夏風の海 1
「あ〜! 潮の匂いがする〜!」
京の街を出てしばらく行った町の船着場から、商用に使われるらしい船に乗り、
川の水深が深くなったところで、海を走る大きめの船を貸し切りにし、
鴨川・桂川・淀川と次々に名を変える川を下ってきた。
その川の流れも次第に緩やかになり、川幅も広くなったと思っていると、
行く手が大きく開け、同時に磯の香りが漂い始めた。
この船に乗り換えたのが、既に夕刻だったので、船着場に止まったままの船の中で夜を明かし、
夜明けとともに、海へ向かって出発した。
それからさほど時間もたっていないので、遠く前方に見える海は、
背後からの朝日を受けて、キラキラと輝いていた。
「ああ、ひさしぶりだね。この香りをかぐと、帰ってきたという気分になるねぇ。」
舳先から身を乗り出すようにして、はしゃぐ花梨の横へ、
同じように、海の気配を感じて甲板へ出てきた翡翠が並んで立った。
「帰ってきた・・は良いですが、あなたの本拠地へは参りませんからね?
今回はあくまでも、神子殿のお供として参っているのですから・・・。」
翡翠の言葉を聞きつけた幸鷹がやってきて、口を挟んだ。
照りつける真夏の太陽と、その光を反射してきらめく川面に目が眩みそうになり、
思わず、手をかざす。
「わかっているさ、別当殿。 わたしとて、神子殿の笑顔を曇らせるような無粋な真似をするつもりなど毛頭ないさ。
向日葵のように明るく奔放な彼女を、心ゆくまで愛でていたいしねぇ。」
相変わらず真面目一辺倒の幸鷹を、チラリと見遣りながら、翡翠はくすくすと笑った。
さすがに夏、「白菊」という形容詩は使わないらしい。
「翡翠殿、心ゆくまで愛でるなどと、そのようなこと・・・・。」
幸鷹が翡翠を諌めようと眉をひそめたとき、離れたところから、凛とした声が響いた。
「ああ、聞き捨てならないな。」
その声に皆が一斉に振り返ると、いつからそこにいたのか、
腕を組んだ勝真が船室の壁にもたれながら、こちらを睨んでいた。
「あ、勝真さん! ほら、もうすぐ海ですよ!」
その姿に、花梨が無邪気に駆け寄ったが、勝真はそんな彼女をチラッと見ただけで、すぐに視線を戻した。
「おやおや、怖い顔だねぇ。もうすぐ君がとても行きたがっていた大海原だよ。
せっかくの遠出、楽しまなければつまらない・・・。そうは思わないかい?」
「誰が『とても行きたがってた』んだよ。」
勝真は思わずむっとした。
いや、百歩譲って、花梨と海に行くのはいいとしよう。
自慢じゃないが、これまでに海をいうものを見たことはない。
最初は、あまりにも遠方なため、とんでもないと思ったが、
いざ腹をくくってしまえば、好奇心の方がむくむくと顔を出してくる。
だが・・・。
なんだってこんなにぞろぞろと付いてくるのだ?
遠方へ出かけるとなると、共に夜を明かすことにもなるだろう。
(花梨との甘い夜・・・)
なんて妄想も、一瞬もわもわ〜っと駆け巡ったが、この大所帯ではそんなことは微塵も期待できない。
「何をカリカリしているのだろうね、この男は・・・。ねぇ、神子殿?」
翡翠が、花梨ににっこりと笑いかけている。
むっとした勝真は、思わず彼女を引き寄せようとしたが、その時。
背中を預けていた船室の中から突然、大声が響いてきた。
「勝真! そこをどけ、前が見えないではないかっ!」
「・・・・・・?」
何事かと振り向くと、頼忠が必死の形相で前を睨みつけていた。
その手には、船の舵が握られている。
どうやら今は、彼がこの船の操舵を任されているらしい。
だが。
「おい、なんだって、こいつが舵を握ってるんだ!?」
慌てて横へよけながら、勝真は頼忠と翡翠を交互に見た。
陸路を行くより、川を下った方が早いし、楽だ・・・船のことはわたしに任せたまえ♪
そう言う翡翠に、もと海賊の彼なら船を任せても大丈夫だろうと、皆、安心して乗り込んだのだ。
そういえば、その彼がなぜ甲板でのんびりとくつろいでいるのか。
「ひとりでずっと舵を取っているなんて、つまらないからねぇ。
川幅も広くなったことだし・・・。彼もぜひやりたいと言ってくれたのでね。」
切羽詰った顔を並べている青龍組の二人を見比べながら、翡翠がくすっと笑った。
「おまえ、やりたいなんて言ったのか!?」
驚いて頼忠を振り返ると、瞬きさえしていないのか、目が血走っている。
「・・っ・・うるさい! 声を掛けるな、勝真・・・!」
「おい、翡翠! こいつと代われ!今すぐ!」
「賑やかでいいねぇ。」
必死の形相のふたりに微笑を送りながら、翡翠は近づいてきた河口に視線を移した。
「あの・・・大丈夫なんですか?」
そんな彼に、花梨が不安そうな表情を向ける。
「神子殿、大丈夫ですよ、流れに乗って下っているだけですからね。翡翠殿もおっしゃった通り、川幅も広いですし。
彼は、舵がなにかの弾みで回らないように握っていれば良いだけなのですよ。」
横から幸鷹が口を挟んだ。
彼らと違って、国主時代に海も船も経験しているので、多少のことはわかる。
「そうなんですか。」
その言葉に、花梨がホッとした表情を見せた。
だが、あの様子では、頼忠はそれをわかっていないのかもしれないな・・・。
パニクっている青龍組を見ながら、同情の念に駆られる幸鷹だった。
「さてと・・・ここからの進路は、やはり南かな?」
「当然ですね。」
舵をめぐって大騒ぎの二人を尻目に、進路の相談をする白虎組。
勝真は、いつのまにか操舵室に入り込んで、頼忠と一緒になって必死に前を睨んでいる。
「何故、南なのですか?」
そこへ、先ほどの騒ぎを聞きつけた彰紋と泉水がやってきた。
「ああ・・・水の匂いが変わりましたね・・・これが海ですか。」
泉水が目の前に広がる景色を、感慨深そうに見渡した。
彰紋は、二人が広げている海路図を興味深げに見ている。
「ああ、彰紋様・・・。舵を西へ取ると瀬戸内ですからね。」
幸鷹は、翡翠をチラリと見遣りながら、苦笑いした。
「なんで、瀬戸内じゃダメなんだ? そっちの方が波が穏やかだって聞くぜ?」
同様に船室から出てきたイサトが口を挟む。
「何やってんだ? あいつら。」
甲板へ出てくる途中に、雁首をそろえて前方を見つめている青龍組に声を掛けて、思い切り睨まれたらしく、
口を尖らせている。
「翡翠の仲間が寄ってきたら、ややこしいであろう? 面倒は極力避けねばな。」
「あれ、泰継・・・。あんた、船酔いしてへばってたんじゃなかったか?」
何事もなかったかのような顔で現れた泰継に、イサトが余計なことを言っている。
「・・・・・・・。あれは、三半規管が船の揺れに対応し切れなかっただけだ。」
「へぇ〜、泰継さんも船酔いなんかするんですね。充分人間らしいじゃないですか。」
動揺を悟られまいと、ポーカーフェイスで応える泰継に、花梨がにっこりと笑いながら追い討ちをかけた。
「・・・・・・・・・。」
怖いもの知らずというか、天然というか。
絶句してしまった泰継に、他の八葉の同情が集まった。
「え・・え〜とですね・・・とにかく、そういうことで進路は南。
適当な海岸を見つけたら、錨を下ろすということで・・・。」
幸鷹が冷や汗を拭いながら、その場を取り繕った。
「ああ、構わないよ。」
海であるならどこでも良いさ、と言うように、皆の輪から離れた翡翠は、船の縁にもたれて海を眺め始めた。
船のことは任せろと言ったくせに、細かいことには一切関与するつもりがないらしい。
「なあなあ、どうせなら、この熊野灘・・ってとこまで足を伸ばしてみないか?」
瀬戸内から紀伊半島までを書き込んだ広域地図を見ていたイサトが、突拍子もないことを言い出した。
「熊野灘!? イサト、そこは紀伊半島をぐるっと回った先ですよ? 何日かかると思ってるんですか・・。」
地図を畳もうとしていた幸鷹が、呆れたように見た。
だが・・・。
「ああ・・・そうですね。その名には、なにやら心そそられる響きを感じますね。」
意外なことに彰紋が同調している。
「お! おまえもわかってきたじゃん!」
思いがけないところで、親密度をあげる朱雀組。
「なあ、幸鷹。 熊野の海で遊んだ帰りは、熊野古道を探検しながら陸路で・・ってのはどうだ?」
そういうイサトの横で、彰紋も目を輝かせて幸鷹を見ている。
「・・・・うっ・・・わたしは・・・そんなに暇ではありませんから・・・彰紋様まで何をおっしゃるんですかっ。」
東宮様相手では、ひとこと「ダメ!」と言ってしまえないのが辛いところだ。
それにしても・・・。
「勝真殿、いつまでそんなことしてるんですか・・・!」
これは、元はといえば、勝真と花梨の旅だろう。
何ゆえ、自分が取り仕切らねばならないのか。
目的地(今のところ不明。)に着いたら、あとは知ったことではないからな・・!
だが、苦労性丸出しの幸鷹がプチ切れしかけているとは露知らず、
当の勝真は、頼忠とともに目を血走らせながら、相変わらず舵の前で仁王立ちになっていたのだった。
海編、開幕です〜! ・・・って、それはいいのですが、オールキャラでやるのはやっぱり難しい(><) 冒頭の「潮の匂いがする〜」と言った時点で、海岸にいてもよかったのに、 どうしたわけか川から始めてしまったし。 たいした中身もないままにダラダラと続いていきそうな予感です・・・ごめんなさい// (先に謝っておく。・苦笑) あ、船の操舵については全くの素人なので、突っ込まないでくださいませ(汗) (2005 .8.28) |