水 鏡
どうしてあんなことになったんだろう。
夕べはずっと眠れなくて、空が薄明るくなったのを見計らい、そっと屋敷を抜け出してきた。
明け方になって急に気温が下がったせいか、ここへ来る途中の大路も、この神泉苑も朝靄に包まれている。
おかげで、誰にも見咎められることなく、この場所へ辿り着くことができた。
『おまえに何がわかる! 結局、俺とおまえは違う世界の人間なんだ!』
そういって飛び出していった後姿が、焼きついて離れない。
きっかけは、本当に些細なことだったと思う。
だが、お互いに譲らず、意地を張り合っているうちに、どんどん険悪になってしまった。
『イサトくんなんて、被害者意識ばっかり強くて、自分からは何も変えようとしないじゃない!』
言ってから、しまったと思った。
触れてはいけない部分に触れてしまったような気がした。
案の定、それを聞いたイサトは、みるみる表情を強張らせ、くるりと背を向けて走り去った。
あんなこと、言うつもりなんか、なかったのに。
でも・・・。
どこか諦めているような態度に、いつも歯がゆさを感じていた。
外面の明るさとは裏腹な、彼の内面を知れば知るほど、「何故」という気持ちが膨らんだ。
諦めてしまわないで欲しい。
もっと自分と向き合って欲しい。
どんな小さな幸せにも、ひとつひとつ感動できる心を、彼は持っているはずなのだから。
そう、伝えたかった言葉は山ほどあるのに、結局何ひとつ届かなかった。
ひんやりとした空気が、頬をなでる。
涙の乾いた跡が、チリっと痛んだ。
ふいに後ろの方から、人の近づく気配がした。
怪しい気配ではないが、まだほとんど人がいない時間帯なので、思わずドキリとする。
靄の中から、浮かび上がった人物は、少し遅れて花梨に気付いたらしく、戸惑ったように立ち止まった。
「あ・・・。」
ほぼ同時に声がもれる。
「・・・こんなとこにいたのか。屋敷で大騒ぎになってたぜ。」
手にした錫杖をカシャンと鳴らした人物は、伏目がちに視線をさまよわせながら、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「どうして・・・? まだ皆、寝静まっていたのに・・・。」
心配して探しに来てくれた。
心の中ではとても嬉しいのに、素直になれない。
「おまえがこっそり出て行くのを見たヤツがいたんだよ。んで、紫姫が血相変えて、使いを送ってきたんだ。それで・・・。」
「そっか、八葉として神子を探しに来たんだ・・。違う世界の変なヤツでも神子は神子だもんね。」
違う。こんなこと言いたいんじゃない。
彼に背を向けて、池を見つめる。
伝えたいことはたくさんあるのに・・・。乾いた涙がまた溢れそうになった。
「・・・・・。」
イサトは、そんな花梨の様子をじっと見つめていたが、やがて何も言わずにスッと顔をそらせた。
「とにかく帰ろうぜ。他のやつらにも、おまえが無事なのを知らせてやらなきゃ・・・。」
花梨の半歩後ろまで近づいて、水面に映る彼女の姿を見つめながら、イサトが言う。
昨日とは打って変わった穏やかな声に、堪えきれない雫が一滴、湖面を揺らした。
「・・・帰らない。」
こんなぐちゃぐちゃな気持ちのまま、帰りたくない。
「おまえ、いい加減にしろよ?」
責めるような言葉とは裏腹に、イサトの声は哀しみに似た響きだ。
「そんな、悲しそうな顔するな。悪かったよ・・・。」
イサトが、聞きとれるかどうかという声で、小さく呟いた。
涙が止まらなくなった。
すすりあげ、肩を震わせる自分の姿だけが、どんよりと沈んだ水面に映っていた。
どのくらい、そうしていたのだろう。
朝日が差し込み、神泉苑を包んでいた靄がゆっくりと薄らいでいく。
ザバン!!
唐突に、大きな水音が響いた。
驚いて顔を上げる。
湖面に大きな波紋が広がっていた。
その中心にいるのは------。
「・・・イ、イサトくん!?」
なんとイサトが、水の中から顔だけ出して浮いていた。
「いつまでも泣いてんじゃねえよ! ほら、これで顔洗え!」
そう言うとイサトは、バシャバシャと大きく水を跳ね上げた。
「ちょっ・・・! やめてよ!」
思わず両腕でカバーしようとするが、水しぶきが後から後から降ってくる。
その水の冷たさに、今やっと目が覚めたような気がした。
「うわ!?」
その時、両手で思いっきり水を掻き上げていたイサトが、バランスを崩したらしく、ふいに水中に沈んだ。
慌てて浮かび上がり、ゲホゲホとむせている。
「もう、ドジなんだから・・・。」
自然に笑みがこぼれた。
「笑ったな!? おまえもずぶ濡れにしてやる!」
言いながら、イサトが先程よりも激しく水を跳ね上げてくる。
花梨の笑顔を見てホッとしたのか、イサトはいたずらっ子のような屈託のない笑みを見せている。
さっきまで泣いていたのが、なんだか急に馬鹿らしくなった。
「こ、こっちだって!」
水際に膝をつくと、花梨もイサトと同じように水を跳ね上げ始めた。
水しぶきが、宙を舞う。
静けさの残る神泉苑で、朝日に輝き始めた湖面が、そこだけ切り取られた様にきらきらと光っていた。
「花梨・・・、俺、あれからずっと考えてたんだ、おまえが言おうとしてたこと。
心の奥では、ほんとはわかってたんだんだと思う。でも、簡単に変われない自分が悔しくて・・・。
だからあんなこと・・・。泣かせて・・・ごめん。」
すっかり夜が明けた大路を、二人で歩く。
頭からずぶ濡れで、衣から水を滴らせながら歩く姿に、行き交う人々が目を丸くして振り返る。
「イサトくん・・・。私の方こそ、ひどいこと言ってごめんなさい。」
「ほんとのことだろ・・。ただ、かなりグサっときたけどな。」
そう言いながらも、イサトの表情は明るい。
「いいんだ、あれで・・・。人間って、そうやって成長してくもんだろ? 俺、おまえの一言で、一歩前へ進めた気がする。」
イサトは立ち止まり、どこからか手ぬぐいを取り出してきて、ぎゅっと絞ると、花梨の頭をごしごしと拭いた。
「言いたい事を飲み込んでしまわれるより、きつくても言ってくれた方がいい。
俺は・・・そんなおまえが好きだ。」
目の前を手ぬぐいが行き来するので、イサトの顔が見えない。
「ほら、後は自分で拭け。」
頭の上に置き去りにされて、落ちそうになった手ぬぐいに、慌てて手をやる。
ふと見るとイサトは、一人でさっさと歩きだしていた。
何か大切なことを言われたような気がする。
それなのに、何事もなかったかのように歩いていく後ろ姿。
「待ってよ! もう、拭いてくれるならもっと丁寧にしてくれればいいのに!」
憎まれ口が、思わず口をついた。
「はあ!? おまえ、一言多いぞ。素直にありがとうって言えねえのかよ?」
イサトは振り返ると、呆れ顔で花梨を見た。
「今、なんでも言ってくれた方がいいって言ったくせに。」
花梨は、プクッと頬を膨らませた。
「おまえなあ・・・・。」
しばらくにらみ合っていたが、やがてどちらからともなく、笑みがこぼれる。
先程の水が、お互いの心に生まれたわだかまりを、きれいに洗い流してくれたような気がした。
「神泉苑の水って、やっぱり神聖なんだね。」
「なんだよ、いきなり。」
「・・・ひとりごと。」
「ふうん? まあ、龍神さまの泉だからな。」
そう、龍神さまの神聖な泉だ。
・・・・・・神聖な?
「ね、ねえ・・・イサトくん・・・。そんな大切な泉の水であんなことして、良かったの・・・?」
「え・・・? 」
立ち止まってしまった花梨を振り返ったイサトは、意味がわからずきょとんとしていたが、彼女のひきつった顔をみて、あっと呟いた。
「よ、良くなかったかも・・・。」
「罰が、あたるかな・・・。」
二人顔を見合わせ、青ざめる。
「あ、で、でも、大丈夫! 私が龍神さまからイサトくんを守ってあげるから!!」
花梨が、拳を握り、勇気を奮い立たせるように言った。
「守って・・って、そりゃ、立場が逆だろ。それに龍神から守るって、なんだよそれ。」
イサトがケラケラと笑った。
「大丈夫だろ。俺たち、いつも頑張ってんだから、ちょっとくらい大目に見てくれるって!
それに龍神より怖いやつらが現れたかも・・・。」
その言葉に、花梨がイサトの視線をたどると、八葉たちがこちらにやってくるのが見えた。
ずぶ濡れの二人に気付いたらしく、慌てて駆け寄ってくる。
自分たちのこの状態では、言い訳のしようがない。
神泉苑の水で遊んだ(としか見えない)とわかれば、お小言を言い出す人間がまず間違いなく、何人かはいるはず。
「逃げよっか。」
「お、いいな、それ!」
二人はくるりと反転すると、互いの手をとり、今来た道を全力で駆け出した。
ゆるやかな風が通り抜けていく。
「ね、ねえ、でもこの衣、どうするの?」
「うーん、なるようになるだろ?」
お互いの手のぬくもりが心地よい。
身体は濡れて冷たくても、心の中はほんのりと暖かだった。
![]() Illustation by 樹原様 |
季節は秋。
色づきかけた木々の葉が、朝日に照らされ青い空を背にして、つやつやと輝いている。
暖かく、穏やかな1日が始まろうとしていた。
でもやっぱり、季節は・・・秋。
次の日には、当然のごとく風邪をひいて、仲良く寝込むこととなった二人。
そして結局、皆から一通りのお小言を聞かされる羽目になったのだった。
〜fin〜
すみません。。。結局何が言いたいんだかわからないシロモノに・・・(^^; いえ一番言いたかったのは、大路を歩きながらイサトが語ったこと、なのですが。 うーん、不完全燃焼? ちなみに、こちらの花梨ちゃんは、ちょっとお転婆系になりました。 詩作とセットで創作しました。よろしかったらどうぞ→詩作「水鏡」 (2003.12.4) |