金木犀の香る頃(後)
「ど…どうしよう…っ。」
「大丈夫ですよ、少し打ち所が悪かっただけでしょう。」
「わたしのせいで…。」
「君のせいではありませんよ。あ、一度目はそうかもしれませんけどね。」
動揺しているらしい少女の声と、それとは対照的に笑みを含んだ声とが聞こえる。
ベールのかかった意識の中で、ヒノエはそれをぼーっと聞いていた。
二つの声は、しばらく何ごとか話し合っていたようだが、
不意に柔らかな感触があったかと思うと、生温かい液体が喉に流れ込んだ。
「う……。」
急速に意識がはっきりしてくる。
そして次の瞬間、ヒノエは、がばっと身を起こした。
「あ、気がついた!」
「ほらね、どうということはなかったでしょう? くすくす…大した姫君ですね。」
心配げな望美と、いつも通りにこやかな表情を浮かべている弁慶が、そろってヒノエを見つめている。
……が、どういう状況なのか、さっぱりわからない。
そういえば、望美といい雰囲気になりかけていたような気がするのだが…。
「なんで、またあんたがここにいるんだよ。」
そうだ。窪みに落ちていた望美を助けあげようとしていたのだ。
少なくともあの時は、望美と二人きりだったはずだ。
ヒノエはムッとしながら弁慶に向かった。
「おや、第一声がそれですか? つれないですねぇ。せっかく目を覚まさせてあげたのに。ねぇ、望美さん?」
「え…? えぇ…。」
笑みを含んだ弁慶の言葉に、望美は、気まずそうな顔をして目をそらせた。
「えと、ごめんなさいっ。私が二度も突き飛ばしたから。」
「突き飛ばした…?」
一度目はわかるが、二度とは?
怪訝そうな顔をしているヒノエに、望美は言いにくそうにボソボソと呟いた。
「さっき引き上げてくれたとき…。」
勢い余ってヒノエに抱きつきそうになり、とっさに突き飛ばした…と彼女の弁。
そういえば、「や〜!」という悲鳴に似た声を聞いたような気がするが。
「あ、そう…突き飛ばしたのか…。」
ヒノエにはそういう認識はなかったのだが、結果的には、力いっぱい拒否されたあげくに
またしても木の根っこか何かに頭をぶつけたらしい。しかも、失神のオマケ付き。。
「くすくす…。今度は晒しちゃいましたね、無様な姿♪」
弁慶が望美に聞こえないように小声で囁いた。
「…っ…!」
「おっと、怒っちゃだめですよ。君が目を覚まさないから、望美さんが慌てふためいてましてね、
ちょうど通りかかった僕が手を貸してあげたのですからね。」
キッと睨み付けてきたヒノエを、片手を挙げて制すると、弁慶はにっこり笑ってそう言った。
「やっぱり後をつけてたのかよ。」
「そんな無粋な真似はしませんよ。強いて言えば・・・望美さんの香りに引き寄せられた、といったところでしょうか。
あ、そうそう…。」
ムッとした表情で睨んでいるヒノエを無視した弁慶は、ふと思い出したように、薬草を入れた籠の中から一本の枝を取り出した。
「はい、望美さん、君に差し上げますよ。」
「え、これ…金木犀…?」
濃い緑色の葉の中に、オレンジ色の小さな花がたくさん付いている。
「いい香り…。」
望美はそれを受け取ると、花の中に顔を埋めた。
「そうでしょう。僕も思わずその枝に……あ、いえ、こちらの話です。」
弁慶は思わせぶり言葉を切ると、ヒノエを横目に見つつ、くすっと笑った。
「………何が言いたいんだよ。」
弁慶の言動も行動も、あまり深く考えるつもりはないが、それでも、あちこちに引っかかるものがあって、
妙に苛つく。
「そんなに突っかからなくてもいいじゃないですか。ねえ、望美さん?」
弁慶は、そんなヒノエの心の内に気づいていないのか、それともわざとなのか、
金木犀の枝を大事そうに持っている望美に、にっこりと笑いかけた。
「さてと…では僕はこれで失礼しますか。薬草を探している途中ですので。」
「あ、ごめんなさい…ありがとうございました。」
ヒノエが膨れてしまったので、さすがに気まずくなったのか、或いは、もうヒノエをからかうネタが尽きたと思ったのか、
弁慶はおもむろに立ち上がると、望美の見送りを受けて、その場から立ち去って行った。
「えと…ごめんね、ヒノエ君。痛かった…よね。」
相変わらず憮然としているヒノエに、望美は何を思ったのか、彼の後頭部にそっと手を添えて言った。
だが、そんな彼女の行為を素直に受けることが出来ない。
「神子姫様は、俺のことは突き飛ばすくせに、弁慶に貰った枝には口付けるんだね。」
ヒノエは、望美が先ほどから手にしている金木犀の枝を一瞥し、ふいっと目をそらせた。
「口付ける…って。」
「その枝…弁慶も口付けたんだぜ。」
推測の域を出ないが、弁慶のあの様子からすると、十中八九そうだろう。
「私、そんなつもりじゃ…。」
ヒノエのどこか冷たさを含んだ言葉に、望美は次第に涙声になった。
「……ま、そうだろうけどね。」
このイライラをぶつけるとしたら、彼女にではなく、望美がそういう行動に出ると知っててやった、弁慶に対してだろう。
そうとわかってはいるのだが…。
「………。」
望美のしゃくりあげる声が微かに聞こえる。
抱きしめてやりたい…だが、どうしたことか体が動かない。
「いつもの俺らしくないね。」
ぼそっと呟いてみる。
彼女を泣かせたのが自分だからか、それとも、また拒否されるのを本能的に怖がっているからなのか、或いはその両方か。
どうやら今日は厄日らしい。
これ以上、ここに二人で居ても、事態が良くなるとは思えない。
ヒノエは大きく息をつくと、気を取り直して言った。
「…悪かった、謝るよ。とりあえず、今日はもう帰ろう。」
無意識に彼女の肩に手をかけようとしたが、触れる直前で止める。
拳を握って手を下ろすと、ヒノエは、望美を促して歩き始めた。
「……かっ…。ヒノエ君の…ばかっ。」
「……?」
搾り出すようなその声にヒノエが振り返ると、目に涙をいっぱい溜めた望美が、口をへの字に曲げてこちらを見ていた。
「弁慶さんと間接キスしたからって何よっ。ヒノエ君とは直接キスしたのにっっ。」
「き…す?」
何のことかわからず問い返すと、望美は微かに頬を染めつつ、視線をそらせた。
「弁慶さんが口移しで薬を飲ませようとしたから、思わず…。」
illustration by 喜一さま
『べ、弁慶さん、何するんですかっ。』
『こうやって飲ませるのが一番確実でしょう? こぼしてしまってはもったいないし、飲んだかどうかもわからないですしね?』
弁慶が、真顔で問い返す。
薬師の立場としては、当然の行動なのかもしれないが。が…。
『か…っ…貸してください!』
自分でも良くわからない行動だった。
だが気づいたときには、彼の手から薬瓶を取り上げ、口に含んで…。
「おまえ…が?」
ヒノエは、ベールのかかった意識下で感じていた記憶をたぐり寄せた。
あの時、温かい液体が流れ込んで来る直前に感じたのは、確かに柔らかな感触。
ヒノエは思わず、彼女の唇をみつめた。
その視線に、望美が居心地悪そうにうつむく。
「俺に…? 口付けた…わけ?」
ひとつひとつ確かめるように問いかけるヒノエに、望美はそっぽを向いてしまった。
だが、その頬はほんのり赤みを帯びている。
「そっ…か。」
思いがけない彼女の言葉に、ヒノエは何をどう反応したら良いのかわからず、止まってしまった。
頭の中は、いろんな思いが交錯しているのに、言葉にも態度にも出てこない。
そんな自分がとても不思議に感じられる。
「あ、あの…迷惑だったんなら、謝るけど…。」
なんの反応も示さないヒノエに、望美は不安げに視線を戻した。
そんな彼女の様子に、温かい思いが、小さな音を立てて弾けた。
「あ…は…はは…あははははっ!」
「あ、の…?」
突然笑い出したヒノエを、望美が呆気にとられてみつめた。
「俺が、迷惑がるなんて思うかい、姫君?」
言葉にならなかった想いが溢れ出てくる。
「そ…れは、そうだけど…。」
にっこりと笑いながら問いかけるヒノエに対し、一方の望美は、しどろもどろになりながら呟いている。
「えと…。そんなこと考えてたわけじゃなくて、弁慶さんがするとこなんて見たくなかったし…。」
「俺だって、ご免こうむるよっ。」
「くすっ…ふふっ…。」
慌てて叫んだヒノエに、望美がやっと笑みを見せた。
そんな彼女にヒノエも笑みを返すと、自分の唇にそっと触れ、確かめるように目を伏せた。
「ありがとう、姫君。」
微かに残っている感触が、少しくすぐったく、そして温かい。
「今度は、ちゃんと意識のあるときにしてくれると嬉しいんだけどね。」
彼女に視線を戻してウインクをひとつ送る。すると望美は、またまた目を丸くして、何か言いたげに口をパクパクさせた。
「…ふふ。」
ふと空を見上げると、青く晴れた空に秋特有のうろこ雲が連なっていた。
そういえば、どこからか、金木犀の甘い香りも漂ってくる。
「望美…。」
ふと何かを思いついたヒノエは、彼女に近づいてその手を取ると、とある方向へ向かって歩き始めた。
illustration by 喜一さま
「ヒノエ君…?」
望美がいぶかしそうに問いかけてくるが、それには答えずに歩く。
しばらく行くと、思ったとおり大振りな樹が現れた。
甘く柔らかい香りを惜しげもなく放っている。
「うわぁ、大きな木…。これ、金木犀!?」
樹齢はどのくらいなのだろう、大きく円形に枝を伸ばし、枝先が地面につきそうな勢いで生長している。
幹に近づいて上を見上げると、重なった葉の間から日の光がキラキラと零れ落ちてきた。
さわやかな秋の空気と、金木犀の香りが溶け合って、清々しい空間を作り出している。
「弁慶の持ってきた枝より、こっちの方が格段にいいだろ?」
望美のまぶしいくらいに輝いた笑顔を見ながら、ヒノエもにっこりと笑った。
「もう、ヒノエ君ったら…。」
まだそこにこだわるのかとばかりに、望美が苦笑いする。
「別にいいじゃん。あいつには負けたくないんでね。特に姫君に関しては…。あ、いや。」
そこで言葉を切ったヒノエは、望美に近づいて顔を覗き込むと、ささやくように言った。
「おまえに関しては…だね。」
その行動に、望美の頬がパッと赤くなり、それと同時にその身が防御&攻撃体勢に入る。
「おっと、もう突き飛ばすのはナシ。」
ヒノエはくすっと笑いながら、ぴょんと後ろへ飛び退いた。
「ウブな姫君にいきなり無粋なことはしないさ。…したいのは山々だけど。」
後半は、くすっと笑いながら小声で呟く。
迫るたびに突き飛ばされるのも遠慮したいが、それ以上に、いきなりモノにしてしまうより、
ゆっくりと時間をかけて、自分に馴染んでくる彼女を見るほうが数倍楽しい。
「まずは…。」
ヒノエはひょいと飛び上がって、頭上にあった木の枝をつかむと、反動をつけて揺さぶった。
その振動で、満開になっていた花びらがはらはらと降ってくる。
「うわぁ…。」
木漏れ日の中に、小さなオレンジ色の花々が舞い散る。
一斉に舞ったせいで、その香りが一層際立った。
その光景に、望美が感嘆の声を上げる。
「お気に召したかい?」
長い髪に小さな花びらをちりばめた望美は、ヒノエに向かって極上の笑みを見せた。
「うん!」
「ああ、いい表情だね。」
そんな彼女に、ヒノエも満足そうに微笑み返す。
「そのうち…。」
舞い落ちてきた花びらを手のひらで受け止め、そこに頬を寄せている望美をみつめながら、ヒノエはそっと呟いた。
そのうちきっと、彼女の方から寄り添って来るようにしてみせる。
そしていつか、その全てを…。
「必ずいただくよ、姫君。」
秋の陽光が、二人の上に暖かく降り注いでいた。
illustration by 喜一さま
──了──
なんというか、可愛らしいカップルになってしまいました。 ヒノエの艶っぽいところとか色気とかが全く表現できなかった…(^^; まぁ、口説き文句を並べて女性を口説き落とそうと頑張ってる彼より、 好きな人を守ろうとして盾になってるような姿の方が断然好きなので わたしの書くヒノエは、これからもきっとこんな感じなのだろうと思います。 (とはいえ、この話の彼は、そんなにカッコいいとこもなかったですが//) 挿絵はコピー本にしたときに相方さんが、僅か数日で仕上げてくれたのですが、 どの場面もイメージぴったりで驚きましたv 最後に表紙を送ってくれたのですが、そのイラストの二人がとっても幸せそうで素敵だったので 話の最後の部分の場面をそのイラストに合わせてちょっと書き換えました。 コピー本では表紙でしたが、今回は挿絵として使わせて貰ってます。 タイトルが入ったままですが、 最後の場面の挿絵として見て頂けただけたら幸いです☆ ( サイト掲載日 2009 .11. 15 ) |