野分の風 2
「心ここにあらず、といった感じだねぇ。」 聞き覚えのある、というよりは、あまり聞きたくもない声に、図書寮で書物を手にしていた幸鷹は、声のした方へその主を求めて振り返った。 そこには、予想通りの男が扉に背を預け、微かに笑みを湛えながら横目でこちらを見ていた。 外から入ってくる光が、彼の真っ直ぐでくせのない長い髪を通り抜け、その輪郭を浮かび上がらせている。 「あなたですか。何のことでしょう。」 幸鷹は書物に視線を戻しながら、ぶっきらぼうに応えた。 話したくないと態度に出したつもりだったが、そんな幸鷹の様子に翡翠はくすりと笑った。 幸鷹の問いには答えずに、面白そうにこちらを見ている。 「何をしているのかね?」 「……見ればわかるでしょう、調べ物をしているのですよ。」 あっさりと話題を変える翡翠の態度に一瞬むっとしたが、それを表に出したところでからかいの対象にされるだけだと考え、思い留まる。 「調べ物ねえ。だが君が手にしている書物は、女房方が夢中になっているという物語じゃないのかね?」 「え…。あっ、こ、これはその…。」 幸鷹は手にしていた書物を慌てて閉じた。 「確か、何冊かに分かれた続き物だったように思うが。おや、それは横に積み上げてあるのだね?別当という役職は、そのようなものまで仕事の資料にされるのだね、初めて知ったよ。」 組んでいた腕を解いた翡翠は、片手で口を抑えながらおかしそうにくっくっと笑った。 「な、なぜ、こんなものを…。」 確か、最近起こった辻強盗に関して、過去にも似た例があったのではないかと思い、調べに来た筈なのだが。 幸鷹は、辺りに積み上げていた書物をそそくさと片付けた。 「神子殿のことを考えていたのではないのかね?或いは、色恋沙汰を取り上げた書物を読んで、参考にしようとでも思われたかな?」 そんな幸鷹の様子を、翡翠はさも楽しそうに眺めている。 「な、なにを…!」 書棚へ戻そうとしていた書物が、幸鷹の動揺をもろに受け、ばらばらと音をたてながら床に散らばった。 「神子殿にお見せしたらきっと喜ばれるだろうと…。そう考えただけです!」 そうだ、ここへ来た時にふとそのようなことが心に浮かんだのを、覚えている。 慌てて拾い集めながら、幸鷹は今朝の花梨の様子を思い出していた。 しばらく逢えないと言った時の彼女の落胆した様子が、胸の奥を刺激してチリッと音をたてた。 書物に伸ばしていた手が、一瞬止まる。 (許してください、神子殿…。) 「ほう。しばらく姿を見せないつもりのようだが、その書物、どうやって神子殿に見せようと思っているのかな。なんなら、わたしが預かっても良いが?神子殿はまだこちらの文字を読むのが苦手のようだから、読み聞かせてあげても良いね、肩でも抱きながら…。」 「……!結構です!」 翡翠はくすくすと笑ってはいるが、どこまでが冗談でどこからが本気なのか、わかったものではない。 「おや、つまらないねぇ。」 どこか人を食った態度に気持ちがいらつくのを感じたが、幸鷹は努めて冷静に対した。 「翡翠殿、何故わたしが神子殿の前に姿を現すつもりがない、などと言えるのですか。」 幸鷹が花梨の前に姿を現していないことを、知っているのだろうか。 それ以前に、自分たちが想いを寄せ合っているということにも、気づいているのか。 「どこまでも不器用な男だね、君は。」 「どういう意味ですか。」 まっすぐには答えを返してこない翡翠に、幸鷹は、次第に腹立たしささえ感じてきた。 そんな彼の様子に、視線を外してふっと小さく笑った翡翠だったが、次に幸鷹を見たときにはもう、その笑みはすっかり消えていた。 「幸鷹殿、ひとつだけ言っておこう。課せられた役目を全うする為に己の感情を封じ込めるのは、ある程度必要なことだが。逆効果になることもあるのだよ。その辺りの見極めはしっかりとすることだね。」 「なにが言いたいのですか。」 「さてね。後は自分で考えたまえ。」 元の表情に戻り、ふっと笑みを浮かべた翡翠は、髪を一筋なびかせながら出て行った。 「逆効果…。」 彼が姿を消した扉の向こうで、風にあおられたのか木々の葉が大きくざわめいた。 「幸鷹!」 宴の松原を南へ向かって歩いていると、不意に呼び止められた。 声のした方へ振り向くと、勝真が駆けてくるのが見えた。 「ああ、どうも…。」 「どうしたんだ、ぼーっと歩いて。」 勝真は、幸鷹の前で歩を止めると、少し首をかしげた。 「どうもしませんが…そのように見えましたか?」 「ああ。心ここにあらず、って感じだったぞ。」 「そうですか、気をつけます。」 確かに、今朝からどういうわけか調子がつかめない。 そんな自分に苛立ちさえ覚える。 幸鷹は、勝真に短く答えると、また歩を踏み出した。 今度はしっかりと前を向いて歩く。 その幸鷹の様子に勝真は眉をひそめたが、すぐに彼に追いつくと並んで歩き始めた。 「ところで辻強盗の件なんだが、何かわかったか?」 「…あ…。」 そうだった、それを調べようと思っていたのだ。 それなのに、今、手にしているのは、どういうわけか絵巻物。 幸鷹は、それをそそくさと懐に隠した。 「白昼堂々、人気のない瞬間を狙って、年若い女性ばかり襲ってるようだな。」 「若い女性を?」 幸鷹は思わず勝真を振り返った。 昼間に出ているという情報しか自分のところには届いていない。 「なんだ、知らないのか? 意外とお偉いさんの方が情報不足なんだな。」 勝真が苦笑いしているが、彼のように庶民の近くにいる方がいろいろな話が入ってくるのだろう。 「なんでも、どこかの屋敷に仕えている女房のような、身なりの良い女性ばかりが狙われているらしい。何件か似た事件が起こっているようだが、おそらく同一犯だと思うぞ。」 幸鷹が過去の記録を探して調べようとしていたことを、勝真は実地で調べてきたらしい。 「だが腑に落ちないのは、脅されるだけで何も取られていないらしいんだ。」 「何も?」 問い返すばかりの幸鷹に、勝真は困ったような顔をして見せた。 「別当殿、そんなんで大丈夫なのか?」 「すみません…。そうですか、情報提供、感謝します。」 「たまには京職も役に立つだろ?」 「ええ、頼りにしてますよ。」 建前ではなく、本当にそう思う。彼らのような身分の者を、もっと積極的に組織の中へ取り込むべきなのだろう。 苦笑いしている勝真に、幸鷹は笑顔を作って見せた。 だが勝真は逆に、そんな幸鷹を少し心配気な表情で見た。 「ひとりで無理するなよ、幸鷹。あ、いろんな意味で、だからな。」 「いろんな…?」 幸鷹がその発言の真意を計ろうとしたとき、にわかに前方がざわついた。悲鳴にも似た怒号が聞こえてくる。 朱雀門の辺りだろうか。 「何だ?」 幸鷹と勝真は、顔を見合わせると、同時に走り出した。 「神子、下がれ!」 泰継が花梨の前に立ちふさがった。 朱雀門を入ったところで、突然怨霊に襲われ、態勢が崩れた。 「大丈夫ですか?」 「は、はい…。」 泉水が花梨を助け起こす。 「神子、何があったかは存じませんが、お心をしっかり持って。酷かもしれませんが我々には貴女が必要なのですから。」 泉水らしい気遣いで、励ましてくれている。 そうだ、今は神子としての務めに集中しなければ。 「大丈夫です、ありがとう。」 花梨は気を取り直して立ち上がり、周りを見渡した。 大内裏で働く公達や女房たちだろうか、居合わせた数人の者が、腰を抜かしたり頭を抱えたりして震えている。 「泰継さん、泉水さん、玄武の術を…!一気にやってしまいましょう。」 凛々しく指示を出す彼女に、二人も顔をほころばせた。 「それでこそ神子だ。泉水、用意はいいか?」 「はいっ。」 二人が気を集中すべく動きを止めて、印を結ぶ。 次の瞬間、玄武の協力技がほとばしる光となって炸裂した。 その攻撃に、怨霊が苦しげな雄たけびを上げる。 「封印しますっ。」 間髪いれず花梨が宣言すると、辺りはまばゆい光に包まれ、やがて怨霊は姿を消した。 辺りを覆っていた緊張が、安堵のどよめきに変わった。 震えていた人々が、感嘆の声を上げつつ花梨たちを取り囲もうとしている。 「さすがだな。」 一歩離れたところでそれを見ていた勝真が、感心したように言った。 「そう…ですね。」 その言葉に幸鷹は、小さく頷いた。 彼女は、どんな状況に置かれても、立派にその役目を果たすのだろう。 神子を守る八葉して、そうあって欲しいと願っている…けれど。 「あなたは、私などいなくとも立派にやり遂げるのでしょうね。」 そう小さく口にしたとき、不意に胸の奥がじんと痛んだ。 「神子…花梨殿…。」 現代の記憶をすべて取り戻した日以来、彼女にどんどん惹かれていく自分がいた。 だがその想いに身を任せてしまっては、検非違使別当の職務も八葉としての役割さえも投げ出してしまいたくなる。 そんな自分が怖くて、彼女から少し距離をおこうと思ったのに。 時が経つにつれ、心は置き去りにされたように軋み始めていた。 「参ったな…自分で始めたことなのに…。」 幸鷹は、泰継と泉水の間で嬉しそうに笑っている花梨をそれ以上見ることが出来ず、目をそらせた。 「ちょうど居合わせたことだし、激励してやるか。」 彼らの方へ踏み出した勝真の横で、幸鷹はそっと踵を返した。 「幸鷹さん…?」 怨霊を封印した札を手にして、泰継たちと健闘を称えあっていた花梨は、遠巻きにしていた公達の中に幸鷹の姿を見つけた。 胸がトクンと音を立てる。 だが花梨が一歩踏み出そうとしたとき。 幸鷹は不意に目をそらせ、ゆっくりと背を向けた。 そのまま振り向きもせず、歩き去っていく。 「…え…。」 花梨の伸ばしかけた手が、宙で止まった。 指の先が自分のものではないかのように冷たく感じられる。 「神子…?」 彼女の視線を追って幸鷹に気づいた二人が顔を曇らせた。 「あれは幸鷹殿…?」 「泰継さん、泉水さん…ごめんなさい、今日はもう帰ります…っ。」 花梨はやっとのことでそれだけ言うと、きびすを返し、人々の間を抜けて走り出した。 「神子?」 「お待ちくださいっ。」 二人は慌てて彼女の後を追おうとしたが、取り巻いている人々に進路を阻まれる。 「すみません、通してくださいっ。」 「どかぬか!」 「おい、どうしたんだ?」 血相を変えて叫んでいる二人に、近づいてきた勝真が何事かと割って入った。 「ああ、勝真殿、神子が…。神子を追ってください!おひとりで大内裏の外へ…っ。」 「なんだって!?」 勝真は驚いて朱雀門の外へ目をやったが、もう外へ出てしまったのか、花梨の姿を捉えることはできなかった。 慌てて辺りを見回すと、背を向けて歩いていくその後姿が視界に入った。 「ちょっと待て、幸鷹!」 |
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