春風の贈り物 2



「風早、わざとか?」

「…ん?」

「本当は付いていくつもりだったのだろう?」

カリガネがいつもの単調さで核心を突いてくる。

「あ~、まあね。でも彼が現れてくれてちょうど良かったんだよ。」

あの宴以来、忍人は千尋を避けているように見えた。
恐らく、おかしな噂が立ってしまったので、自重しようとでも思ったのだろう。

「千尋が少し落ち込んでいたからね。」

菓子を作りたいと言い出したのも、忍人に近づくきっかけを作りたいと思ったからのようだった。
そんな前提があって菓子作りの相談をしていたものだから、いきなり彼が現れたときは一瞬動揺してしまったけれど。

「結果的に手間が省けたよ。」

カリガネがどこまで理解したかはわからないが、風早はそれ以上は何も言わずににっこりと笑った。





「い、意外と遠いなぁ。」

早足のまま歩を進めながら、千尋は大きく息をついた。

勢いに任せて飛び出したものの、近くに見えた牧場は思ったより広く、丘の上あたりで草を喰む牛になかなかたどり着けない。

すぐに戻るつもりで駆けてきたが、なだらかな登り坂が延々と続くせいで、さすがに息が切れてきた。

「はぁ、のど乾いた…。」

立ち止まって息をつくと、近くにある小さな森の中から、微かに水音が聞こえてきた。

「小川があるのかな。」

誘われるように森に入ると、すぐに清流が見つかった。
手を浸すとしびれるほど冷たいが、すくって口をつけると火照った体に気持ち良くしみ込んだ。

「はぁ〜、美味しい。」

「そうだろ、このうまい水に育てられた草を食ってるおかげで、ここの牛たちはいい乳を出すんだよ。」

不意に聞こえてきたのんびりとした声に千尋が慌てて顔を上げると、この辺りの者だろうか、荷物を背負った若者が立っていた。

「君、見ない顔だね。どっから来たの。」
 
「ええと…向こうの村の方…から?」

不用意に名乗るわけにもいかないので、適当に濁す。

「ふうん、ひとりで?なんで?」

だがその若者は特に不審がることもなく、話を続けた。
見知らぬ若い女性が一人で居ることに興味を覚えたらしい。

「牛乳…牛の乳を分けてもらいたくて。あなたはここの牧場の人ですか?」

「うん、そう。欲しいならもっと上へおいでよ。俺も今から帰るとこだから。」

そう言って手を差し出してくる。

「え?大丈夫、一人で歩けますから。」

「遠慮しないでさ、ほら。」

強引に手を引っぱられ、足がもつれそうになる。

「ちょ、ちょっと待って…っ。」

「そう言えば、君、お代持ってるの?」

お代、牛乳の代金のことだろう。

「あ…。」

最近は自分で買い物をすることがなかったので、うっかりしていた。

「急いで飛び出してきたから、何も持ってなくて…。ゴメンなさい、出直してきますっ。」

そう言って手を振りほどこうとしたが、彼は千尋の手首を強く掴んだまま離そうとしない。

「君、なんかワケありでしょ。そんな軽装で荷物も持たずにこんなところにいるなんて。大方、どこかの豪族の屋敷から逃げてきた下僕…ってとこ?」

「…えっ?」

思いがけない言葉に驚いていると、人の良さそうな顔の下に、下心のようなものがちらつき始めた。

「うちで匿ってあげようか。その代わり、今度は俺のものになる、ってのはどう?」

にやりと笑われて、背筋が寒くなる。

「わ、わたしはそんなんじゃ…。」

「よく見たらいい服着てるよね。豪族のオヤジの相手でもさせられてたんでしょ。そんなやつより俺の方がずっと若くてカッコいいと思わない?」

物腰は柔らかだが、有無を言わせるつもりはないらしい。
千尋の手首を掴んだまま、ぐいぐいひっぱって行こうとする。

「違うって言ってるでしょ、離してよ!だれか、助け…っ。」

「だから、言っただろう。単独行動など言語道断だと。」

そのとき、怒りを抑えたようなくぐもった声が聞こえた。

同時に空気を切り裂くように何かがヒュッと飛んできて、若者の後ろの樹木に刺さった。
千尋を連れさろうとしていた彼の横髪が一房パサリと落ちる。

「へ?」

目を見開いて固まった若者が、ギギギと音がしそうな所作で後ろを振り返る。

「け、け、け、剣…っ!?」

若者が振り向いた先にある樹の幹には、高価そうな短剣が突き刺さっていた。

「手元が狂ったか。」

「お、忍人さん…?」

「脳天を貫くはずだったんだがな。」

突然現れた忍人は、二人の前をスタスタと通り過ぎ、幹に刺さった短剣を抜きとるとパチンと鞘に収めた。

「つ、つらぬく…っっ?」

忍人が若者をじろりと睨むと、彼はその迫力に腰を抜かして尻もちをついた。

「忍人さん、なに言ってるんですか!この人は中つ国の人ですよ?一般人ですよっ。」

「それがどうした。この者は君をかどかわそうとしていただろう。」

千尋を見つけたのと同時に、目に飛び込んできたのは、手首をつかまれ強引に引っ張られている彼女の姿だった。
それを見た瞬間、胸が大きく波立った。

「民がその国の王族に不敬を働けば即ち大罪だ。君は仮にも中つ国の二のひ…。」

「忍人さん!」

千尋が慌てて駆けてきて、忍人の口を手でふさいだ。

「それ言っちゃダメって風早にいつも言われてるじゃないですかっ。」

唇を塞ぐ、彼女の柔らかな手の感触。
そして若者に聞こえないように配慮してか、顔を近づけて囁くように訴えてくる。

「……っ……。」

不覚にも顔が微かに熱を持つ。

「どこに敵がいるかわからないんですよっ。」

だが忍人は、その熱に気づかないふりをして彼女の手をつかんだ。

「君もよくよくおかしなことを言うな。身分を知られることが危険だとわかっているなら、なぜもっと用心しない。」

こちらも声を落として近距離のまま言う。

「俺は何度も言ったはずだ、護衛をつけろと。」

「っ…それは…風早に大丈夫だろうって言われたから…。でも、ゴメンなさい…。」

千尋が風早のことを信じているのは、彼女の生い立ちを思えば当然のことだ。
彼女にとって風早は、絶対的な存在なのだろう。

それは頭では理解できる。
理解しているつもりだが。

「身をもってわかったのなら、これからは俺の言うことにも耳を傾けて欲しいものだな。」

彼女にとっての一番が自分ではないことに、微かな苛立ちを覚える。

「はい…。」

もっともだと思ったのか、千尋はしゅんと俯いてしまっていた。

「では帰るぞ。長居は無用だ。」

彼女の手を離し、背を向ける。

「あ…。待って忍人さんっ。」

その声を敢えて無視し歩を進めたが、千尋が追いかけて来る気配がない。

気になって振り向くと、彼女は先程の若者になにやら話かけていた。

「姫…いや…千尋っ。何をしている。」

急に名前呼びをしたので若干噛みそうになりながら、彼らのところに戻ると、若者がコクコクと必死な形相で頷いていた。

「忍人さん、この方に牛乳をわけてもらいたいんです。ちょっと行ってきていいですか?ここは彼の牧場だから、もう危険なことなんてないだろうし…。」

「千尋、さっきの話を聞いた上で、俺に先に帰れと言っているのか?」

どこまで能天気なのかと頭が痛くなりそうだ。

「ええと…忍人さんも忙しいだろうし…あまり迷惑をかけたくないかなって。」

確かにあの宴以来、面と向かって話すのがなんとなく憚られて、彼女に出くわす度に忙しそうなふりをして立ち去っていた。

「なるほど。俺にも原因があったということか。」

忍人は自戒もこめて、大きくひとつ息をついた。

「千尋、俺にとっての最優先事項は君の安全を守ることだ。それだけは覚えておいてくれ。」

「…っ…そうですよね。大将を守るのは一番大事なお仕事ですよね。重ね重ねすみませんでした…。」

千尋が申し訳なさそうに頭を下げた。

「義務や職務で言ってるわけではないんだがな。」

「え…?」

「いや。ほら、さっさと片付けるぞ。」

千尋に真意を問われる前に歩き出す。

先程の若者は、忍人の登場によほど肝を冷やしたのか、二人からつかず離れずの距離感で先導してくれていた。




「忍人さんが皮袋を持っててくれて助かりました。」  

千尋が牛乳を入れた袋を嬉しそうに抱えている。

「ああ。役に立ったようで何よりだ…が。」

代金どころか、そんなものさえ持たずに飛び出して行ったのかと、突っ込みたくなる。
だが、今そんな小言を言うのは、さすがに無粋に思えた。

「俺も風早に押し付けられただけだしな。」

彼は、最初から忍人が追いかけるとわかっていたのだろう。いや、そうなるよう仕向けたのか。

「全く、食えない男だ。」

「……?」

「こちらの話だ。それより姫、これで菓子の材料とやらは揃ったのか。」

「あ、はい。思ってるのと同じようなものが出来るかは微妙なんですけど…。」

横を歩く千尋は、時折忍人を見上げながら、楽しそうに菓子の話をしていた。
興味のある話題とは言い難かったが、彼女の屈託のない笑顔が向けられているのは嬉しく思える。

そうこうするうちに、天鳥船の入口が見えてきた。
思えば、こんなふうに他愛のない話をしながら二人で歩いたのは初めてかもしれない。

「さて、ここまで来ればもう護衛の必要はないな。」

柄にもなく離れ難く感じたが、それに気づかないふりをして、足を止めて彼女を見る。
同じように歩みを止めた千尋が、忍人に向き直った。

「はい…忍人さん、今日はありがとうございま…っ…わっ!?」

忍人に頭を下げようと一歩後ろに足を引いた千尋は、拳ほどの石に蹴つまずいた。
放物線を描くように後ろへ倒れていく。

「姫っ。」

咄嗟に彼女が伸ばした手を掴んで引き寄せる。
だが強く引きすぎたのか、千尋はそのまま忍人の胸に飛び込んできた。

「きゃっ……たたた…。」

「…す、すまない…。」

「っ…いえ、こちらこそ…。」

胸の中で顔を上げた千尋は、鼻の頭を赤くして、ほんの少し涙目になっていた。
その様子が思いがけず可愛らしく見える。

「……。」

彼女の柔らかい香りが鼻をくすぐる。
忍人は無意識に彼女を抱きしめた。

「…ぁ…っ。」

千尋は一瞬固まっていたが、やがて忍人の胸に頬を預け、その上着をそっと握った。
その感覚にハッと意識が連れ戻される。

「…あ…重ね重ねすまないっ。」

「い、いえ…。」

慌てて抱擁を解くと、彼女はほんのりと頬を染めて目を逸らせた。
なにやら微妙な雰囲気が漂う。

「わ、私の方こそ、何度も助けて貰って、ありがとうございました。」

それを振り払うように、千尋が今度こそしっかりと頭を下げた。
そのまま踵を返して船に入って行くのかと思われたが、彼女はなぜかその場を動こうとしない。

「姫…?」

「あ、あの…忍人さん!ひとつお願いがあるんですけどっ。」

一瞬、戸惑いを見せた後、千尋は思い切ったように顔をあげた。















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