金木犀の香る頃（前）

金木犀の香る頃（前）

「あ～いい香り。」

望美が両腕を広げて、秋の空気をいっぱいに吸い込みながら、その場でくるんと回転した。

「お気に召したかい、姫君？」

そんな彼女の様子を見て、ヒノエは満足げな微笑みを浮かべた。

「うん！　でも、どこにあるのかしら、金木犀…。」

街から少しばかり離れた山里。
山桜と思われる木は多いが、ほのかに香ってくる甘い香りの出所がよくわからない。
望美はあたりをきょろきょろと見回した。

「桜のように目立つ花じゃないからね。それに、金木犀は香りを楽しむもの…。」

たくましく葉を茂らせている山桜を始め、楓や樫の木やイチョウなどの雑木に紛れていては、
なかなか探すのは難しい。
はなから探すつもりのないヒノエは、そう言うとその場にごろんと寝転がった。

今日はひとときの休息日。
天気もよく、爽やかな一日だ。

「姫君も一緒にどう？」

「一緒に…って？」

相変わらずあちこち見回していた望美が、その言葉に首を傾げながら振り向いた。

「ここ…♪」

ヒノエは寝転がったまま片肘を立てて枕にすると、もう一方の腕を広げて、「おいで♪」のポーズを作った。

「え･…。」

それを見た望美は、その場でぴきっと固まった。
若干、さきほどより顔が赤らんでいるようにも見えるが、ヒノエを睨んだまま動かない。

「は～…つれない姫君だね…。涼しくなってきたし、人肌が恋しいだけなんだけどねぇ。」

その様子を見たヒノエは、広げていた腕をばたっと下ろすと、大げさにため息をついて見せた。

「な、な、なに言ってるのよ、こんなとこでっっ。」

ヒノエが「おいで」ポーズを止めてそっぽを向いたので、警戒心が解けたのか、
望美はヒノエの傍に膝を付くと、その耳元で怒鳴った。

だが、それを見たヒノエは、すかさず身を起こした。彼女の至近距離に顔を近づけてささやく。

「ふ～ん…じゃ、『こんなとこ』でなかったらいいわけ？　そうだな、屋敷の奥とか……くすっ。」

「いっ……い…っ…。」

「『いいわよ』って言いたいのかな。」

ここぞとばかりに艶やかな笑みを彼女に向ける。･…が。

「……いや～～～！！！」

どんっっ！

望美は、ヒノエを思いっきり突き飛ばすと、踵を返して一目散に逃げていった。

「…あ、そう言いたかったのか…。･…っ…てぇ。」

いきなり突き飛ばされたので、防御も出来ず、ちょうどそこにあった木の根に後頭部をしたたかに打ち付けてしまった。

「見事に玉砕ですねぇ…くすくすくすっ。」

そのとき、がさっという音とともに、あまり聞きたくもない声が、響いてきた。

「………。」

あまり…どころか今の場合、全く聞きたくないので、寝たふりをして聞こえなかったことにする。

「おや、気候がいいので、うたた寝ですか？それもまた良き哉ですが…。ん？いや、もしや…。」

声の主は、笑みを含んだ声で納得したように話していたが、ふと声が途切れた。
そこにいるらしい気配は感じるが、なんとなく妙な感じがする。

「……？」

ヒノエがそう～っと片目を開いてみると、黒いものが覆いかぶさるように視界いっぱいに広がった。

「うわっっ！！」

思わず、ざざざ～～っと後ずさりする。

「おや…ちゃんと生きてましたか。」

黒い外套に身を包んだ弁慶が、身をかがめて覗き込んでいたらしく、先ほどヒノエが寝転がっていた位置で膝をついていた。
１ｍばかり飛ぶように移動したヒノエを、きょとんとした顔でみつめている。

「て、てめえ、何しようとしてた！」

「何とは人聞きの悪い…。君が望美さんに突き飛ばされて、脳震盪でも起こしたんじゃないかと思ったんですよ。」

「あの程度で、そんな無様な姿、晒すかよ。」

ヒノエは、憮然としてそう言い放った。

「それで、気付け薬でも飲ませてあげようかと思いましてね。」

だが、それをスルーした弁慶は、手にしていた小瓶を自分の口に含む仕草をして見せた。

illustration by 喜一さま

「人の話聞いてるか？……って！おまえ、どうやって飲ませるつもりだったっっ！」

「知りたいですか？」

額に縦線を走らせて、また５０ｃｍばかり後退したヒノエに、弁慶がにっこりと屈託のない笑みを浮かべて問いかけた。

「い、いや…遠慮しとく。」

ああいう表情の時は特に、何を考えているかわかったものではないので、深く突っ込まないに限る。

「そうですか？　ま、必要になったらいつでも言ってくださいね。」

「………。」

絶対にそんな事態は招くまいと、密かに心に誓うヒノエだった。

「それはいいとして…。」

ヒノエは問題なしと判断した弁慶が、立ち上がって辺りを見回した。
それを見てヒノエも慌てて立ち上がる。

「あいつ、どこまで行ったんだ？」

「彼女のことだから、自分の身くらい守れるでしょうけどね。それにしても…。」

そこで言葉を切った弁慶は、おもむろにヒノエに視線を戻すと、こらえきれないように頬を緩ませた。

「ほんとに、見事な振られかたでしたねぇ。くすくすくす…っ。」

「…………あんた、ここへ何しに来たんだよ。」

拠点にしている屋敷からずいぶん離れたこんな場所で、偶然出会うなんてありえない。

「僕ですか？　この辺りには傷に良く効く薬草があるのでね、それを採りに来たんですよ。」

「ほ～～ぉ…。」

ヒノエは、腕を組んでじとっと弁慶を睨んだが、相変わらずその本心は読めない。

「そっか。じゃ、あんたはその辺で草むしりしてな。望美を連れてきたのは俺だから、あいつは俺が探して連れ帰る。」

「そうですか。また突き飛ばされないように気をつけるんですよ？」

弁慶はちょっと小首をかしげて、心配気な顔をした。

「余計なお世話だっ。もうついてくるなよ！」

ヒノエは、弁慶に向かってびしっと指をさしてそう言い放つと、望美が駆けていった方へ向かって走り去った。

「くすくす…『もうついてくるな』…ですか。」

弁慶は、手にしていた気付け薬を懐に戻した。

ヒノエたちが近くに居るなんて本当に知らなかったのだ。
薬草を探し歩いていると、聞き覚えのある声が聞こえてきたので、何気なく覗いてみたら。
うまいぐあいに（？）あんな場面に出くわした、ただそれだけのことだった。

とはいえ、八葉と神子、或いは八葉同士は、無意識のうちに引き寄せられてしまうのかもしれない。

「ということは…。」

弁慶は、雑木の陰になっていた小振りな木に近づき、その枝を一本パキッと折った。

「僕が神子に近づいてしまうのも、仕方のないことですよね？」

くすっと笑いながら弁慶がその枝に口付けると、金木犀の甘い香りがふわっと舞った。

「………。」

なにやら、背中に妙な気配を感じて、思わず来た方向を振り返る。
だが、弁慶が後を追ってくる様子はない。

それを確認したヒノエが、また走り出そうとしたとき、
少し離れた木々の陰から、がさっという、落ち葉の擦れ合う音が聞こえた。

この辺りは緩やかな傾斜になっているらしいので、滑らないようにと注意しながら近づくと、
一段下がった斜面のくぼみに誰かがうずくまっているのが見えた。

「望美…？」

ヒノエが控えめに声をかけると、その人物は弾かれたように振り返った。

「……ヒノエ君？」

頭に枯葉をつけ、目には大粒の涙を溜めているのか、口をへの字に曲げた望美がいた。

「ど…どうしたんだ、その格好…。……って･･･ぷ、ぷぷ…。」

一瞬あっけに取られたヒノエだったが、いつも気丈に振舞っている神子姿とのギャップがおかしくて、
思わず吹き出した。

「どうした…って…。ヒノエ君が変なこと言うからびっくりして、気が付いたら足滑らせてたんじゃないっ。」

望美は、ヒノエを見上げて、ますます口を尖らせた。

illustration by 喜一さま

どうやら、なりふり構わず走っていて、斜面を滑り落ちたらしい。

だが、少々かすり傷を負っているだけで、大したことはないようだ。
その姿に、やんちゃな子猫のような可愛らしさを感じつつ、ホッと息をつく。

だが、さすがに笑っていて良い状況ではない。
それよりも、なにか大きな誤解があるようにみえる。

「変なこと、ねぇ。俺はいつも、大真面目なんだけどね…？」

ヒノエは、傍らの木の枝に手をかけ、体を幹に預けつつ、望美を見下ろしてそう言った。

「いっつも、そうやってからかってばっかりっ。」

が、望美は、相変わらずクシャクシャの顔のまま、ヒノエを睨んでいる。

「ねぇ、姫君？　俺のこと、あっちこっちで女を口説いて回ってる尻軽男…とか思ってるだろ。」

「……………。うん。」

望美は一瞬考え込んだようだが、すぐに大きく頷いた。

ガクッッ。
うっかり木の枝を握っている手が離れて、斜面を転げ落ちそうになった。

「姫君……。」

ヒノエは片手で木の幹を持ったまま、その場にかがんで頭を抱え込んだ。
当たらずとも遠からず──ではあるが、面と向かってそう言われるとさすがに堪（こた）える。
それに…。

「こう見えても、おまえに出会ってからは、おまえしか見てこなかったんだけどね。」

ヒノエはぼそっと、そう呟いた。
口説くつもりなど毛頭ない。これは自分自身への言葉。

うつむき加減のまま、前髪をかきあげる。

「ヒノエ君…？」

望美が意外なものを見るように、こちらを見上げていた。

「ふ…っ。ま、いいさ…。」

ヒノエは、木の幹を握り直して片膝をついた。体勢を整えて手を伸ばす。

「おいで、姫君…。」

「え。」

「ほら早く…。引き上げてやるよ。」

「あ、うん…。」

望美は一瞬固まった後、頬をほんのり紅潮させて頷いた。
いつものヒノエとは微妙に雰囲気が違うので、思いがけずドキッとしたらしい。

「いい返事だね♪」

ヒノエはそんな彼女ににっこりと微笑むと、おずおずと出されたその手を取り、
ぐいっと引き上げた。

だが、力を入れすぎたせいか、勢い余った望美が足をもつれさせながら、倒れこんできた。

「きゃっ！や～～っ！」

「うわっっ。」

受け止めようとしたものの、一瞬間に合わず、彼女に押し倒された。

「……？」

柔らかな感触が頬をなで、甘い香りが鼻をくすぐる。
気がつくと、彼女に覆い被さられていた。

「ご、ごめんっっ！」

望美は慌てて飛びのこうとしたが、ヒノエはその柔らかな身を捕らえた。

「…待って姫君。このまま…少しだけ…。」

「…え…。」

動きを止めた望美の背を抱き、腕の中へ閉じ込めると、その懐へ顔を埋める。
倒れこんだ際に、微妙に着崩れたらしい襟元から、白い肌が覗いている。

「…ん…。」

その肌の、柔らかな感触と甘い香りに、思わず酔いそうになる。

「ヒ、ヒノエ君…っ。」

艶を帯びた彼女の声が、遠くに聞こえる。

だが、それきり何もわからなくなった。

以前、コピー本として出したものです。
挿絵は、そのときのものをそのまま掲載しました☆

ヒノエ×望美とくれば、こんな風にチャチャを入れるのは弁慶。
そんな構図が出来上がった最初の作品です。
（他の作品はオフ本に収録してますので、今のところサイトには掲載していませんが。2009.10）

主役はヒノエですが、余裕の態度で彼をからかう弁慶が結構好きです♪

（サイト掲載日　2009 .10. 25 ）