花舞う空へ君と 3

シュンシュンと湯の沸く音がする。
緩く浮かび上がった意識の中に、その音は心地よく響いてきた。

それ以外に物音はせず、辺りは穏やかな空気に包まれている。
こんなにゆったりした気分になるのは、どのくらい振りだろうか。

(千尋に出逢って、半ば強引に手に入れて…。)

彼女も憎からず想ってくれていたようで、やっとその心も手に入れた。
満たされた気持ちのまま、彼女のことを想う。

(あいつを抱こうとして…結局また邪魔が入ったな。)

だが時間はいくらでもある。
苦笑いが浮かぶのを感じながらも、これからのことに思いを馳せると満たされた気分になった。

だが。

(………。)

ぼんやりとした意識の中で、何かが引っかかった。

(…静かだな。)

そうだ、静かすぎる。
常世の国を変えようと奔走している自分の周りが、こんなに静かで穏やかであるはずがない。

『私がなんとかするから、アシュヴィンはしばらくゆっくり休んでて…。』

ふと、千尋の声が甦った。
その声は、彼女が中つ国を率いていた時のように、凛々しく頼もしい響きに満ちていたが。

部屋の中には、相変わらず湯の沸く音が響いている。
そのとき、カチャっと扉の開く音がした。

穏やかな空間に入り込んできた異質な音に、ハッと意識が覚醒する。
その瞬間、千尋とのやり取りが一気に甦った。

『南方の領主との交渉の件よ。私が行くから。』

「そうだ、千尋っ。」

「…うわっ。で、殿下っ?」

ガバっと身を起こすと、水桶を持っていたリブが驚いて仰け反った。

「リブ、千尋はどうしたっ。」

部屋の中は明るい光に満たされている。
千尋と半ば喧嘩状態になりながら話したのは、夕刻だったはずだ。

「ああ、ええと…。意外と早いお目覚めでしたね。遠夜殿は丸一日とおっしゃってましたが…。」

「千尋はどうしたと聞いている。」

あからさまに話を逸らす彼に、アシュヴィンは眉をひそめた。

「や、困りましたね…。殿下がお目覚めになる前に片付くはずだったのですが…。」

リブがもごもごと呟いている。
そんな彼を、アシュヴィンは射貫くような目で見た。

「あ~…すっかりお元気になられたようで…。さすが殿下ですね、回復がお早くて…。」

それでもリブは話題を逸らそうとしたが、アシュヴィンから発せられる無言の圧に耐えかねてしぶしぶ白旗を上げた。

「姫様でしたら、昨日おっしゃっていた通り、今朝方、南方の領主の地へ赴かれました。」

アシュヴィンがここまで回復しているなら、ほんの少しの誤魔化しも効かないだろう。
彼を知り尽くしたと自負するリブは、そう悟って端的に事実を告げた。

「な…んだと…?」

案の定、アシュヴィンは怒りを顕わにした。

「や、もちろんお一人ではありませんよ。側近の皆さまがしっかりと周りを固めておられますので。それに…。」

「リブ、なぜ止めなかった!」

自分が大反対していたことを、横で見ていたリブは百も承知していたはずだ。
アシュヴィンはリブを睨みつけたが、彼は開き直ったのか、笑顔を浮かべて言い放った。

「ですが殿下、私としては体調不良も甚だしい殿下を送り出すことなど到底できません。とはいえ、領主との対談を反故にすることの不利益も重々承知しております。そこへ殿下の妃であられる姫様が代役を買って出てくださったのですよ。これ以上良い解決策はないと存じますが。」

客観的に聞いていれば、立派な正論だ。

「それに、こちらの兵、一個中隊に後を追わせましたので警護は充分かと。」

リブは僅かに胸を張ってそう言う。
宮の中が静かだと感じたのは、兵の数が減っていたからだろう。
だが。

「兵をつけたところで何の意味がある。千尋は交渉に行ったんだぞ。相手と向かい合って話す状況で敵意を向けられたとて、外に控えている兵など何の役にも立たんっ。」

「はぁ…。しかし抑止力にはなるのでは…。」

だが、アシュヴィンの言うことも尤もだと思ったのか、リブは更に言葉を繋いだ。

「まぁ、兵はおいておくとしても。いま姫様のおそばにおられるのは、精鋭中の精鋭であられる中つ国時代からの側近の方々。有能な軍師であられる柊殿に、優秀な鬼道使いの那岐殿、軍神のごとき布都彦殿、更には葛城将軍などは言うに及ばずですし。あ、『俺の姫』が口癖の風早殿なんて特に、己を顧みず姫様を守って下さるかと…。」

「…リブ、おまえ俺に喧嘩を売ってるのか?」

朗々としゃべっていたリブがその声にふとアシュヴィンを見ると、彼は怒りを抑え込んだ顔で、拳をプルプルと震わせていた。

「千尋は俺の妃だ、他の男どもに守らせるなど看過できんっ。」

「あ~、気に入らないのは結局、そこなんですね。」

アシュヴィンは本気で怒っているようだが、その根底にある彼の可愛い嫉妬に、リブは笑みが浮かぶのを隠せなかった。

「ともかく、もう昼過ぎですし、姫様方も既にあちらへ到着されているはず。交渉の行方は気になるところですが、あとは姫様にお任せして、殿下はもうしばらくお休みくださ…。」

「着替えを持ってこいっ。今すぐだ!」

だがアシュヴィンは、リブが言い終える前に、毛布を投げ捨てて立ち上がった。

「え?何をなさるおつもりで…。」

「後を追うに決まっているだろう。もういい、どけっ。自分でやる。」

夜着を脱ぎ捨てたアシュヴィンは、呆気に取られて動こうとしないリブを押しのけた。

「し、しかし、今申し上げた通り、皆さまもうとっくにあちらへ到着されて…。うわ…っっ。」

慌てて止めに入ろうとしたリブの前に、いつの間に召喚されたのか、いきなり黒麒麟が現れた。

「で、殿下、ここは室内ですっ、こんなの召喚しないでください~っっ。」

「こんなのとはなんだ。言葉を慎め。」

あっという間に身支度を終えたアシュヴィンは、黒麒麟の背に手をかけた。

「リブ、この宮を守る兵の数が減ってるんだ、有事の備えは万全にしておけよ。何かあったときはお前が指揮を取れ。」

「わ、私がですかっ?」

「誰のせいでこんな事態になったと思ってる。」

「そんな殺生な…。」

どう考えても最善の対応だったはずなのに、アシュヴィンに冷たく言い放たれて、リブはこれ以上ないくらい情けない表情になった。

「後は任せた。」

「あ、お待ちください、殿下、殿下~~っっ。」

必死に止めようとするリブをかわしたアシュヴィンは、黒麒麟に飛び乗ると、窓から飛びだして空へと舞い上がった。




「近くで見れば見るほど、悪趣味な城だな。」

目の前の小高い丘にそびえ立つ城を見上げながら、那岐が呆れたように呟いた。

「根宮からかなり離れた場所のはずだけど、まるで王都のような構えだね。」

横に並んだ風早が、同意するように言う。

「王都から離れているからこそ、ですよ。この辺りの領主は、隙きあらば反乱を起こして独立しようとしている。あわよくば政権を奪うことまで画策しているんです。」

「さすがは柊。常世の内情にはずいぶん詳しいようだ。」

講釈するように話す柊に、忍人が嘲笑を向けた。

「おや、君から褒め言葉をもらえるとは思っていませんでしたよ。恐縮です。」

「誰が褒めている。」

大袈裟に喜んで見せる柊に、忍人が不快そうに横を向く。

「おや、照れなくてもいいじゃないですか。君はもっと自分の気持ちに素直になった方が…。」

「貴様、俺に剣を抜かせたいのか?」

あくまでも絡もうとする柊に、忍人からゆらりと殺気が立ち上る。

「まぁまぁ、忍人。落ち着いて…。」

「柊もわかってて煽るんだから、たちが悪いよな。」

「俺は落ち着いているっ。それより風早、あちらの守りはずいぶん固いようだが、これからどうするつもりだ。」

もともと攻めにくいように建てられた城は、リブが送り込んできた軍隊を見て更に強固に守りを固め、容易に近づけなくなっていた。

「リブも余計なことするよな。ほんと何考えてんだか。」

那岐が面倒くさそうにため息をついたとき。
頭上からバサバサと羽音が響いた。

「ほい、姫さん、お疲れさん。」

地上に降り立ったサザキが、抱きかかえていた千尋をひょいと下ろす。

「ありがとう、サザキ。」

「おかえりなさい、二人とも。どんな様子でした?」

「城門へ続く一本道の両側には、一定間隔で兵が身を隠してるぜ。こっちに戦意がなくても問答無用で襲いかかってくるな、あれは。」

「アシュヴィンが、俺も手を焼いてるって言ってたけど…。ほんと手強そうね。」

まず話を聞いてもらうところから始めなくてはならないらしい。

「ですが我が君、現政権にしぶしぶ従っている勢力なら、うまく交渉すればこちらに与する確率も高いということですよ。」

「問題は、交渉の糸口をどうやって掴むかだな。」

柊の言葉に、今度は忍人も嫌味を含ませずに応じた。

「わたし一人で行くわ。」

皆が思案顔になったとき、おもむろに千尋がそう宣言した。

「…え?」

「姫、何を言っている。」

「だって私たちは城を攻め落としに来たわけじゃない。力を貸して欲しいと頼みに来たんだもの。例え小競り合いでも、戦闘になったら話なんて聞いてもらえなくなるわ。」

千尋は真っ先に反対しようとする風早と忍人に顔を向けた。

「だからといって、千尋をひとりで行かせるなんて…。」

「俺は反対だ。危険すぎる。」

「私も反対ですっ。姫を最前線に立たせるような真似はできませんっ。」

それまで成り行きを見守っていた布都彦も声を上げた。

「じゃあ、他にいい案があるの?」

その言葉に、皆グッと黙り込む。

「いいじゃねえか、姫さんに任せてみれば。向こうも丸腰の女人にいきなり手を出したりしねえだろ。」

「ありがとう、サザキ。」

唯一賛成してくれるサザキに、千尋が満面の笑みを向けた。

「どうでもいいけど、この場にアシュヴィンがいなくて良かったな。いたら僕達みんな無差別攻撃くらってるよ。」

「確かに…。さっきもサザキは千尋を抱いて飛んでましたしねぇ。」

那岐の言葉に、風早も苦笑いを浮かべる。

「風早、呑気に笑っている場合か。姫ひとりを危険に晒すことになるんだぞ。それでは俺たちがここにいる意味がないっ。」

「忍人、俺は黙って姫さんを待つつもりはないぜ?」

あくまでも反対の立場を取る忍人に、サザキがにやりと笑った。






















アクセスカウンター