春風の贈り物1
渡っていく風が柔らかな香りを含んで通り過ぎていく。 季節はゆっくりと移ろい、殺風景だった堅庭にも少しずつ草花の息吹が感じられるようになった。 もっとも、寒かろうが暑かろうが、ここがちょうど良い場所であることに変わりはない。 忍人はいつものように、空いた時間を鍛錬にあてようと堅庭に足を踏み入れた。 「それなら甘葛と寒天でなんとかなるのではないか。」 「いや、それじゃただのゼリーになるだけでしょう。」 「ぜりぃ…?」 「やっぱり牛乳や卵がないとダメよねぇ。」 「そんなものこっちの世界にあるのか?てか、なんで僕が巻き込まれてるのさ。」 陽気に誘われて外に出てきたのだろうか。 和気あいあいと何事か話し合っている集団に出くわした。 「まぁまぁ…那岐なら千尋の言うスイーツのイメージわかるでしょ?」 「そうだよ、いつも昼寝してるだけなんだから暇でしょ、一緒に考えてよ。」 「イメージわいても作ったことなんかないんだから、役には立たないよ。それに暇だから昼寝してるんじゃない。 これは僕のライフワークなんだ。」 何事か屁理屈らしきことを述べながら、那岐がこちらへ歩いてくる。 「カリガネは料理の天才だろ、それらしいもの作ってやりなよ。僕は他で…、……あ。」 「…他で昼寝をするのか?この時勢に呑気なことだ。」 忍人に気づいた那岐は一瞬驚いたように歩を止めたが、嘲笑まじりのその言葉にすぐにムッとした表情になった。 「それを言うなら『このご時勢』にスイーツなんか作ろうとしてるあいつらの方がよっぽど呑気なんじゃないの?」 「すいーつ…?」 「あんたの責任でもあるんだから、さっさと行って止めてきなよ。」 「俺の責任?」 理解不能なことを並べる那岐に忍人は眉を寄せたが、それに構わず彼は横を通り過ぎて行った。 「あ、忍人さん!」 那岐の後姿を横目で見ていると、嬉しそうな声が飛んできた。 「姫…。」 そちらへ目を向けると、彼女の後ろにいた風早とカリガネもこちらに気づいたようだった。 「忍人…?」 だが何故か風早は、なぜか驚いた様子を見せた。 「珍しい面子(めんつ)で集まっているな。」 「お、忍人こそ、こんなところに来るなんて、珍しいですね。」 「……。俺はいつもここで鍛錬をしているが?」 「あ~そうでしたっけ……ははは…。」 明らかに様子がおかしい。 ふと見ると、さきほどは嬉しそうにしていた千尋も、今はなぜか視線を彷徨わせていた。 「え、ええっとですね、実は千尋がお菓子を作りたいと言うので、カリガネに相談してたんですよ。」 「菓子?」 風早の言葉に怪訝な顔を向けると、千尋が気まずそうに風早の袖を引いた。 「ちょっと風早…。」 忍人にわからないようにやってるつもりらしいが、丸見えだ。 「あ、え~っとほら、こんな状況下で難しいことばっかり考えてたらストレス溜まっちゃうでしょう。 千尋にも息抜きが必要っていうか…。だからここは大目に見てやって…。」 「なぜ俺の許可を取る必要がある。」 忍人は彼の言葉を遮るように、口を開いた。 千尋は、風早の背に半分隠れるようにして彼の袖を掴んでいる。 「軍に関わることならともかく、そのようなことにまで口を出すつもりは毛頭ない。」 先日も息抜きという名目で盛大に宴を開いていたが…とふと思ったが、そこには自分も絡んでいたようなので敢えて触れないでおく。 だが、忍人から視線を外して何故か気まずそうにしている彼女の様子に、胸の奥がざらりと嫌な音を立てた。 「姫個人のことなど俺の預かり知らぬこと。勝手にすればいい。」 「……っ。」 千尋がハッと目を見開くのが見えて、一瞬しまったと思った瞬間、風早の抗議を含んだ声が飛んできた。 「忍人。」 「…っ…。」 最近、千尋を前にすると平常心でいられなくなる自分を感じる。そんな自分が時折腹立たしくなる。 「……すまない。言葉が過ぎた。」 誰にともなく謝って、彼らの前を通り過ぎる。 「失礼する。」 当初の目的であった鍛錬をするため彼らから離れた忍人は、もやもやとした思いを振払うように剣を抜いた。 「それで、姫。足りない材料とやらの調達はどうするのだ。」 何事もなかったように、カリガネが口を開くのが聞こえてくる。 「あ、う、うん…。風早、こっちの世界に牛乳ってあるのかな…。」 千尋は、気を取り直した様子で無理やり笑顔を作っているようだ。 「流通してるとは言えませんが、ないことはありませんよ。確かこのあたりなら、牧場のようなものもあったような。」 「ほんと?」 その言葉に彼女は堅庭の端に行って地上の景色を見下ろした。 (…っ、危ないな。) 断崖絶壁になってるわけではないので、もしそこから足を滑らせたとしても、大事に至ることはない。 だが、全くの無傷ではいられないだろう。 (風早はなにをしているんだ。) 剣を振るいながらも気になって仕方がない。 「姫、そう言えばもうすぐ補給のために地上に降りるとサザキが言っていた。そろそろではないか?」 カリガネの言葉に、物質補給に出るための人員とその警護に当たる兵を出して欲しい、と道臣から依頼があったことを思い出す。 たが何か引っかかる。 「あ、ほんとだ。降り始めたようですよ。」 風早の言う通り、ゆっくりと降下し始めた天鳥船は、やがて微かな振動とともに穏やかに着地した。 ところどころに森が見えるが、景色は開けている。どうやら草原の片隅に着地したらしい。 遠くに大型の獣らしき姿が見えるが、のんびりと草を喰んでいるようだ。 「風早、あれってもしかして牛!?」 「ああ、ほんとだ。うまい具合に牧場の近くに降りてくれたようですね。」 「じゃあ、牛乳分けてもらえるかな。」 彼らから発せられる聞き馴染みのない言葉の羅列に、頭の中で首を傾げながら剣を振るう。 だがそのうち、とんでもない会話が聞こえてきた。 「じゃあ私、ちょっと行ってくるね。少し分けてもらえないかお願いしてみる!カリガネ、下準備しておいてもらえる?」 「承知した。」 「気をつけて行くんですよ。寄り道しちゃダメですからね。」 一人で出ていこうとする千尋に、風早はひらひらと手を振っているらしい。 「……なっ、ちょっと待て!!」 そこで忍人はたまらず声を上げた。 その声に3人がキョトンとした顔を向けてくる。 「姫、護衛は!俺は正規の補給部隊の派遣とその警護依頼しか受けていないぞ。」 「まぁ、そうでしょうねぇ。今そういう話になったばかりだし。」 風早がしれっとそんなことを言う。 「どこまで脳天気なんだ君たちはっ。こちらとしては、今更、兵は割けないぞ。姫、諦めろ。」 「あの…私なら大丈夫ですよ、すぐそこだから迷うこともないだろうし…。」 「姫、迷う迷わないの問題ではない。君のような立場の人間をひとりで行動させるわけにはいかないと言っているんだ。」 「まぁ、確かにそうですねぇ。」 風早が同意したので、とりあえずホッと息をつく。 「俺がついて行けたらいいんですけど。実は急ぎの用事があったのを思い出してしまって。千尋、すみません。」 どうやら諦めさせる方向でまとまりそうだ。 だが、これで一件落着かと気を緩めたとき。またしてもとんでもない発言が飛んできた。 「でもまぁ、あそこなら目と鼻の先だし、さほど危険もなさそうだし。今回は千尋ひとりでも大丈夫じゃないですか?」 「な…んだと風早、正気かっ?」 二の姫をずっと守ってきたはずの彼の言葉に、忍人は呆気にとられた。 「それとも、なにか危うい情報でも?」 「い、いや、それは…。」 確かにこの辺りに敵の気配はないとの報告は受けている。 だが、仮にも千尋は中つ国を背負って立つ王族の姫だ。 もしも何かあったら、取り返しのつかないことになる。 「大丈夫ですよ、忍人。千尋ももう子供じゃないんだから。」 「そ、そのようなこと、百も承知だっ。」 そもそも彼女の子供時代など、当時遠目に見かけていたくらいでほとんど記憶にない。 (い、いや、そういう問題ではなく…っ。) 「…あ~、すまないけれど、急ぐので俺はこれで。じゃあ千尋、頑張ってくださいね。」 止めなければと思うのに、混乱して絶句している間に話はどんどん進んでいく。 「うん。じゃ、ちょっと行ってきます。忍人さんも心配しないでくださいね。大丈夫、すぐに戻りますから。」 そう言ってにっこり笑った千尋は、今度こそ駆け出して行ってしまった。 「あっ。待て、姫! …おい風早、一体どういうつもりだっ。」 「何がです? あ、そうだ忍人。これ、あげます。」 我に返って風早に掴みかからんばかりに迫ると、胸元にグイッと何かを押し付けられた。 「何だ、これはっ。」 「見ての通り、水筒…水入れ用の袋ですよ。」 確かになんの変哲もない、ただの皮袋だ。それは見ればわかる。 だから、これがどうしたと言うのだ。 だが忍人が口を開く前に、それを遮るように風早が緊張感のない声を出した。 「あ、千尋行っちゃいましたねぇ。彼女、意外と足が早いんですよね〜。」 忍人が慌てて振り返ると、その言葉の通り、千尋の姿は影も形もなくなっていた。 「さすが俺がお育てした姫、勉強も運動も出来る文武両道の素晴らしい姫君になって…。」 風早が越に入った様子でウンウンと頷いている。 「……っ。どいつもこいつもっ。」 これ以上、追及している暇はない。 忍人は小さく舌打ちすると、彼女の後を追うべく駆け出した。 |
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