夏林の清流 2
( 勝真さん・・・?
)
自分を呼ぶ彼の声を聞いたような気がして、花梨はぼんやりと瞳を開いた。
すぐそばを水が流れているのか、せせらぎの音がずいぶん大きく聞こえる。
「どうしたんだっけ・・・?」
ゆっくりと頭を起こすと、後頭部がズキッと音をたてた。
「・・・・っ・・・・!」
その痛みに、先ほど足を滑らせたのだと思い出す。
あれから、ひとしきり水遊びをした花梨は、
小川の淵に転がっているゴツゴツした岩のひとつに腰掛けて、足を浸していたが、
ふと、この流れを遡ってみたくなった。
林の中を流れてくるこの小さな川は、曲がりくねっているので、ほんの少し上流でさえも、
どうなっているのか見渡せない。
どうせ上って行くなら、勝真も誘おうと思ったが、
彼の方を振り返ってみると、どうやら木の幹にもたれて、うたた寝をしているようだった。
「・・・ま、いっか。」
起こすのも可哀想だし、ほんの20〜30m上流へ行くくらい、問題ないだろう。
ちょっと行ってくるだけなら5分もかからない。勝真が目を覚ますまでに帰ってこよう。
そう考え、勢いよく流れてくる水の中を流れに逆らって遡り始めると、程よい抵抗を感じて、意外と心地よかった。
清い流れが、どこまでも続いている。
ただ、先ほどの場所よりは少しずつ険しくなっているようで、川辺にある岩の数も増していた。
「あんまり離れたら、心配かけちゃうな・・・。」
このくらいにしてそろそろ戻ろう・・・そう思ったとき、ふと川辺にひっそりと咲いている桔梗の花が目に入った。
「竜胆じゃないけど・・・。」
色が似ているから、意外と気に入ってくれるかも・・・?
ちょっとこじつけっぽいかなと苦笑いしながらも、彼に持って行ってあげようと花に手をかけたとき、
足を掛けた岩が思ったよりも脆くて、体を支えきずに崩れた。
そのまま手をつけば、かすり傷程度で済んだだろう。
だが、『桔梗の花を潰してしまう』という意識の方が強く働き、咄嗟に身をひねっていた。
その後はどうなったのか・・・。
そういえば、腕で支えようとしたのだが支えきれず、代わりにゴンッという鈍い音を聞いたような気がする。
その辺りまで思い出して、岩に頭をぶつけたのだと思い至った。
「いったぁ・・・・。」
ゆっくりと身を起こすと、水音が急に小さくなった。
不思議に思って身の回りを見回すと、渓流の中にひっくり返っていたらしく、
衣も髪も、上から下まですっかりずぶ濡れになっていた。
「・・・うわ・・・ちょっと・・・マズいかも・・・。」
こんな格好で勝真の元へ戻ったら、絶対に怒られる。
かといって、乾くまで待っていたら、いつになるかわからないし、そんなに長く隠れているわけにもいかない。
「う〜ん・・・。」
ふと右手を見ると、先ほど取ろうとした桔梗の花を握っていた。
手にした後、ひっくり返ったにもかかわらず、奇跡的に美しい姿を保っている。
花梨はしばらくその花をじっと見ていたが、やがて観念したように歩き出した。
花梨の気を感じる。
先ほど、姿を見失ったと気づき、慌てて飛び出したときは、一瞬感じ取れなかったが、
今はしっかりと、その存在を感じる。
意識を集中する為に閉じていた瞳をゆっくりと開くと、勝真は、小川の上流に視線を向けた。
「勝真さん、まだ眠っててくれたらいいんだけど・・・。」
川の中を、その流れに後押しされながら歩く。
早い流れに逆らわずに歩くので、行きよりはずいぶん楽だ。
大きく右へ曲がる次のカーブを過ぎれば、先ほどの場所に出るはずだ。
だが、そこを曲がったところで、花梨の足はピタリと止まってしまった。
「・・・う・・・勝真・・・さん・・・・。」
下草を刈った先ほどの木の下ではなく、水辺ぎりぎりのところで、腕組みをした勝真が
仁王立ちしてこちらを睨んでいた。
「・・・花梨。」
近づいてくる気配を感じてはいたが、その姿を見て勝真はやっと、ホッと息をついた。
見たところ、特に異状はなさそうだ。
よく考えてみたら、自分が眠っていた間に、少し上流へ足を伸ばして帰ってきただけのことだろう。
(俺も相当、心配性だな・・・。)
だがその時、ふと何か、違和感のようなものを感じた。
とはいえ、木立ちを縫ってくる日の光が、まだらに彼女の上に落ちている上に、
まだ十歩ばかり離れているので、それがなんなのか掴みきれない。
勝真は、そのままの格好で花梨を凝視した。
「ご・・・ごめんなさい・・・・っ・・・。」
その視線をどう解釈したのか、花梨はその位置でピタリと止まると、いきなり縮こまった。
「・・・・・?」
「あの、どこも怪我なんてしてませんからっっ。
ちょっと水の中で足がすべって・・・ほんの少し頭をぶつけちゃったけど・・・。」
水の中ですべった?
花梨が近づこうとしないので、勝真は彼女の方へ向かって、歩を進めた。
「あ・・・えと・・・ちょっと濡れたけど、上着を着て帰ればそんなに目立たないと思うし・・・。」
「ん・・? 顔を擦りむいてるじゃないか、どんなこけ方をしたんだ。」
花梨の前まで来た勝真は、彼女の頬の傷に気づき、手を伸ばそうとして、ギョッとした。
「お・・おまえっ・・・ずぶぬれじゃないか!」
よく見ると、衣はすっかり水を吸って重く張り付き、髪からはぽとぽとと雫まで落ちている。
これはもう、水の中に倒れこんだとしか思えない。
そういえばさっき、頭をぶつけたとか言っていたような・・・。
勝真の中で、嫌な予感が広がった。
「さっき・・・一瞬、おまえの気が途切れたように感じたんだ。」
勝真は、花梨の頬に触れていた手を頭へ伸ばした。
「・・・・っ!」
怒られると思ったのか、花梨がきゅっと縮こまる。
それを無視して、彼女の頭部の上から後ろへかけて手を滑らせると、
不自然に大きな出っ張りに触れた。
「・・・いたっ・・・!」
「これ・・・コブか!? かなり大きいぞ?」
それを手の平で包み込むと、熱を持っているのがわかった。
じんじんと音を立てているようにさえ感じる。
「花梨、正直にいえ。 『少しぶつけた』・・じゃないだろう?」
勝真は、努めて冷静に言った。
「あの・・・。」
勝真に後頭部を引き寄せられているせいで、彼の視線に捕まってしまった花梨は、進退極まった。
こんなに間近でじっと見つめられていては、動悸は激しくなるし、顔に血は上ってくるし・・・。
心臓にも、頭のコブにもよろしくない。
「ええと・・・とりあえず、これ・・・。」
花梨はおずおずと手にしていた桔梗を差し出した。
「・・・・・・?」
いきなり目の前に現れた一本の花に、勝真は脈絡がわからず、それを見つめた。
毎日毎日、あんまり暑いので、花梨ちゃんをずぶ濡れにしてしまいました。 ああ、気持ちよさそう〜☆ ・・・って、彼女は怒られると思って冷や汗モノですけど(^^; なにゆえ勝真さんが怒ると思うのか・・・。 「衣をこんなにして・・」と母親が幼子に怒るのとは違いますよ〜(笑) (2005.8.3) |