野分の風 1

晩秋のこの時期にしては、珍しく気温の高い朝。
部屋の奥で紫姫がくるのを待っていては、うだってしまいそうになるので、花梨は、庭へ続く階まで出て中庭を眺めていた。
すっかり色づいた木々と、一年中、葉を絶やすことのない常緑樹が入り混じって、賑やかな色のリズムを作っている。

少し先にある池は、明るさを増した空の青と、そこに架かる小さな橋を映していた。
綺麗に整えられた庭の絶妙な色のバランスは、とてもすばらしい。

「はぁ…。」

花梨はそんな景色を眺めながら、ため息をひとつついた。

台風でも近づいているのだろうか、気温も湿度もいつもよりずいぶん高いように思う。
そのせいか体もだるく、なんとなく力が入らない。

今朝もずいぶん早くに目が覚めてしまった。

だが安眠が得られないのは、この気候のせいばかりではない。
その理由に気づいてはいたが、花梨は極力考えないようにしていた。

「あ…。」

そのとき。
その原因を作っている人物の姿が、不意に瞳の中に飛び込んできた。

小さな池を挟んだ向こう側にある母屋へと続く廊下を歩いている。
しばらく来れないと聞いていたのに、急に予定が変わったのだろうか。

花梨は、ドクンと音をたてた胸を手で押さえ込みながら、慌てて立ち上がった。
数段の階段を急いで上り、廊下へ出て、彼がいる場所へと小走りに向かう。
だが庭を挟んだ向こう側なのでなかなか辿り着けない。

姿を見失わないようにと余所見をしながら小走りになっていると、ところどころで出会う女房たちが、驚いて道を開けた。

まず紫姫のところへ挨拶に行こうとしているのだろうか、母屋へ向かって歩く姿は、まだこちらに気づいていない。

いくつかの角を曲がり、まっすぐ伸びる廊下に出たところで、やっとその後姿を捉えることが出来た。
だが彼はずっと先を歩いていたので、その先の角の向こうへまた姿を消しそうになる。

「幸鷹さん!」

花梨は慌てて、その後姿へ声をかけた。

「……神子殿?」

何気なく振り返った幸鷹の表情が、花梨の姿を捉えて驚きに変わった。


幸鷹は検非違使別当の仕事が忙しいとの理由で、ここしばらく供に付いてくれない日が続いていた。
連絡はこまめにくれていたが、それでも逢えない日が続くと、寂しいとだけ感じていたものが次第に小さな不安へと変わり始めていた。

昨日も無沙汰を詫びる文が届いたので、気落ちしたまま床に入ったのだが。

予告なく現れて、驚かせようとでも思ったのだろうか。
久しぶりに見た彼の姿に、走ってきた勢いも手伝って花梨の胸はいつになく高鳴っていた。


必死になって追いついてきた花梨を見た幸鷹は、肩で息をしている彼女に、ふっと表情を和らげた。

「神子殿。ご無沙汰しております。お会いできて…嬉しいです。」

「……?」

いつもと変わらない丁寧な言い回しではあったが、花梨はふと違和感を覚えた。
だがそれも、久しぶりに会えた嬉しさにかき消された。

「幸鷹さん、おはようございます。今日は…。」

一緒に出かけられますか?
だがそう続けようとした花梨を、幸鷹は彼らしからぬ所作で遮った。

「ああ、神子殿…。申し訳ありませんが、今日はどうしても外せない用がありまして…。昨日も文をお届けしたように、しばらくお供できそうにありません。せっかくお会いできたのに、すみません。」

そう言い終わると、少し目を伏せたままこちらをみようとしない。

「そう…なんですか。」

「こちらには、その旨お断りしておこうと思いまして、紫姫ご挨拶に参ったのですよ。」

明らかに気落ちした様子の花梨に、幸鷹は幾分明るめの調子でそう言ったが、その瞳はどことなくそわそわとしていて、落ち着きのない様子だった。

「あの、幸鷹さん…。」

わたしと出かけたくない理由がありますか?

幸鷹の様子に、漠然と感じていた思いがふと浮かんだが、花梨は慌てて打ち消した。

「あ、いえ…わかりました。今日は大内裏へ行こうと思っていたので、幸鷹さんがいてくれたら心強かったんですけど。他の方にお願いすることにしますね。」

気を取り直して、明るくそう言う。
だが幸鷹を直視できなかったせいで、彼が一瞬眉を曇らせたことには気づけなかった。



「神子、どうしたのだ。」

大内裏へと向かう大路の上で、供に付いてくれていた泰継が、珍しく彼のほうから声をかけてきた。

「あの…。このようなことをお伺いするのは、誠に差し出がましいことではございますが…。もしや、幸鷹殿と何かありましたか?」

泰継と反対側を歩いていた泉水が、それを受けて、遠慮がちに問うた。

「幸鷹?」

そういうことに疎い泰継は怪訝な顔をしたが、泉水は幸鷹と花梨の微妙な関係にいつのまにか気づいていたようだ。

「泉水さん…。」

そこまで単刀直入に問われては、下手に否定することも出来ない。
花梨は小さく頷いた。歩みがほんの少し鈍くなる。

「あの者がどうしたのだ。 もしや、封印した記憶と関係があるのか?事と次第によっては、同じ八葉といえど容赦はせぬ。言ってみろ神子、何をされたのだ。」

「お待ちください、泰継殿。幸鷹殿が神子に害を成すなどありえません。それに、そのように問い詰められては神子もお困りになられるかと。」

原因が男女間の心のすれ違い、或いはもつれであるならば、この際、泰継には黙っていて貰った方がよい。
はっきりと言う勇気はないが、泉水は限界いっぱいの制止をかけた。

「……。」

いつもは控えめな泉水のそんな様子に何か感じたのか、彼の言うことも「もっともだ」と思ったのか。
泰継はそれ以上は何も言わずに、花梨に視線を戻した。

次第にゆっくりになっていた歩みは、いつのまにか止まっていた。

少し先に大きくて立派な門がそびえたっている。
大内裏の入り口、朱雀門だ。

「記憶はみんな戻ったんです。全てが終わったら一緒に帰ろうって…言ってくれました。」

ぽつりぽつりと話す花梨と、ひと言も聞き漏らすまいとする二人の八葉の間を、微かな風が動く。
朝から高めだった気温は、時間を追って更に上がり蒸し暑さを増していた。

「では、何の問題もないではないか。」

「泰継殿…。」

何が言いたいのかわからない、といった風情で眉をしかめる泰継を、泉水がやんわりと止める。

「わたしのことを大切だと…将来のことも気にしてくれてて…。」

そう言って抱きしめてくれた月夜のことが、ふと脳裏に浮かんだ。
あの時の彼の温もりが甦る。

「……。」

それ以上、言葉が続かず、鼻の奥がツンと痛くなる。

あれからほんの数日経った頃からだろうか、幸鷹が仕事を理由に姿を見せなくなり始めたのは。

最初の頃は仕事を終えたその足で、花梨に逢いに屋敷を訪ねてくれていたが、
それも次第に2日おき、3日おきと減っていき、ここ一週間ほどは全く姿を見ていなかった。

ただ、文だけは毎日届いていたので、忙しいのだろうと自分に言い聞かせ、寂しさや不安は胸の奥に押し込めて感じないように頑張っていたのだが。

今朝の幸鷹の様子は、今思うと明らかにおかしかった。
逢えて嬉しいというよりはむしろ、困ったという様子で。

原因が全く分からないだけに、不安ばかりが大きくなっていく。


言葉を途絶えさせ、うつむいてしまった花梨を、泉水が心配そうにそっと覗きこんだ。

「大丈夫ですか?神子…。」

やさしく気遣ってくれる泉水の優しさに、抑えていたものが溢れ出した。

「神子っ?どうしたのだ。」

泰継の声にハッと我に返った花梨は、慌てて頬を拭った。

「ご、ごめんなさい。なんでもありませんから…。」

「神子。気に掛かることがあるのならおっしゃってください。私などでは力不足かもしれませんが…微力でも神子のお役に立ちたいのです。」

泉水が心配そうな表情で、花梨を見つめている。

「ありがとう、泉水さん。泰継さんも…。でも大したことじゃありませんから…心配かけてごめんなさい。」

花梨は、努めて笑顔を見せた。
心に掛かることではあるけれど、誰かに相談して解決する類のものではない。

忙しくて逢えないという文を何度も貰っている以上、目に見えて問題があるわけでもない。
花梨自身がふと感じただけの不安を話したところで、彼らとて困るだけだろう。

「ほんとにごめんなさい、大丈夫ですから…。さ、行きましょう。」

花梨は気を取り直すと、再び朱雀門へ向かって歩き始めた。
そんな彼女の様子に、泉水と泰継は一瞬顔を見合わせたが、すぐにその後を追った。


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