風に抱かれて 3
どこからか、子供たちのはしゃぐ声が聞こえている。
その声にふと気づいて目を開くと、見慣れた部屋の天井が目に入った。
窓にかかったカーテンの隙間からは、傾きかけた陽射しが柔らかく差し込んでいる。
首を回して壁にかかった時計に目をやると、針は4時前をさしていた。
「もう夕方か…。さすがに、よう寝たな…。」
喉が渇いたのでキッチンへ行こうと上体を起こすと、相変わらず重い頭がズキンと音を立てた。
「あかん…完璧に風邪ひいてもた…。」
疲れた体での山登りが堪えた上に、雨に濡れて帰ったのも追い討ちをかけたらしい。
(風邪薬、買うてあったやろか…。)
薬箱は、押入れの中に突っ込んであったような気がする。
とりあえず、飲み物と薬を…と思ってふらつきながら立ち上がったその時、
玄関のチャイムが甲高く鳴った。
(誰やねん…。)
無視しようかとも思ったが、ちょうど玄関の近くにいたので、重い頭を押さえながら扉を開ける。
「どなたさん…。」
「あれー、家にいたんだぁ。休んでるから学校さぼって遊んでるのかと思ったよ。」
「ほんとだー。」
ドアを上げた途端、けたたましい声が響いた。
「なんやおまえら、何しに来てん。」
以前よく一緒に遊んでいた女子たちだ。
いきなりまくしたてるテンションの高さに、思わずめまいを感じる。
「あ〜、あのさ、ライブハウスのチケットが手に入ったから一緒に行かない?
最近ご無沙汰してるしさ、みんなで一緒に遊ぼうよ!」
「パス。そんな金あらへん。」
「えー、即答!? あんた最近付き合い悪いよねー。」
「隣のクラスのなんとかっていう女子とはよく一緒に出かけてるって話じゃん。」
「ずるいよねー。」
第一声で断ったまどかにムッとしたのか、彼女らは口々に文句を言い始めた。
いつもなら言葉巧みにうまく丸め込めてしまえるのだが、今はそんな体力がない。
「悪いな、今そんな元気ないねん。治ったらまたな。」
「あれ、あんたもしかして風邪引いてんの?」
「ほんとだ、よく見たらボサボサじゃん。あはは、だっさ〜。」
「……。」
もう相手をする気力もない。
彼女らは、相変わらずのノリでキャピキャピと騒いでいたが、黙り込んだまどかに気づくと
「お大事にー。」などと言いながら帰っていった。
「なんやねん…。」
まどかは、玄関ドアをバタンと閉めるとベッドへ向かい、そのまま倒れこんだ。
今のでドッと疲れが増した。息切れまでする。
「風邪引いて寝とったんや、っちゅうねん。一目見てわからんか?」
何か飲もうと思って起き上がったのに、飲み損ねてしまった。
だが、もう一度起き上がる元気もない。
「はぁ…しんどいなぁ。」
先ほどの女子が言っていた、「隣のクラスの女の子」の顔がふと思い浮かんだ。
「あかん、身も心もボロボロや…。どないしょ…。」
ピンポーン。
その時、また玄関チャイムが鳴った。
「なんやねん、もう出ぇへんぞ。チケットタダでやる、言うても行けへんからなっ。」
まどかは無視を決め込み、掛布団を頭まで引き被った。
ピンポンピンポーン。
だが、まどかが出てこないことにイラついたのか、二度三度とチャイムが鳴る。
「しつこい、ちゅうねん。」
それでも無視していると、そのうち静かになった。
どうやら諦めたらしい。
だが、ホッとした瞬間、玄関のドアがガチャンと開く音がした。
「なんだ? カギ開いてんじゃねえか、無用心だな。」
「へ…??」
あの声は…。
「ほら、入れよ。遠慮すんな。」
「で、でも、お留守なんじゃ…。」
「留守は留守でも、居留守だよ。」
声の主は、勝手に家の中へ上がって来たらしく、足音がどんどん近づいて来たかと思うと、
いきなりまどかの布団をめくり上げた。
「うわっっ?」
「ほらな!」
まどかの枕元に立った和馬が、玄関の方を振り向いてニマッと笑った。
「鈴鹿!? な、なんやねん、いきなり…っ。」
「ぷ、ぷぷぷ…。なんだ、おまえボロボロじゃねえか、大丈夫か?」
「……。誰のせいやと思てんねん。」
ぼそっと呟きつつ、まどかはめくり上げられた布団を再び引き寄せようとしたが、
その上に和馬がドカッと腰を下ろした。
「ふ〜ん、やっぱり俺が原因か。」
まどかを見下ろして、意味ありげに笑っている。
「別に、おまえと一緒に補習受けてたからとか、そんなんちゃう。ちょっと無理がたたっただけや。」
無断欠席したので心配してきてくれたのだろうが、今はコイツの顔を見ていたくない。
『好きな人に気持ちを伝えるのって難しい』、そう言っていた彼女の顔がチラついた。
「補習って、ヤなこと思い出させるよな。」
そう言いながら和馬はかばんの中からごそごそとプリントを取り出した。
「ほら、今日の授業の分。言っとくけど、内容についてはノーコメントだかんな。」
「わかっとるわ、サンキュ…。用が済んだんならもう帰れ。風邪がうつるで。」
「おまえ、そんなに俺の顔を見てるのイヤかよ。」
「別に、そんなんちゃう…。」
図星だが。
和馬が布団を返してくれないので、仕方なく起き上がる。
「バイト先に電話しとかな…。さすがに今日は無理……。え?」
ふらつく頭を押さえながら、携帯を探そうと立ち上がったまどかだったが、ふと顔を上げた瞬間、止まってしまった。
「な…んで、自分がここにおるん…?」
制服姿のが玄関ドアの内側に立ってこちらを見つめている。
「姫条くん、それって…。昨日着てたシャツだよねっ?」
「え? あ〜、そやった…かな?。」
目がテンになったままだが、彼女の迫力に押されて、とりあえず答える。
「昨日、雨に濡れて帰ったまま、着替えてないの!?」
「あ〜、やっぱ汚いわな…。すまん、近づかんといて。」
それにしても何故、彼女がここにいるのだろう。
だが、なにげなく和馬を振り返ったとき、ふと合点の行く答えが浮かんだ。
「あ、そーか。おまえら下校デートか…。なんや、そやったらプリントなんかポストに
放りこんどいてくれたら良かったのに。」
まどかは壁にもたれかかったまま、苦笑いを浮かべて二人を見比べた。
突然のことで驚いたが、二人で帰る途中だとしたら納得できる。
「頑張ってるやん…。ほな、もう帰りや。こんなトコで時間潰してたらもったいない…。」
「おまえ、ほんとにバカだな。そんなになっててもまだ、人の心配してんのかよ。」
に対して小声で言ったつもりだったが、狭い家の中、和馬にも丸聞こえだったのだろう。
ベッドに腰掛けている和馬が呆れ顔でそう言った。
「どういう意味やねん…。」
ボーっとしていて頭が回転しないが、バカ呼ばわりされる覚えはない。
「鈴鹿くんは私をここへ連れてきてくれただけよ。部活があるのに私の心配してくれて。」
「心配…。そーかぁ、いい方向へ進んでるんやな…。」
まどかは、目を逸らせて苦笑いを浮かべつつそう言ったが、はその様子をじっと見つめたまま、
さっと部屋に上がってきたかと思うと、まどかに近づいていきなりシャツのボタンに手をかけた。
「脱いで。」
「…は…? 」
彼女の言ってる意味が理解できず止まってしまう。
だが、その間にも彼女はどんどんボタンを外し始めた。
「え? ええええ〜〜!? な、な、なにすんねんっっ。」
思わずのけぞったが、昨日のつり橋と違って背後は壁で後がない。
「おまえ、ほんとに大胆だなぁ…。」
の後ろで呆気に取られている和馬の姿が、目に入った。
目を丸くして、ご丁寧にも口をぽかーんと開けている。
「ちょっ…やめぇ…って。 あいつに誤解されるでっ。」
「誤解してるのは、姫条くんじゃない。」
焦りながら小声で言うまどかに、は有無を言わせぬ口調でそう言った。
「え…?」
「鈴鹿くん、乾いたタオルを何枚か取ってきて。1枚はお湯で濡らして絞って…。
それと、着替えも。出来たらパジャマがいいわ。あと、シーツと…。」
首をかしげるまどかに答えず、は背後の和馬を振り返った。
「お、おう。」
彼女の指示を受けながら、和馬がバタバタと走り回っている。
「ほら、タオル、これでいいか?」
「ありがと。」
なにがなんだか、訳がわからない。
「ほんとはシャワーでも浴びて来たほうがいいんだろうけど…。あ、ちょっと座ってくれる?」
「あ? ああ…。」
ボタンを外し終わっていたは、そう言うと、腰を下ろしたまどかからシャツを奪い取って、
濡れたタオルで胸元を拭き始めた。
「ちょ…っと待てっ。自分でするさかい…。」
さすがにこれ以上されると、ボーっとしている頭に血が上って、更に熱が上がりそうだ。
まどかは慌てての手からタオルを取り上げて、体をざっと拭いた。
「これで…ええか?」
それを見て、乾いたタオルをまどかに渡した彼女は、代わりに受け取った濡れタオルでまどかの額を拭き始めた。
「濡れて帰って着替えもしないなんて…風邪引いて当然じゃない。だから傘を貸してあげるって言ったのに…。」
「あぁ、そやな…。」
昨日は、あの後ひとしきり雨に濡れながら家に帰り着いたが、ドアを開けた途端に猛烈な疲労感に襲われた。
とりあえず上着は脱ぎ捨てたものの、沈み込んだ気持ちと体のだるさに負け、そのままベッドへ倒れこんだのだった。
「ごめんね、昨日…。やっぱり、無理させちゃってたんだね。」
はそう言うと濡れタオルを床に置き、反対側の手をスッと伸ばして、まどかの前髪をかき上げた。
そういえば、濡れたまま横になったので、髪もボサボサだろう。
「そんなんちゃう…。行きたかったから、行ったんや。」
彼女の手櫛が心地良い。
乾いたタオルを肩にかけたまどかは、壁に背を預けて目を閉じた。
「自分と…一緒に行きたかったから…。」
髪を梳くように撫でてくれる彼女の手から、体の中へエネルギーが流れ込んでくる。
柔らかく温かな感覚に包まれていく。
「うん、わたしもそう思ったんだよ? 姫条くん…。」
その声が心地良く響き、意識を遠くさせた。
「あ〜。ごほんっっ…。」
どのくらい時間が経ったのか、或いはほんの一瞬のことだったのか、
不意に聞こえた咳払いにハッと意識を覚醒させて目を開くと、和馬が苦笑いを浮かべて立っていた。
その声に、の手もスッと離れる。
「ほら、パジャマ。これでいいか?」
振り向いた彼女に、和馬がスエットの上下を投げてよこした。
「キャラクターもんのパジャマとか、なんか笑えるやつがないかと思って探してみたけど、
そんなのしか見当たらなかったぜ。」
「あるか、そんなもん。おまえなら着るかもしれへんけど。」
「なんだ? もうそんな軽口叩けるくらい復活したのかよ。ゲンキンなヤツだな。」
和馬がニヤリと笑っている。
「ありがとう、鈴鹿くん。」
「んじゃ俺、もう行くわ。部活サボれねえし。」
「あ、じゃあ私も…。」
まどかに着替えを渡したは、和馬のその言葉を受けて立ち上がった。
「あぁ…。ありがとう…な。」
当然のこととはいえ、和馬と行動を供にしようとする彼女の姿に心が揺れる。
「…姫条、いいこと教えてやろうか。」
だが、そんなまどかを見ていた和馬が、スッと膝をついて小声で言った。
気持ちが沈んでいるところへ、雨の中ずぶ濡れになって帰ったら、
十中八九、風邪ひくだろうなぁ…ということでこういう展開になりました。
和馬については、自分が原因で二人の仲がこじれたことに気づいて
なんとかしてやろうと思ってるわけですが、
彼の性格上、仲を取り持つなんて器用なことはやっぱり無理なようで(^^;
ただ茶化しに来ただけ、になっちゃいましたが、
まぁ、彼の行動としては、このあたりが妥当かな〜と思います(笑)
( サイト掲載日 2010. 1. 19 )