夏風の海 6
「・・・・・・ん?」
小舟の上で、穏やかな波に揺られながらうたたねをしていた翡翠は、 ふと、それまでとは違う風の気配を感じ取って身を起こした。
浅瀬で、イサトや彰紋たちがはしゃぎまわっている。
そこから少し沖へ視線をずらすと、水平線近くから湧き上がるように、大きく成長した夏特有の白い積乱雲が目に入った。
「風が乱れ始めたか・・・。」
海の男の勘が、めまぐるしく回転し始めた。
「おーい、幸鷹殿。」
少し離れた場所で、のんびりと泳いでいる男に声をかける。
「なんですか〜?」
普段はまず聞くことの出来ないであろう、間延びした声が返ってきた。
真夏の海での休暇(彼にはそのつもりはないらしいが)という状況が、幸鷹をすっかりリラックスさせているのだろう。
「おやおや・・・。」
そんな彼に苦笑いしながら、翡翠は、自分の背後にある沖の雲を、親指で示した。
「そんなにのんびりとしている場合ではないようだよ。」
☆
「や・・・・泰継・・・!」
一体いつからそこにいたのだろう。
花梨と勝真は、揃って顔が赤くなるのを感じた。
だが当人には、その微妙な雰囲気を感じ取ろうとするつもりは全くないらしい。
「神子、雷雲が近づいている。一雨くるぞ。」
その言葉に、彼が示した方を見ると、いつのまにか大きく成長した積乱雲が迫っていた。
水平線に近い部分は灰色に変わり、輪郭も崩れかけていて、海と繋がっているように見える。
あの下では、もう雨が降り始めているのだろう。
気がつくと、海から浜へと向かって流れていたさわやかな風も、嵐の前特有の湿り気を含んだものに変わっている。
「勝真さん・・・。」
勝真の胸に頬をくっつけていた花梨が、不安そうに彼を見上げた。
「まずいな・・・・船に戻るか・・・。」
「それが良い。雨はともかく雷は危険だ。急いだ方がよいぞ。」
「何言ってるんだ、あんたこそ、のんびり構えている場合じゃないだろう。」
泰継のその言葉に、勝真は眉をひそめた。
こういう雨は、降り始めたらすぐに土砂降りになる。
泰継は、自分たちのような軽装ではなく、いつもと同じ衣を纏っているのだ。
「その格好でずぶ濡れになったら、後が大変だぞ?」
「問題ない、わたしは既に船の中だからな。
それより勝真、神子の身を危険にさらすことは許さぬぞ。 彼女を連れて早く戻って来い。
では神子、待っている。」
そういうと、泰継はゆらりと姿を歪ませ、宙に消えた。
「式の方か・・・・くそっ、心配してやったのに、損した!」
勝真は、ひらりと舞い落ちた泰継の形代をげしげしと踏みつけた。
どうも、泰継とは相性が悪い。
もっとも、勝真の方が一方的に苦手意識を持っているだけなのかもしれないが、それは認めたくない。
「勝真さん、そんなことしてる場合じゃ・・・・。」
花梨が、勝真を腕をクイッと引っ張った。
遠くの方で、ゴロゴロと雷鳴が轟きはじめている。
☆
「おまえら、いい加減、水に慣れろよ!」
浅瀬に尻餅をついた彰紋と泉水の前に、イサトが仁王立ちになった。
「そんなこと言われても・・・・!」
こんなスパルタでは、水に対するトラウマが残るだけだ。
「イサト・・・できることなら、もう少し優しくご教授願いたいのですが・・・。」
というより、出来ることなら砂浜で砂遊びをしていたい彰紋と泉水。
「やさしくぅ〜? おまえら将来この国を背負って立つ人間だろ? そんな甘ったれたことでどうすんだ!」
「そ・・・それはそうですが・・・。」
国を背負って立つ・・という言葉に、思わず背筋の伸びた二人だが、
よく考えたら、泳ぎなど出来ずとも、何の問題もないような気がする。
「おーい、そこの若者たち!」
そのとき、少し沖の方から声が響いてきた。
「お三方、船に戻りましょう、嵐が近づいてますー。」
ふと見ると、翡翠の乗っている小舟を幸鷹がひっぱって、浅瀬に向かってきていた。
「そうなのですか? それは良かっ・・・いえ、大変・・・!」
「急ぎ戻らねば・・・!」
幸鷹の言葉を聞いて、これ幸いと、尻餅をついていた二人が、さっと立ち上がった。
先ほどまでは、腰が引けていたくせに、こうなると動きがすばやい。
「さあ、イサトも・・・。」
そそくさと小舟に乗り込んだ二人は、相変わらず水の中に立ったままで、憮然としているイサトを促した。
「・・・ったく、特訓はこれからだってのにー。」
「イサト、いいから、早く乗りたまえ。」
翡翠に促されて、渋々乗り込もうとしたイサトは、ふと気がついて辺りを見回した。
「あれ、勝真と花梨はどうしたんだ?」
「ああ、彼らなら、岬伝いに船に向かったようだよ。」
翡翠が「さて・・」と櫂を手に取りながら言った。
先ほど、幸鷹に雨雲の存在を示していたとき、 どこからか飛んできた白い鳥が、小舟の舳先に止まったかと思うと、
泰継の声でしゃべり始め、 勝真たちの動向を一方的に伝えると、また飛び去っていったのだ。
「それなら大丈夫だな、じゃあ、とりあえずこの人数で戻るか。」
そう言うとイサトは小舟に飛び乗り、もう1本の櫂を手に取った。
来るときは水夫たちが漕いでくれたが、今は船に帰ってしまっていないので、自分たちで漕がねばならない。
「一回やってみたかったんだ。」
「イサト。大丈夫ですか? わたしがやるつもりだったのですが・・・。」
ひとり水の中に残っていた幸鷹が、小舟を沖に向かってぐいと押しやりながら言った。
まだ水底に足の届く場所で弾みをつけ、小舟の揺れを最小限に抑えながら飛び乗る。
「任せとけって! 要は水を掻けばいいんだろ?」
そう言うとイサトは、張り切って櫂を動かし始めた。 だが、舟の片側だけ水を掻いたせいで、小舟はその場でぐるぐると回り始めた。
「イ、イサト・・・!」
「やめてくださいーーっ・・・・。」
彰紋と泉水の二人が慌てて舟にしがみつきながら、たまらず声を上げた。
「あれ・・・なんでだ・・・??」
イサトは首を傾げながら櫂を上げたが、惰性がついていてすぐには止まらない。
「イサト・・・舟の両側で水を掻かなければ、進まないのだよ・・・・。」
翡翠が額を押さえ、引きつり笑いをしながら言った。
船に慣れた身とはいえ、このように高速でぐるぐると回転されては、さすがに酔いそうになる。
「あー、そうなのかー。わりいわりい! はっはっは〜! ・・・・あれ、どうしたんだ?」
イサトが頭をかきながらふと見ると、翡翠以外の3人は完全に目を回してしまったらしく、 船べりに寄りかかって完全に伸びていた。
一方、台風の目だったイサトは、けろっとしている。
「イサト、僧兵など辞めて私の元へ来ないかい?」
気を取り直して櫂を持った翡翠が、イサトと呼吸を合わせて水を掻きながら言った。
水にも強いし、海に慣れるのも早い。これは意外なところに掘り出し物がいた。
傍らに置いておけば、意外と役に立つかもしれない。
イサトと共に舟を漕ぎながら、翡翠はくすりと笑った。
夏といえば、夕立でしょう♪ …ってことで、のんびりした海岸の雰囲気にちょこっと変化を加えてみました。 ざわめきを含んだ風の音、 青い空の中、高く成長した積乱雲を飲み込むように広がっていく雨雲、 体にまとわり付くような湿気を含んだ空気。 そんな嵐の前の風景も意外と好きだったりします。 のんびりしていた八葉たち、特に勝真には迷惑な展開かもしれませんが(^^; (2008. 7. 6) |