っ。」 「あ…今のはその…。決して寝込みを襲おうなどと思ったわけではありませんからね?」 大きな物音に何事かと驚いたが、それが自分たちを探しに来たイサトと頼忠だと知った幸鷹は、とりあえず花梨に意識を戻した。 「もぅ…恥ずかしいっ。」 花梨は幸鷹の腕の中で頬を染めている。 「そういえば昨夜もそんなことを言ってましたね。」 「あれとは意味が全然違いますっ。幸鷹さんのばかっ。」 ぷくっと頬を膨らませる仕草も可愛い。 「ばかと言われるのもなんだか慣れてきましたよ。」 くすっと笑いながら、額をコツンと合わせる。 「おい、頼忠、俺たちなにを見てるんだ…?」 「ゆ、ゆ、幸鷹殿…っ。」 全くの予想外な光景に、戦闘態勢のまま固まる男二人。 「ああ、こんなところに居たのだね。」 そこへ彼らの後ろから翡翠がひょいと姿を現した。 「おやおや、幸鷹殿。いくら神子殿が愛おしいからと言って、こんなに明るくなるまで、そのようなあられもない格好で女性の元に居るものではないよ。」 その声に花梨もやっと状況に気づいた。 「え、皆さんっ? いつからそこに…っ。」 自分もインナー姿だったことに気づいて、慌てて幸鷹の上着を引き寄せる。 「夜が明ける前に辞して、すぐに後朝の歌を届けるのが雅な男の所作というもの…なのだがねぇ。」 「なっ…、私はまだなにも…っっ。」 単衣姿だった幸鷹も、慌てて自分の衣を整えた。 「あられもない格好…。」 「き、後朝の歌…。」 一方、こちらの男二人はその単語に更に固まってしまった。 「ほら、君たちも穴の空くほど見ていないで、さっさと仕事をしたまえ。紫姫に言われて来たのだろう?」 ペンペンと扇で頭を叩かれて、我に返る二人。 「そ、そうだった…っ。事情はあとでゆっくりじっくりを聞かせてもらうからなっ。」 心なしか顔を赤くしたイサトが、それを振り払うように言う。 「お二人があのようなお姿になった経緯について聞くのか?それは事情ではなく情事というのでは…。」 「はぁ!?おまえも何わけのわかんないこと言ってんだよっ。」 頼忠のくそ真面目な問いに、イサトが更に顔を赤くする。 「…仕方ありませんね。花梨さん、帰りましょうか。」 こんな状況では、これ以上花梨とゆっくり過ごすことは出来そうにない。 「幸鷹さん、身体はもう大丈夫…?」 「まだ少し熱っぽいですが…あなたのおかげでずいぶん楽になりましたよ。」 だが、立ち上がりかけたときに少しふらついた。 布団も火もない状況で一晩過ごしたのだから、劇的に快方へ向かうはずもない。 花梨が慌てて支えようとしたが、反対側から誰かの手が伸びてきて幸鷹の腕をぐいっと引っ張った。 「幸鷹殿、彼女を押し倒すのは良いが、時と場所は選びたまえ。」 「そ…んなわけ、ないでしょうっ。」 どこまでも真面目に返してくる幸鷹に、翡翠はくすくすと笑った。 「本当に君はからかい甲斐のある男だねぇ。」 「神子様っ、よくぞご無事で…。え、幸鷹殿…?」 四条の屋敷に着くと、紫姫が花梨に抱きつかんばかりの勢いで飛び出してきたが、傍らにいる幸鷹を見て目を丸くした。 「紫姫、このたびはいろいろとご迷惑ご心配をおかけしてしまい、まことに…。」 「ほら、挨拶はいいからさっさと休ませてもらいたまえ。」 頼忠に肩を支えられた幸鷹が、口上を述べようとするが、それを翡翠が遮った。 「一体どうなさったのです?」 彼の尋常ではない様子に、紫姫は部屋を用意するよう侍女たちに指示を出す。 「戻ったか。」 そこへ泰継が姿を現した。 「泰継殿、昨日、神子様が連れ去られたとおっしゃいましたよね?これはどういう…。」 「言わなかったか? 幸鷹にさらわれたのだ。」 「え…ええっ?聞いてませんけどっ。」 「問題ないから放っておけ、と言っただろう。」 それは言った。確実に言った。 「そんな…っ。この一晩、わたくしがどんな思いで過ごしたか、おわかりですかっ?」 「紫姫、心配かけてごめんなさいっ。」 泣き出しそうな紫姫に、花梨が頭を下げる。 「神子様は良いのですっ、ご無事であればそれだけで…。」 紫は今度こそ花梨に抱きついて泣き笑いの表情を見せた。 「ですが…。」 花梨に抱きついたまま、顔だけ幸鷹に向ける。 「幸鷹殿。神子様をさらったあげく、鄙びた寺の一角に一晩も閉じ込めるとは、一体どういうご了見ですかっ。」 幸鷹が倒れそうな状態であることは、全く意に介していないらしい。 「それは…その…。」 「まぁまぁ、紫姫。彼にもやんごとなき事情があったのだよ。ほら、よく言うじゃないか、雨降って地固ま…。」 「翡翠殿は黙っててくださいっ。」 「………はい。」 まだ幼さの残る姫に一喝されて、翡翠と一緒に全員がぴたりと動きを止めた。 「幸鷹殿、西の離れにお部屋をご用意しますので、とりあえずそちらへどうぞ。お話はのちほど改めてお伺い致しますわ。」 「あ、いえ…。このまま自分の屋敷へ戻ります。紫姫にお詫びを申し上げに参っただけですから…。」 不穏な空気を感じて、さりげなく辞退する…が。 「いえ、わたくしの目の届くところに居て頂きます。神子様にこれ以上おかしなことをなさらないように。」 「おかしなことって…。」 「幸鷹殿、ここはおとなしく言うことを聞いておいた方が身のためだと思うよ。」 翡翠が、頬をひきつらせる幸鷹に耳打ちをする。 そこへ泰継がふと思い出したようにつぶやいた。 「そういえば、西の離れというのは確か母屋と隔離された場所ではなかったか。いわば監禁するのにもってこいの……。」 「泰継殿。そのお口は余計なことはお話されるようですね、大事なことはあっさり省いてしまわれるのに。」 紫姫がにっこり笑っているが、その笑みはとてつもなくこわい。 「か、監禁…?」 「ご心配には及びませんわ、幸鷹殿。ゆっくり養生して頂きたいだけですから。」 「翡翠殿、このまま私を連れ去ってください…っ。」 そのような環境に置かれたら、恐らくしばらくは花梨に会わせてもらえない。 幸鷹は小声で翡翠に訴えた。だが。 「何を馬鹿なことを。男をさらって逃げる趣味などないよ。では紫姫、私はこれで失礼するね。」 「私も神子が戻るのを見届けたかっただけだからな、これにて失礼する。」 翡翠に続いて泰継もそそくさと出て行く。 「あっ。お、俺もっ。花梨も保護できたことだしっ。さすがに今日はもう出掛けないよな?な? じゃ、また明日なっ。」 花梨が頷くのを見て、それまで成り行きを見守っていたイサトもあっという間に姿を消してしまった。 「では…頼忠殿、幸鷹殿を西の離れへお連れ願えますか。」 紫姫が穏やかに指示を出している。 「ちょ、ちょっと待ってください。私ならほんとにもう大丈夫ですから…っ。」 幸鷹が無駄な抵抗を試みるが、紫姫に逆らっては我が身も危ないと見た頼忠によって、ずるずると連れ去られていく。 「幸鷹さん、ゆっくり休んで早く良くなってくださいね。同じお屋敷の中に居てくれて嬉しいです。また後でお見舞いに行きますから。」 「花梨さん、今の話、聞いてなかったんですか…っ。」 だが、紫姫の言うことをそのまま信じているのか、花梨はにっこりと笑って手を振った。 「神子様を泣かせた罰です。今度はご自分が存分に味わわれたら良いのですわ。」 「何か言った?紫姫。」 「いいえ、なんでも…。それより神子様、なんだか表情が明るくなられたようで、紫も嬉しいです。今日はゆっくりお休みになってくださいませ。後ほど、菓子など持ってお伺いしますわ。」 満面の笑みを浮かべる紫姫に、花梨も嬉しそうに笑っている。 「幸鷹殿、仔細は存じませぬが、しばらくおとなしくしておいた方がよろしいかと。」 幸鷹を引っ張りながら、頼忠が悟すように言った。 「そんな殺生な…。」 いろいろな事がやっと吹っ切れて、花梨との関係を今まで以上に前向きに考え始めたところなのに、こんなところに思わぬ強敵がいたとは。 外は台風一過の秋晴れ。 だがこちらは、まだまだ波乱が起こりそうな日々の始まりだった。 〜Fin〜 |
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